私たちはキリストを知る「信仰」を賜ったおかげで、魂がキリストを慕い求められるようになった。「私のたましいは、夜あなたを慕います。まことに、私の内なる霊はあなたを切に求めます」(イザヤ26:9)。しかし、それは同時に、見えるもので平安を得ようとする「肉の思い」との戦いが始まったことを意味する。魂がキリストを慕い求めることに、すなわち心を神に向けることに、「肉の思い」が反抗してくるからだ。
こうした「肉の思い」との戦いで生じる苦しみを、「キリストゆえの苦しみ」という。つまり、私たちはキリストを信じる「信仰」を賜ったことでキリストを慕い求められるようにはなったが、同時にそのことで、「キリストゆえの苦しみ」をも賜ったのである。
「あなたがたは、キリストのために(キリストゆえに)、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための(キリストゆえの)苦しみをも賜ったのです」(ピリピ1:29)※( )は筆者が意味を補足
しかし、「キリストゆえの苦しみ」の先には「安息」が待っている。神を絶対的に信頼し、神と人とを愛することのできる自分が待っている。だから神は、「キリストゆえの苦しみ」を一緒になって背負い、「安息」にたどり着けるよう助けてくださる。前回のコラムでは、そうした「キリストゆえの苦しみ」について述べた。なお、前回のコラムの後編の(3)に1カ所誤りがあった。「十字架を背負わされ歩かされていたが」と書いた部分は誤りだったので、お詫びと訂正をしたい(すでにネット上では訂正済み)。
さて、今回考えてみたいことは、「キリストゆえの苦しみ」以外の「苦しみ」についてである。心を神に向けようとすることで生じる「キリストゆえの苦しみ」は神が助けてくださり、「安息」へと導かれるが、ならばそれ以外の「苦しみ」はどうなるのかである。例えば、心を神に向けようとしなくても、予期せぬ困難、人間関係のトラブル、自然災害、病気など、さまざまな出来事から「苦しみ」を覚えるが、神は助けてくださるのだろうか。それとも、こうした「苦しみ」は「キリストゆえの苦しみ」ではないので、神は助けてくださらないのだろうか。あるいは、そうした苦しみは、心を神に向けようとしないことに対する神からの罰なのだろうか。
このように、「苦しみ」に対してはさまざまな疑問が湧いてくる。そこで前回に引き続き、今回も「苦しみ」について考えてみたい。今回のコラムは、「なぜ苦しみがあるの?」である。なお、御言葉の引用は記載のない限り新改訳聖書第3版を使用する。
【なぜ苦しみに会う】
(1)神への疑問
第二次世界大戦の際、神がいるならなぜ戦争の苦しみを放置するのか、という疑問の声が上がった。他にも大きな災害が起きる度に、なぜ神は災害の苦しみから人を守ってくれないのかという疑問の声も上がる。先日、1歳になったばかりの赤ちゃんの葬儀を行ったが、こうしたことが起きると、神はなぜ赤ちゃんを助けなかったのかと、人は疑問を抱く。
このように、苦しみに遭うと、なぜ神は助けてくれないのかと人はつぶやいてしまう。神は何でもできる方ではないのかとつぶやく。そこから、ある人たちは、やはり神などいないと言う。またある人たちは、これは罪に対する神からの罰だと言う。特に、クリスチャンは神を信じているので、こうした苦しみは罪に対する神からの罰に違いないと考える傾向にある。少なくとも、イエスの弟子たちはそう考えた。だから彼らは、生まれながらに目が見えないことに苦しんでいる人を見たとき、次のような質問をイエスにぶつけた。
「弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。『先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか』」(ヨハネ9:2)
それに対するイエスの答えはこうであった。
「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです」(ヨハネ9:3)
イエスは、「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません」と言うことで、人の苦しみは罪に対する罰ではないと、断言された。そして、人の苦しみは「神のわざ」が現れるためだと言われた。ならば、一体どのような「神のわざ」が現れるというのだろう。そもそも「苦しみ」は罪に対する神の罰ではないというなら、それは一体どこから来たというのか。さらに言えば、神からの罰ではないのなら、「苦しみ」に遭わないように守ってはくれないのか。そうした疑問が湧いてくる。
今回のコラムは、こうした疑問を1つずつ丁寧に見ていきたい。いずれにせよ、「苦しみ」に対するイエスの答えは、「神のわざがこの人に現れるためです」であった。そこで、イエスが言われた「神のわざ」からひも解いていこう。そのわざを知るには、このあと、イエスが目の見えない人にされたことを見ればよい。
(2)神のわざ
イエスはこのあと、何と目の見えない人を癒やし、見えるようにされた。
「イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。『行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。』そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った」(ヨハネ9:6、7)
「神のわざ」とは、目の見えない人が、目が見えるようになるということであった。しかし、それは見た目の「神のわざ」にすぎなかった。真のわざは他にあった。そのことは、このあと目の見えなかった人がどうなったかを見れば容易に分かる。
目が癒やされた者を知る人たちは、彼が見えるようになったことで驚いた。本当に彼なのかと疑い、どうして見えるようになったのかと彼に質問をした。それでも納得がいかず、彼をパリサイ人たちの所に連れて行った。パリサイ人は、どのようにして見えるようになったのかと尋問したので、彼は事の経緯を説明した。しかし、彼らは信じなかった。それどころか、彼を迫害し追放した。イエスはそのことを知り、彼を呼んで尋ねられた。
「イエスは、彼らが彼を追放したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。『あなたは人の子を信じますか。』」(ヨハネ9:35)
彼は、「主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように」(ヨハネ9:36)と言った。それでイエスは、「あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです」(ヨハネ9:37)と言われたので、彼は次のように応答した。
「彼は言った。『主よ。私は信じます。』そして彼はイエスを拝した」(ヨハネ9:38)
こうして目が癒やされた者は、イエスを「人の子」として、すなわち救い主なる神として心から信じられるようになった。神に対する絶対的な信頼を手に入れ、「安息」を得たのである。それで、「彼はイエスを拝した」となった。それを見たイエスは、次のように言われた。
「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです」(ヨハネ9:39)
イエスはここで、目の癒やされた者が「人の子」を心から信じられるようになり、「安息」を得たことを指して、「目の見えない者が見えるようになる」ために来たと言われたのである。この言葉から、先にイエスが言われた「神のわざ」の真の中身を知ることができる。それは「人の子」を心から信じられるようにすることだと。神を絶対的に信頼できるように助け、「安息」を得られるようにすることだと分かる。これこそが目の見えない人、すなわちキリストを知らない人が、神に癒やされて目が見えるようになるということを意味する。人が「苦しみ」に遭うのは、まさにこうした神の慰めを受け、癒やされるためなのである。
「もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです」(Ⅱコリント1:6)
聖書は、私たちが「苦しみ」に遭うのは、キリストの慰めと「救い」を得るためだと教えている。「救い」と訳されるギリシャ語は「ソーゾー」[σῴζω]の名詞で、「ソーゾー」には「癒やす」という意味がある。というより、聖書は「癒やす」という意味でこの「ソーゾー」という言葉を使っている。ゆえに救いをもたらすキリストの十字架のことを、「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです」(Ⅰペテロ2:24)と教えている。
このように、人はなぜ「苦しみ」に遭うのかと疑問を抱くが、それは神の慰めを受け、癒やされるためなのである。このことを踏まえ、どうして人は「苦しみ」に遭うのか、そのことをさらに深く考えてみたい。
(3)慰められるため
冷たさを感じる人は、暖かさも感じられる。つらさを知る人は、甘さを知ることができる。体に痛みを覚える人は、痛みのない心地よさが分かる。死の怖さを知る人は、生きていられることの喜びが分かる。同様に、人は苦しみを知るからこそ、慰めを知ることができる。人は自分の罪から来る苦しみを知るから、罪が赦(ゆる)される慰めを知ることができる。逆に、自分には罪などないと言うのであれば、その人には罪を赦す神の慰めは不要となり、その人のうちには神の言葉が働かないことになる。
「もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません」(Ⅰヨハネ1:10)
つまり、私たちが「苦しみ」に遭うのは、キリストの「慰め」を知るためにほかならない。それだけではない。苦しみの中でキリストの慰めを知れば、人は同じように苦しんでいる人たちをも慰めることができるようになる。これが神の戒め、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」(マタイ22:39)の実行となり、神が人に望む姿となる。だから神は、人が「苦しみ」に遭うことを見過ごし、「苦しみ」に遭っている人を慰められる。
「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです」(Ⅱコリント1:4)
聖書は確かに、人が苦しみに遭う理由を、それは神に慰められるためであり、そのことで同じ苦しみの中にいる人を慰められるようになるためだと教えている。要は、隣人を愛せるようになるためだという。それは神を信頼し、神を愛せるようになることを意味する。「目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません」(Ⅰヨハネ4:20)。そこにこそ、神が人を造られた目的があり、人の「安息」がある。この「安息」に至ることを、魂が癒やされるという。
このように、「なぜ苦しみがあるの?」という疑問に対する神の回答は、「神の慰めを知り、隣人を愛せるようになるため」となる。それが人の「安息」となり、魂の癒やしとなるので、神は人が苦しみに遭うことを容認される。それはつまり、私たちには「キリストゆえの苦しみ」をはじめ、他にもさまざまな苦難があふれているが、慰めもまたキリストによってあふれているということだ。
「それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです」(Ⅱコリント1:5)
一体聖書に登場する信仰の人で、苦難を体験しなかった者がいるだろうか。誰もが苦難という苦しみの道を歩み、その中でキリストの慰めを知り、人を愛せる者へとなっていった。そして、「安息」に至った。
ならば、人が遭遇する「苦しみ」はどこから来るのだろう。人が「安息」に至るには「苦しみ」が必要だというのであれば、やはり「苦しみ」は神から来るのだろうか。イエスは、「苦しみ」は罪に対する神の罰ではないと言われたが、罰としてではなく、人に「安息」を得させるために、神が患難を引き起こし「苦しみ」をもたらすのだろうか。今度は、「苦しみ」の源を探ってみたい。これは、「神の福音」を理解する上で大変重要な事柄となるので、丁寧に見ていきたい。
【苦しみの源】
「苦しみ」をもたらす患難は、一体どこから来るのだろう。例えば戦争、例えば自然災害、例えば病気、それらはどうして起こるのだろう。神は天地を造り、人を造られたとき、「神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった」(創世記1:31)と言われたが、なぜ非常に良いものが患難を引き起こし、「苦しみ」をもたらすのだろう。当然のことながら、そうした疑問が湧いてくる。この疑問を解くには、「苦しみ」の原因から探っていく必要がある。
(1)「苦しみ」の原因
人を苦しめる患難に「戦争」がある。その戦争の多くは、富の奪い合いから生じる。ならば、なぜ人は富を奪い合うのか。それは、富が限られた量しかないからである。すべての被造物は「滅びの束縛」(ローマ8:20、21)の中にあって、「有限」であるがために限られた富となり、奪い合いが起きる。つまり、人を苦しめる戦争は、被造物が「有限」であることに起因する。
人を苦しめる患難に「自然災害」がある。その自然災害は、被造物がすべて「滅びの束縛」(ローマ8:20、21)の中にあり、「有限」であるがためにそうなる。やがて太陽は燃え尽きるように、自然界は滅びに向かっているためにさまざまな異変を繰り返す。つまり、人を苦しめる自然災害も、被造物が「有限」であることに起因する。
人を苦しめる患難に「病気」がある。その病気は「体の弱さ」に依存するが、その弱さは人の体が土に帰るしかないことから来ている。「あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る」(創世記3:19)。「体の弱さ」は、人の体は老いていくしかない「有限」の中にあるがために生じ、人は病気になる。つまり、人を苦しめる病気も、人が「有限」であることに起因する。
こうした苦しみの原因に共通するキーワードは、「有限」である。ならば、どうして神が造られた被造物はすべて「有限」という性質を帯びているのだろう。正確には、どうして被造物が人を苦しめる「有限」の姿になったのかである。なぜなら、神が造られた被造物はすべてが非常に良く、人を苦しめたりはしないように造られていたからだ。「神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった」(創世記1:31)。そこで神は、被造物のすべてが「有限」となり、人を苦しめるようになった理由をアダムにこう話された。
「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。・・・あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る」(創世記3:17~19)
神は自然界が「有限」となり、人を苦しめるようになった理由を、「あなたが(アダムが)、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので」と言われた。そのせいで、「土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった」と言われた。さらに人が「有限」になった理由も同じで、アダムが食べるという罪を犯したので、「あなたは土に帰る」ようになったと言われた。
このように、「苦しみ」の原因は「有限」にある。その「有限」は、アダムが罪を犯したことによると神は言われた。1人の人の罪のせいで、「それは非常に良かった」という神の被造物が「有限」という性質を帯びてしまったのである。新約聖書は、この時の出来事を次のように解説している。
「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです」(ローマ5:12、新共同訳)
ここでは「有限」という性質を帯びるようになったことを、「死が入り込んだ」と言っている。「死」が入り込んだことで、神の被造物は「有限」になったことを教えている。すなわち、「苦しみ」の原因は「死」にある。ならば、「死」とは一体何なのだろう。神の被造物を「有限」にしてしまう「死」とは、どのような事柄を指すのだろうか。そこで、あらためてアダムの罪によって入り込んだ「死」とは何であったのかを考えてみたい。そうしないと、「苦しみ」の源も正確には見えてこない。
(2)「死」とは何
私たちは「死」というと、「肉体の死」を思い浮かべる。滅びることを連想する。しかし、神の言われる「死」は、実はそうではない。そのことは、次の御言葉を見れば分かる。
「すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、」(Ⅰコリント15:22)
ここでは、「すべての人が死んでいる」と言っている。だが、私たちの体は生きていて、まだ死んではいない。従って、アダムによって入り込んだ「死」というのは、「肉体の死」ではない。それが「有限」(土に帰る体)をもたらすものであっても、神の言われる「死」は「肉体の死」ではなく、別の事柄を指す。その「死」こそ、「苦しみ」の源にほかならない。ならば、神の言われる「死」とは一体何なのだろうか。それを知るには、神がアダムに対し、「死」という言葉を使った出来事を見てみればよい。
「しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」(創世記2:17)
これは神がアダムに語られた言葉であるが、これを素直に読むなら、神の言われる「死」とは、人が善悪の知識の木の実を取って食べることで起きる出来事ということになる。食べたなら「必ず死ぬ」と言われた以上、食べたあとに何が起きたかを知れば、すなわち食べたあとの「変化」を知れば、神の言われた「死」が分かる。それには、食べる以前のアダムとエバの様子を知る必要があるが、それはこうであった。
「人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった」(創世記2:25)
ところが、実を取って食べた直後からはこうなった。
「このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った」(創世記3:7)
裸を意識していなかった2人が、食べたことで意識するようになった。自分たちの姿に「恐れ」を覚え、いちじくの葉で腰のおおいを作ったのである。この「変化」こそ、神の言われる「死」ということになる。「それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」という出来事になる。ならば、この「変化」の意味を詳細に分析してみよう。
聖書は、人は神に似せて造られたことを教えている。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記1:26)。その神は「われわれ」とあるように、三位一体の神であり、それぞれの位格は互いに「一つ思い」を共有し、それぞれを生かす関係にある。互いに無条件で愛し合い、互いに支え合う関係にある。それはまるで「三つ撚りの糸」であり、互いが支え合うことで、「神」という強い「一本の糸」を構成している。
人はそうした神に似せて造られたので、当然、神が「三つ撚りの糸」であるように、人も神に無条件で愛され、神としっかり結び合わさっていた。そのさまは、まるで神のからだの部分のようであった。「私たちはキリストのからだの部分だからです」(エペソ5:30)。だから人は自分の姿を意識するのではなく、自分のうちに生きておられる神だけを意識することができた。「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)。それで、「人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった」(創世記2:25)となった。
ところが、実を取って食べた直後から、「このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った」(創世記3:7)と、変化した。自分の姿を意識するようになったのである。それは、神との結びつきが見えなくなったということであり、神に愛されている姿を意識できなくなったことを意味する。それはつまり、人が神との結びつきを失ってしまったということである。
これが、神の言われた「死」であった。そんな「死」が入り込めば人は「不安」を覚え、裸である自分に「恐れ」を抱いてしまう。それで、「彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った」(創世記3:7)となり、その後も次のような行動に出た。
「それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」(創世記3:10)
このように、神の言われる「死」とは、神との結びつきを失うことを指す。それは、神と「疎外」された関係になったということでもある。ゆえに、「アダムにあってすべての人が死んでいるように」(Ⅰコリント15:22)となった。「死んでいる」とは、神との結びつきがないことを言い表している。聖書は、この「死」が「有限」という変化をもたらし、苦しみの原因になったことを教えている。ならば、人は神との結びつきを失うと(死が入り込むと)どうなるのか、詳しく見てみよう。
(3)「死」がもたらしたもの
人は食べてはならない物を食べたことで、神との結びつきを失ってしまった。神の言われた「死」が入り込んだ。だが、人は自分の姿に「恐れ」を覚えるだけで、自分たちに一体何が起きたのかが分からなかった。そこで神は、「死」が入り込んだことで何が起きたのかを教えられた。最初はエバに教えられた。
「わたしは、あなたのうめきと苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる」(創世記3:16)
神との結びつきを失うということは、神の保護を失うということを意味するので、神はそのことを、「あなたは、苦しんで子を産まなければならない」と、エバに分かる表現で教えられた。「苦しんで子を産まなければならない」とは、人は神の保護を失い、そのことで人の体は苦しみを覚えるようになったことを言い表している。
苦しみは体だけではなかった。神との結びつきを失うと心も苦しみを覚えるようになるので、「しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる」と、神はエバに分かる表現で教えられた。これはどういうことかというと、神との結びつきを失えば、神に愛されている自分を認識できなくなるので、人は「不安」を覚えてしまう。そうなれば、「愛されたい」という願望を持つようになり、愛されるための競争が勃発する。そこから嫉妬や怒りが生じ、誰が偉いかといった争いが起きるようになるので、「彼は、あなたを支配することになる」と言われたのである。
つまり、神との結びつきを失う「死」が入り込んだことで、体の苦しみや、人間関係の苦しみが生じるようになった。そして神は、続けてアダムに教えられた。
「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった」(創世記3:17)
これはアダムの罪によって、人が暮らす「土地」(世界)も、神との結びつきを失ってしまったことを言っている。人の「死」に連動し、すべての被造物までもが「滅びの束縛」(ローマ8:20、21)を受け、「無限」から「有限」になったということを言っている。それで人が暮らす「土地」(世界)は不安定となり、地震、台風、日照り、洪水といったことが起きるようになったので、神は続けてこう言われた。
「あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない」(創世記3:17、18)
この神の言葉から、神との結びつきを失う「死」は自然災害という苦しみも引き起こすようになったことが分かる。そうなると、限られた糧をめぐって人の間に争いが生じるようになる。今日の戦争という悲劇は、このことに起因する。さらに神の話は続く。
「あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない」(創世記3:19)
最後に神は、その「死」によって、人は「土に帰る」ことになったと告げられた。それは、人が神との結びつきを失ったので、もはや永遠には生きられなくなり、人の体は「無限」から「有限」になったということだ。これに伴い、人の体は病を覚えるようになった。体にまつわる苦しみは、このことに起因する。
こうして、神との結びつきを失う「死」は神の保護を奪い、神に愛されている自分を認識できなくさせ、「無限」から「有限」にし、さまざまな「苦しみ」をもたらすようになった。中でも人を苦しめたのが、愛されるための競争で生じる嫉妬や怒り、限られた糧を巡る争いである。それらは人を愛せなくさせるので、人を苦しめた。人は神に似せて造られ、「愛する」ことを旨とするので、人を愛せないことが人を苦しめるのである。しかも、人を愛せないことは「愛せよ」という神の律法にも逆らっているので、罪を犯していることになる。つまり、罪を犯すという苦しみも、神の言われる「死」に起因するのである。
「それゆえ、ちょうど一人の人を通して罪がこの世に入り、罪を通して死が入り、まさしくそのように、全ての人たちに死が広がった。その結果、全ての人が罪を犯すようになった」(ローマ5:12、私訳) 参照:福音の回復(34)
このように、神が慰めてくださるという「苦しみ」の源を探っていくと、それは「有限」に行き当たり、その「有限」は、神との結びつきを失う「死」に行き着く。その「死」は、神との結びつきを失うということであり、それが人の「苦しみ」の源であった。その「死」は、人を愛せなくさせる「罪」をも引き起こしていた。「死のとげは罪であり」(Ⅰコリント15:56)。そして聖書は、その「死」はアダムが罪を犯したことで入り込んだという。ならば、「苦しみ」の本当の源はアダムなのだろうか。それが結論なのだろうか。
しかし、そこには疑問が残る。アダムは神に似せて造られた者であり、その者がどうして罪を犯せるのかという疑問である。さらには、アダムが罪を犯したことで、どうして「死」が入り込んだのかも分からない。それは罪に対する神からの罰だったとすれば話は簡単なのだが、イエスは罪に対する罰を否定されている。「だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません」(ヨハネ12:47)。となれば、「死」はどこから来たのかという疑問が残る。
こうした疑問を解かない限り「苦しみ」の本当の源は確定しないので、ここは丁寧に疑問を解くしかない。その疑問は、「罪の出所」と「死の出所」である。それがもし「神」からとなれば、「神の福音」は、神が人を苦しめ、神が人を慰めるというわけの分からないものになってしまう。だが、「神」からではないとイエスが言われる以上、そのような福音にはならない。ならば、「罪の出所」と「死の出所」はどこなのか。この疑問を解いてみたい。
【「罪の出所」と「死の出所」】
人の「苦しみ」の源を探っていくと、どうしてもアダムの罪に行き着いてしまう。そうなると、なぜアダムは罪を犯したのかという疑問が湧いてくる。だがその疑問は、アダムが犯した罪の中身が分かれば容易に解ける。また、その罪に伴い「死」はどこから来たのかという疑問も、「罪イコール罰」という人の眼鏡を外しさえすれば容易に解ける。そこでまず、なぜアダムは罪を犯したのか、「罪の出所」の話から始めることにしよう。それには、アダムが犯した罪の中身を知ればよいので、罪とは何かから見ていくことにする。
(1)罪の出所
「罪とは律法に逆らうことなのです」(Ⅰヨハネ3:4)とあるように、罪とは神の命令に逆らうことをいう。人が神の命令に逆らうには、「神と異なる思い」を抱く必要がある。つまり、罪とは「神と異なる思い」を抱くことであり、「神と異なる思い」を心に持った時点で、その人は罪を犯したということになる。それでイエスは、「しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです」(マタイ5:28)と言われた。まさしく罪とは、「神と異なる思い」を指す。
そこで考えてほしいのは、アダムは神に似せて造られた者であって、彼の内側からは「神と異なる思い」など出て来るはずもなかったということだ。となれば、「神と異なる思い」は一体どこから来たというのか。どういうルートで「神と異なる思い」がアダムの中に入り込み、神の命令に逆らって食べてはならない実を食べてしまったのか。実は、そのルートを聖書は分かりやすく教えている。
それによると、「神と異なる思い」の出所は蛇であった。悪魔が蛇を使って、「食べても死なないから大丈夫」という「神と異なる思い」を、巧みにエバの中に持ち込んだ。「ただ、エバが蛇の悪だくみで欺かれたように」(Ⅱコリント11:3、新共同訳)。そして、エバに入った「神と異なる思い」は、彼女からアダムの中に持ち込まれ、アダムは罪を犯してしまった。そうした様子が、聖書にはつづられている(創世記3:1~6)。
すなわち、アダムが罪を犯すことができたのは、悪魔が「神と異なる思い」を持ち込んだからである。それで聖書は、「罪を犯している者は、悪魔から出た者です」(Ⅰヨハネ3:8)と教えている。ただし、聖書は悪魔の起源については沈黙しているので、悪魔がどうやって現れたのかは知る由もない。大事なことは悪魔の起源ではなく、人が覚える「苦しみ」は「死」に起因し、その「死」は、アダムの「罪」によって入り込み、それは悪魔の仕業によったということだ。ゆえに悪魔のことを、「死の力を持つ者」(ヘブル2:14)という。
これで、「罪の出所」が分かった。それは「悪魔」であった。ならば、その罪がどうして神との結びつきを失う「死」を招いたのだろう。一般に言われるのは、神が人の罪を見て怒り、罰として「死」が入り込んだということである。誰もが「罪イコール罰」という眼鏡を掛けているから、そのように考える。この世界では罪を犯せば罰せられるので、神もアダムの罪を見て裁いたと思ってしまう。しかしイエスは、神が人の罪を裁くという考えを拒否された。
「だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません」(ヨハネ12:47)
さらにイエスは、どんな罪も赦されることも教えられた。「人はその犯すどんな罪も赦していただけます」(マルコ3:28)。そればかりでなく、人が罪に対する神からの罰として受け止めてしまう「災い」に対しても、「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです」(ヨハネ9:3)と言われた。イエスは徹底して、罪に対する神の罰を否定された。ならば「死」は、一体どこから来たのだろう。前置きが長くなったが、今度は「死の出所」を見てみたい。
(2)死の出所
アダムは罪を犯した。彼は、食べてはならないと言われた実を食べた。しかし、それを食べるには、その前に、「食べても死なないから大丈夫」という「神と異なる思い」を食べる(心に入れる)必要があった。従って、アダムが犯した真の罪は、実際の実を食べたことではなく、「神と異なる思い」を食べたことにこそある。悪魔が持ち込んだ「神と異なる思い」をエバが食べ、それをアダムも食べてしまったことが彼の犯した罪にほかならない。
そこで考えてみてほしいのは、「神と異なる思い」を食べると、人はどうなるかである。人はキリストの部分として造られたので、「私たちはキリストのからだの部分だからです」(エペソ5:30)、神とは「一つ思い」を共有する関係にあった。そうである以上、「神と異なる思い」を食べればその関係は維持できなくなる。人はもう、神と「一つ思い」を共有することができなくなり、「一つ思い」の関係は自動的に崩壊する。
つまり、人は「神と異なる思い」を食べたことで(罪を犯したことで)、自動的に神との結びつきを失ったのである。それは、まさしく神の言われた「死」であった。だから悪魔はエバを欺き、「神と異なる思い」を持ち込ませたのである。それだけで「死」が入り込むことを知っていたからこそ、それだけをした。となれば、「死」は単に、罪に伴う報酬ということになる。ゆえに聖書は、「罪」と「死」の関係を次のように教えている。
「罪から来る報酬は死です」(ローマ6:23)
ここで「報酬」と訳されているギリシャ語は「オプソーニオン」[ὀψώνιον]で、これは当然予想される自然の結果を意味する言葉だ。分かりやすく言うと、人は高い所から飛び降りればケガをするが、その場合のケガは第三者による罰でも報いでもない。そのケガは、ただ飛び降りるという行為に伴って生じたのであって、そんなことをすればケガをするのは当然予想できる。そうした当然予想できる事柄を「オプソーニオン」という。ゆえに、「罪から来る報酬は死です」は、罪を犯せば自動的に死が訪れるという意味になる。
ところがこの御言葉を、「罪イコール罰」という眼鏡を掛ける人たちは原文を無視し、罪を犯せば神から死という罰を受けるという意味に解釈してしまう。「オプソーニオン」という言葉を、本人がしたことに対する第三者による「報い」という意味に解してしまう。しかし、「オプソーニオン」にはそのような意味はない。そうした「報い」という意味を持つのは、「ティモーリア」[τιμωρία]というギリシャ語である。従って「ティモーリア」が使われていて、「罪から来る“報い”は死です」と書かれていれば、罪を犯せば神から死という罰を受けるという意味になるが、ここはそうではない。あくまでも「報酬」を意味する「オプソーニオン」が使われているので、「死」は罪を犯せば生じる自然の結果であって、神からの罰ではないことを説明している。
つまり、こういうことである。取って食べるには「神と異なる思い」を食べる必要があり、そのようなことをすれば、神との「一つ思い」を共有する関係は自動的に壊れてしまう。それで神は、「食べるとき、あなたは必ず死ぬ」と言われたのである。譬(たと)えるなら、「毒キノコを食べたなら、必ず死ぬ」と言うのと同じだ。神は、悪魔という毒キノコの存在を知っていたので、そのように言われたのである。すなわち神がアダムに言われた「食べるとき、あなたは必ず死ぬ」も、「罪から来る報酬は死です」(ローマ6:23)も、まったく同じ内容を言っている(参照:福音の回復(35))。
このことに納得がいかなければ、もう一度、神の言われた「死」を思い出してほしい。それは、人が神との結びつきを失うことであった。ならば、何をすれば神との結びつき、すなわち神との関係が壊れてしまうかを考えてみてほしい。人は神に似せて造られ、神とは「一つ思い」を共有する関係にあった以上、「神と異なる思い」を持つことで関係を壊すことができる。だから、「神と異なる思い」を持つという罪を犯せば、自動的に神の言われる「死」が訪れる。ゆえに、神は「食べるとき、あなたは必ず死ぬ」と言われ、「罪から来る報酬は死です」(ローマ6:23)と教えている。
つまり、「死」の出所は「神の罰」ではない。このことは、神ご自身の言葉も証ししている。神は、「食べるとき、あなたは必ず死ぬ」(創世記2:17)と言ったのであって、「食べたなら罰として死を与える」と言われたのではないからだ。また神は、アダムとエバが裸であることを知るようになったのを見て、アダムにこう言われた。
「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか」(創世記3:11)
人が裸を知る術は2つしかなかった。1つは悪魔から教えられるか、もう1つは食べて神との結びつきを失うかのどちらかしかなかった。それで神は、このように言われたのである。仮に、神との結びつきを失う「死」が神の罰であったなら、このような言い方はされなかった。裸を知るようになる「死」は、神のあずかり知らないところでの出来事であり、それは「食べてはならない、と命じておいた木から食べた」ことで生じる「報酬」だったので、このように言われたのである。
無論、神は全知全能なる方なので、アダムが食べたことは分かっていたが、このように言うことで、彼らを襲った変化(死)はご自分から出たものではないことと、ご自分の立ち位置を同時に教えようとされた。それは、あくまでも人を「死」から贖(あがな)い出す立ち位置だと。いずれにせよ、こうした神の言葉は、「死」が神の罰ではなかったことを十分に証ししている。
このように、「死」は、アダムが罪を犯したことで自動的に入り込んできた出来事であった。高い所から飛び降りれば、自動的にケガをするというのと同じである。「死の出所」は、あくまでも罪(神と異なる思い)であり、その罪は悪魔の仕業によるので、悪魔のことを「死の力を持つ者」(ヘブル2:14)という。その罪で人は死んでしまったので、イエスは悪魔のことを、「悪魔は初めから人殺し」(ヨハネ8:44)だと言われた。すべては悪魔の仕業であって、神が「死の力を持つ者」でも「人殺し」でもない。
(3)「死」は神の罰ではない
見てきたように、苦しみの源は「悪魔」である。ここで大事なことは、「死」は悪魔の仕業によるのであって、罪に対する神の罰ではなかったということだ。だから、人を苦しめる「死」は神にとっての敵となり、神はそれを滅ぼされる。「最後の敵である死も滅ぼされます」(Ⅰコリント15:26)。だが、もし「死」が神から出た罰であれば、「死」は神の仲間であり、敵になどなり得ない。
そもそも聖書に、アダムが罪を犯したので、罰として神が「死」をもたらしたという記述はどこにもない。ただ教えているのは、罪を犯したから「死」が入り込んだということだけである。神によってではなく、人の罪によって「死」が入り込んだことしか教えていない。
「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです」(ローマ5:12、新共同訳)
するとある人は、神はアダムとエバをエデンの園から追放したではないかと言う。あれこそが、罪に対する神の罰として「死」が入り込んだことを表していると言う。
しかしそれは、「それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」(創世記2:17)と、神が言われた「死」ではない。神が「必ず死ぬ」と言われた出来事は、あくまでも「それを取って食べるとき」に起きた「変化」だけを指す。エデンの園からの追放は、食べてから随分と時がたってからの出来事であり、神の言われた「死」とは無関係である。さらに言うと、神は彼らを追放する前にこう言われた。
「見よ。人はわれわれのうちのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、人がその手を伸ばして、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きることがないようにしよう」(創世記3:22)
「善悪を知るようになった」とは、入り込んだ「死」によって、人は「神と異なる思い」を持つようになり、独自の善悪を知るようになったということだ。「人がその手を伸ばして、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きることがないように」とは、自らの行いで「安息」を手にすることがないようにという意味である。というのも、神は人の行いに関係なく人を贖い、「安息」へと導くおつもりであったからだ。そのことは、この直前の出来事を見れば分かる。
神は、アダムとエバを追放される前、彼らに「皮の衣」を着せられた。「神である【主】は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった」(創世記3:21)。「神と異なる思い」を持つようになった2人が裸であることに恐れを抱いていたので、彼らの行いには関係なく贖われたのである。それにより、「安息」を得させようとされた。この延長で、エデンの園から追放されたにすぎない。そうすれば、「死」がもたらした「苦しみ」を容易に自覚できるようになり、行いに関係なく愛される神の贖いをさらに受け取ることができるからだ。それは、さらなる「安息」へとつながる。つまりこれは、罪に対する神の罰ではない。見た目には「主の懲らしめ」のように見えるが、「平安な義の実」を結ばせるためであった。
「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。・・・すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます」(ヘブル12:5~11)
すなわち、神の立ち位置は、一貫して人の苦しみを慰めようとすることにあった。だから人が裸である自分に「恐れ」を抱いて苦しんでいるとき、「それで私は裸なので、恐れて、隠れました」(創世記3:10)、神はなぜそのようなことになったのかと尋ね、「あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか」(創世記3:11)、「皮の衣」を人に着せられた。これは十字架の贖いの「型」であり、エデンの園の追放は、その一環にすぎなかった(参照:福音の回復(35))。
このように、人に「苦しみ」をもたらした「死」は、神からの罰として入り込んだのでは決してない。それはアダムの罪によって入り込んだ。すべての人は神によってではなく、アダムによって死んだのである。「つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように」(Ⅰコリント15:22、新共同訳)。従って、人が覚える「苦しみ」の源は、アダムに罪を持ち込んだ「悪魔」ということで間違いない。それでヨブ記では、「苦しみ」となる災いが悪魔によってもたらされる様子がつづられている(ヨブ記1章)。
そうであれば、今まで述べてきた疑問はすべて解け、「神の福音」は実に筋の通ったものとなる。それだけではない。なぜ神はどのような苦しみでも慰めてくださるのか、「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます」(Ⅱコリント1:4)、その理由も明らかとなる。それは、苦しみの原因が悪魔の仕業による「死」にあるからだ。苦しみは、私たちのあずかり知らないところでの出来事に起因するから、神は私たちを何としても慰めてくださるのだ(参照:福音の回復(36))。では、最後に総括をしよう。
【総括】
(1)筋の通った福音
「なぜ苦しみがあるの?」というタイトルで、苦しみの理由、苦しみの源、それらを丁寧に見てきた。その結果、人が覚える「苦しみ」の源は悪魔だと分かった。神は、人の「苦しみ」には一切関与されていなかった。むしろ、神は悪魔が「初めから人殺し」であって、そのための「神と異なる思い」を持っていることを知っていたので、あらかじめ「それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」とアダムに警告されていた。初めから神は、苦しみから人を守ろうとする立ち位置にあった。
しかし、人は悪魔に欺かれ食べてしまった。この罪により神との結びつきが自動的に崩壊し、人の中に「死」が入り込み、人は「苦しみ」を覚えるようになった。そうである以上、人が出会う「苦しみ」は神からの罰でも、神が与える「試練」でもない(参照:福音の回復(36))。それでイエスは、人の「苦しみ」に対し、「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです」(ヨハネ9:3)と言われたのである。さらには、次のようにも言われた。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11:28)
苦しみ(重荷)が神からの罰であれば、神から出たものであれば、イエスはこのようなことは決して言われなかった。人の重荷は悪魔の仕業であることを知っていたので、このように言われたのである。
それで神は、イエスとして悪魔の仕業を打ち壊すために来られた。「神の子が現れたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです」(Ⅰヨハネ3:8)。来られた神は、ご自分の十字架の死をもって悪魔を滅ぼした。「その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし」(ヘブル2:14)。だが悪魔を滅ぼしても、悪魔の仕業によって入り込んだ「死」の処分が残っていた。悪魔が直接手を下さなくても、その「死」が人を苦しめた。そこで神は、「死」を最後の敵とし、滅ぼしてくださる。「最後の敵である死も滅ぼされます」(Ⅰコリント15:26)。(参照:福音の回復(49))
このように、苦しみの源が分かれば、まことに筋の通った話が見えてくる。同時に、神に対し、「なぜ苦しみがあるの?」というつぶやきも消滅する。なぜなら、神が「苦しみ」を引き起こしているのではないからだ。神は、悪魔の仕業による「苦しみ」から人を助けようとされているだけである。
それだけではない。このことが分かれば、なぜ神には「罪イコール罰」という眼鏡がないのかも分かる。それは、罪が悪魔の仕業によるからである。ゆえにキリストは、私たちのあずかり知らないところで十字架に架かり、そのことで私たちを義と認め、救ってくださるのである。「こういうわけで、ちょうどひとりの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、ひとりの義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられるのです」(ローマ5:18)。そうであれば、まことに筋の通った福音となる。
(2)筋の通らない福音
ところが、「死」が神からの罰であったとするなら、神が人を苦しめ、神が人を慰めるという、まことに筋の通らない福音になってしまう。それだけではない。「神の福音」は、さらなる迷路に入る。そのことを説明しよう。
聖書は一貫して、悪魔の仕業でアダムが罪を犯し、その罪で「死」が入り込み、その結果、人は罪を犯すようになったことを教えている。「全ての人たちに死が広がった。その結果、全ての人が罪を犯すようになった」(ローマ5:12、私訳)。私たちが「死」に支配されたことで、私たちの中に罪が君臨するようになったことを教えている。「それは、罪が死によって支配したように」(ローマ5:21)。一貫して、「死のとげ」が私たちの罪であることを教えている。「死のとげは罪であり」(Ⅰコリント15:56)。
その「死」が、悪魔の仕業ではなく神からの罰となれば、神が罪の創造者になり、神こそが人を苦しめるまことの敵ということになってしまう。そうなると、罪から救い出すという「神の福音」は、もう説明がつかなくなる。こうして「神の福音」は迷路に入り、筋の通らない福音になる。それを何とかしようとして、さまざまな福音が生まれる。
無論、聖書が教える福音は本来、筋が通っている。聖書は、「死」は悪魔の仕業であり、そのことで人は苦しみ罪を犯すようになったことを教えているからだ。それゆえイエスは、この世を罪で支配するようになった悪魔だけが、裁きの対象だと言われた。「さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです」(ヨハネ16:11)。
神も、アダムとエバが罪を犯した際は、彼らに罪を犯させた悪魔にだけ向かって、「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく」(創世記3:15)と言われた。アダムとエバに対しては逆にあわれみ、「皮の衣」を作って着せられた(創世記3:21)。
そうであるから、キリストの呼び掛けを受け入れるだけで人は救われる。罪を犯しても裁かれることなく、誰であれキリストの救いを受け取ることができる。しかし、キリストの呼び掛けを拒否するのであれば、その人はアダムによって入り込んだ「死」により、神との結びつきがない死んだままの状態にあるので、やがて土に帰るのを待つしかない。「あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る」(創世記3:19)
このように、「苦しみ」は「死」によって生じるようになり、その「死」は悪魔の仕業であったことが分かれば、まことに筋の通った福音になり、何ら無理が生じない。人が犯す罪は「死」に原因があると知れば、罪は病気と同じであることが分かり、イエスの言われた次の言葉もまことに理解できるようになる。
「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」(ルカ2:17)
さらには、私たちの罪を背負ったキリストの十字架を解説した御言葉も、まことに理解できるようになる。
「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです」(Ⅰペテロ2:24)
聖書は一貫して、人の罪を「病気」としている。人が覚える「苦しみ」も同様である。それゆえ、神は人が覚える「苦しみ」は何であれ慰め、癒やそうとされる。それが「神の福音」なのである。
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