「死」はどこから来た?
前回は、「罪の起源」について見てきた。今回は、「死の起源」について考えてみたい。その前に、「罪の起源」を簡単におさらいしよう。
アダムが罪を犯したことで、神との結びつきを失う「死」が入り込み、アダムは神に愛されている自分を認識できなくなった。そのことで「不安」を抱くようになり、何としても「平安」を得ようと、必死になって愛される自分になろうとした。ゆえに、「死」が入り込んだあとアダムは、いちじくの木の葉で腰のおおいを作り、罪を指摘されるとエバのせいにした(創世記3:7~12)。
こうして、人の中に愛されるための競争が始まり、嫉妬が起き、怒りが起き、そのことがさまざまな罪の行為へと発展していった。カインがアベルを殺したのも、そのことに起因した(創世記4:1~8)。
まことに私たちにおける「罪の起源」は、アダムが罪を犯したことで入り込んだ「死」にあった。その結果、人は罪を犯すようになったのである[参照:福音の回復(34)]。
「それゆえ、ちょうど一人の人を通して罪がこの世に入り、罪を通して死が入り、まさしくそのように、全ての人たちに死が広がった。その結果、全ての人が罪を犯すようになった」(ローマ5:12、私訳)
以上が、前回までの話であった。すると、ここに疑問が湧いてくる。アダムが罪を犯したことで、なぜ「死」が入り込んだのかという疑問である。つまり、「死」は一体どこから来たのかという疑問が湧いてくる。その疑問に対し、人はこう考えた。
アダムが罪を犯したので神は怒り、罰として神が「死」をもたらしたと。神が人との関係を断ち切ったと考えた。そして、私たちの命もアダムの中にあったので、私たちも「死」という罰を背負わされることになったと考えた。
あるいは、私たちはアダムの子孫ゆえ、アダム同様に罪を犯す堕落した者となったので、罰として「死」を背負わされたと考えた。要するに、「死」は神から来たとし、罪に対する「神の罰」であるとした。それは「神の怒り」であり、「神の呪い」であると考えたのである。
となると、私たちは堕落した者であり、神の目には「ダメな者」ということになる。今の私たちは「神の呪い」の中にいて、そのままでは決して愛されない者ということになり、神が言われた、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ43:4)は、嘘(うそ)ということになる。
それだけではない。本当に「死」は神からの罰となれば、他にもさまざまな矛盾や疑問が一気に噴出する。それを箇条書きにすると以下のようになる。
矛盾や疑問
①神が罪の生みの親?
聖書は一貫して、「死」が原因で私たちが罪を犯すようになったことを教えている。「死のとげは罪であり」(Ⅰコリント15:56)。「死」が人を支配するようになったことで、私たちの中に罪が君臨するようになったことを教えている。「それは、罪が死によって支配したように」(ローマ5:21)。
ということは、「死」が神からの罰となれば、神が私たちに罪を犯すよう仕向けたことになり、神こそが「罪の生みの親」という話になってしまう。これは、罪と一貫して戦われてきた神の姿と完全に矛盾する。
②神も罪を犯す?
私たちは罪を犯す堕落した者となったので、神から「死」という罰を背負わされたとなれば、私たちは神に似せて造られた以上、神も私たちと同様に堕落する性質を持っておられることになり、私たち同様に罪を犯す可能性があるということになる。そうなると、罪を犯すことができないとする神の性質とは完全に矛盾してしまう。
③三位一体の神?
「死」が罪に対する神からの罰であり、私たちは神の怒りの中にいるとなれば、罪を取り除くキリストの十字架は神の怒りを鎮めるためであったことになる。そうすると、キリストと父なる神は、全く考えを異にする方ということになり、同じ思いを共有する三位一体の神とは完全に矛盾する。
④イエスも罪を犯した?
私たちもアダムにあって罪を犯したので、罰として「死」を背負わされ、滅び行く「肉の体」になったのなら、すなわち「肉の体」は罪を犯したことの結果となれば、イエスはどうなってしまうのだろう。イエスも「肉の体」を持って来られたので、アダムにあって罪を犯したということなのか。この疑問は、いまだ解かれていない。
⑤イエスは嘘をついたのか?
そもそもイエスは、罪に対してこう言われた。「だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません」(ヨハネ12:47)。あるいは、「だから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒涜(ぼうとく)も赦(ゆる)していただけます。しかし、御霊に逆らう冒涜は赦されません」(マタイ12:31)と言われた。「御霊に逆らう冒涜は赦されません」とは、キリストを信じさせようとする御霊の働きを拒む罪であり、キリストを信じないことを指す。
このイエスの言葉が真実であるなら、どうして神はアダムの罪をさばかれたのか、という疑問が生じる。アダムが犯した罪は、食べるなと言われた物を食べただけであり、神を信じないという罪ではなかったからだ。あくまでもイエスが言われた、「どんな罪も冒涜も赦していただけます」に該当する罪であった。にもかかわらず、神はアダムの罪を怒り、「死」に処したとなれば、イエスは罪の処分について嘘をついたということなのだろうか。
このように、「死」を神からの罰とするなら、さまざまな矛盾や疑問が一気に噴出してくる。しかし人は、「死」を罪に対する神の罰と解したために、こうした矛盾や疑問への返答に追われる羽目になった。その結果、それに対するさまざまな回答が生まれ、今日に至ってもどの回答が正しいかと論争が続いている。どうしてこのような事態になったのだろう。それを知るには、次の話が大いに役立つ。
「有名な外科医」の話
「有名な外科医がいた。ある日のこと、交通事故で大けがをした親子が緊急搬送されてきた。父親はすでに死亡していた。子どもは重傷であった。早速、有名な外科医は子どもを治療しようとした。その時、有名な外科医は叫んだ。『これは私の息子だ!』」
これを読んで、重傷を負った子どもと「有名な外科医」との関係が分かるだろうか。多くの人は「有名な外科医」というと、自らの「経験」から「男性」を連想するために、この子の実の父親だと思ってしまう。そうなると、死亡した父親という人は、一体誰だったのかという疑問が生じる。そこで人は、それを合理的に解決するためのさまざまな回答を試みる。
例えば、この「有名な外科医」は離婚し、今回事故を起こしたのは離婚した妻の再婚相手だという回答を試みる。あるいは、「有名な外科医」が、何らかの理由で自分の息子を養子に出し、その養子先の父親と事故に遭ったとする回答を試みる。あるいは、この子は誘拐され行方不明になっていた実の子であり、誘拐した男と事故に遭ったという回答を試みる。あるいは、この「有名な外科医」は勘違いをしたか、嘘をついたとする回答を試みる。そして、互いにどちらの回答が優れているかを巡って論争が起きる。
しかし、どの回答も正解ではない。この「有名な外科医」は「女性」であり、事故に遭った子どもの「母親」であった。交通事故で死亡したのは自分の夫であり、実の息子が大ケガをして運ばれて来たので、「これは私の息子だ!」と叫んだ。
この答えを聞くと、人は一様に納得し、自分の回答を取り下げる。誰もこの答えに異議を唱えない。そうであれば、実に筋の通った自然な話になり、何の矛盾も疑問も生じないからだ。そして、人は一様に思う。「何だ、実に簡単な答えではないか」と。
ところが、こんな簡単な答えが、自分の「経験」に惑わされ、見いだせないのである。これこそが、「経験」から来る惑わしの恐ろしさにほかならない[参照:福音の回復(6)(7)]。
先ほどの「死」の話は、これとまったく同じである。人は「罪」と聞くと、積み上げてきた「経験」から勝手に「罰」を連想し、その罰が神からの「死」だと思い込んでしまう。そのため、アダムが罪を犯した記事を読むと、何の疑いもなく、神が罰として「死」を背負わせたと勝手に決めてかかる。
そのようなことは何も書かれていないのだが、「有名な外科医」の話同様に、勝手に思い込んでしまうのである。そうなると、先に述べたような矛盾と疑問が生じてしまうので、何とか合理的な説明をしようとさまざまな回答を試みる。
しかし、「死」は神からの罰ではなかったとなれば、実は何の矛盾も疑問も生じない。「有名な外科医」は「女性」だと知れば、何の矛盾も疑問も生じなかったのと同じである。
そこで今回のコラムは、前置きが大変長くなったが、「死」は神からの罰でなかったことを丁寧に説明したい。というのも、これは「神の福音」理解における肝となるからだ。まことに今回の話は、目から鱗(うろこ)となることだろう。
罪から来る報酬は死
人は自らの経験から、「死」は人の罪に対する神からの罰と考え、そのことにまったく疑問を抱かない。それどころか、聖書もそう教えていると思い込んでいる。その際、次の御言葉が必ず引き合いに出される。
「罪から来る報酬は死です」(ローマ6:23)
しかし、ここで「報酬」と訳されているギリシャ語は「オプソーニオン」[ὀψώνιον]であって、これは当然予想される自然の結果を意味する。分かりやすく言うと、人は高いところから飛び降りればケガをするが、その場合のケガは第三者による罰でも報いでもない。
そのケガは、ただ飛び降りるという行為に伴って生じたのであって、ケガをすることは当然予想できる。そうした当然予想できる事柄を「オプソーニオン」という。このことを、今度は別の事例で説明してみよう。
親が子どもに、千円で草刈りをお願いした。子どもは草刈りをしたので、親は千円をあげた。子どもにしてみれば、この千円は当然予測できたので、これは「報酬」となる。
一方、別の親は、ただ子どもに草刈りをお願いした。子どもはきれいに草を刈った。そこで親はよくやったと言って千円のお小遣いをあげた。この場合の千円は、子どもにしてみれば予測できなかったので「報酬」ではなく、「報い」となる。まさに「オプソーニオン」とは、日本語の「報酬」に当たる言葉であって、「報い」とは違う。
すなわち、「罪から来る報酬は死です」とは、人の「死」は第三者による報い(罰)ではないことを示している。神ご自身も、人が罪を犯せば自動的に死が訪れることを知っていたので、「しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」(創世記2:17)と言われたのである。
「善悪の知識の木」を「毒キノコ」に例えるなら、神は「毒キノコを食べると、必ず死ぬ」と言われたのであった。要は、「罪を犯せば、自動的に死んでしまう」と言われた。「罪」と「死」とは、まさしくそうした関係にあったからこそ、聖書は「罪から来る報酬は死です」と教えている。
では、なぜ「罪」と「死」がそうした関係にあったのだろう。それは「罪」とは何かを知れば容易に分かる。
「罪」と「死」の関係
神は人を造られたとき、人も神と1つ思いを共有するよう神に似せて造られた(創世記1:26)。つまり、人は神の部分として造られて、「私たちはキリストのからだの部分だからです」(エペソ5:30)、神と共に生きるようにされた。そのため、人がわずかでも「神と異なる思い」を持つと、神と1つ思いを共有する関係は維持できなくなり、人は神との結びつきを失うようになっていた。
そうしたことから、「神と異なる思い」を持つことが、すなわち「神の律法」に逆らう思いを持つことが、人における罪となった。だから聖書は、「罪とは律法に逆らうことなのです」(Ⅰヨハネ3:4)と教えている。「神の律法に逆らう」とは、まさに「神と異なる思い」を心に持つことを意味する。
当然、悪魔はそこに目を付けた。そこで悪魔は蛇を使い、言葉巧みに人を欺き、「神と異なる思い」を信じさせ、食べてはならないと言われていた物を食べさせてしまった。「蛇が悪巧みによってエバを欺いたように」(Ⅱコリント11:3)。これが、人類最初の罪となり、その罪の結果、自動的に神と1つ思いを共有する関係は崩壊し、人は神との結びつきを失ってしまった。
これが「死」であり、そこには神の関与はまったくなかった。それゆえ神は、「それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」(創世記2:17)と教えていた。まことに、「罪」と「死」の関係は、「罪から来る報酬は死です」(ローマ6:23)なのである。
そもそも「死」が人の罪に対する神からの罰であり、そのことを述べたかったのであれば、「罪から来る報酬は死です」ではなく、「罪から来る処罰は死です」と教えていた。ギリシャ語には、第三者が「報い」として与える「処罰」を言い表す「ティモーリア」[τιμωρία]という言葉があるので、その言葉を使えばよかった。
ところが、ここではあえて「オプソーニオン」という言葉が使われている。それは、「死」がアダムの罪に伴い生じた出来事であり、神の罰ではなかったからだ。
このように、罪とは「神と異なる思い」を持つことだと知るなら、人が罪を犯せば自動的に神との結びつきを失ってしまうことが分かる。それが「死」であり、あくまでもこれは罪に伴う出来事にすぎない。
さらに言うと、「死」を招く「神と異なる思い」を信じさせたのは、まさしく悪魔の仕業によったので、聖書は悪魔のことを「死の力を持つ者」と呼ぶ。「悪魔という、死の力を持つ者」(ヘブル2:14)。神のことを、「死の力を持つ者」とは呼ばない。では、さらに「死」は神の罰ではなかったことを、今度は神の証言からも見てみよう。
神の証言
「死」が神の罰でなかったことは、罪を犯したアダムに対し、神がされた質問を見れば容易に分かる。
「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか」(創世記3:11)
ここで神は、「だれが」、裸であることを教えたのかと聞かれたが、アダムが裸である自分を知ったのは、まさに神との結びつきを失う「死」が入り込んだからであった。つまり、神はここで、どうして「死」を招いたのかと聞かれたのである。「死」が神からの罰であったなら、決してこのような質問はされなかった。「お前が罪を犯したので、私はお前との関係を断ち切った。だから、お前は裸である自分を知るようになった」と言っていた。
さらに神は、「あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか」と聞き直された。食べたなら死ぬと注意していた物を、「食べたのか」と聞かれたのである。この言葉からも、食べたことで、裸を知る「死」が入り込んだことが分かる。「死」は神からの罰ではなく、「神と異なる思い」を食べたことに伴う出来事であったことが十分に分かる。
こうした一連の神の証言こそ、まことに「死」は神の罰ではなかったことを裏付けている。もしそうではないと言うのなら、神はここで人を欺いたことになる。自分が「死」をもたらしておきながら、嘘をついてとぼけたことになる。
それでも人は言う。神はアダムとエバをエデンの園から追い出したではないかと。あれこそ、神が人との関係を断ち切った「死」であり、「死」は神の罰であったことを明確に示していると言い張る。本当にそうなのだろうか。
エデンの園を追い出す
神が「死」について言われたことは、「それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」(創世記2:17)であった。食べた「とき」に起きたことは、裸を知る出来事であって、エデンの園からの追放ではない。
無論、「とき」と訳されているヘブライ語は「ヨーム」[יוֹם]なので、「その時」(time)という意味の他にも、1日を表す「day」の意味も、1年を表す「year」の意味もあり、エデンの園を追い出した出来事を指していたとも解せる。しかし、ここでの「ヨーム」は、明らかに食べた「その時」(time)を指していた。その理由はこうである。
アダムは食べた「その時」、裸を知るようになった。そのことで恥ずかしいと感じる「劣等感」を持つようになり、「愛せよ」という御心とは真逆の「愛されたい」という「罪の思い」を抱くようになった。そのことの現れが、いちじくの木の葉で腰のおおいを作ることであった(創世記3:7)。
新約聖書は、「死」が「罪の思い」になったと定義する以上、「死のとげは罪であり」(Ⅰコリント15:56)、食べた「とき」に起きた「死」とは、明らかに裸を知る出来事を指している。エデンの園からの追放と「死」とは、まったく無関係であった。ならば、どうして神はアダムとエバをエデンの園から追い出したのだろう。そのことも併せて見ておこう。
神は彼らを追放した理由を、はっきりこう言われた。
「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように」(創世記3:22)
アダムは神との結びつきを失う「死」により、「愛されたい」という願望に生きるようになり、自分が愛されるための「善悪」を知るようになった。それで神は、「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった」と言われた。
その「善悪」の知識は、アダムがいちじくの木の葉で腰のおおいを作ったように、「行い」でもって愛されようとする知識であった。そのため、アダムは「行い」でもって神の義を獲得し、神に愛されることを目指すようになった。つまり、「行い」の義をもって、神と永遠に生きようとしたのである。そのことを、「手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ」と言われた。
しかし、その考えは誤りであった。人が義とされるのは信仰によるのであって、「行い」ではなかったからだ。「人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです」(ローマ3:28)。ゆえに神は、神の義を象徴する「いのちの木」に人が自らの力で(行いで)近づくことができないよう、その道をふさがれたのである。
これが、アダムとエバを追放した出来事の真相であり、それはまさしく「神の愛」の何ものでもなかった。彼らを助けようとしたのであって、神の罰などでは決してなかった。ましてや、神が人との関係を断ち切る「死」を意味するものでもなかった。
かつてイエスは、弟子たちの前から自分の姿を見えなくすることをこう言われた。「また、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです」(ヨハネ16:10)。神がアダムとエバにされたことは、まさしくこれとまったく同じである。
このように、「死」は神から来たのではない。そもそも創世記3章のどこにも、神は人の罪に対して怒り、「死」をもって罰したという記事はない。それどころか、神との結びつきを失う「死」によって裸の自分を知るようになったアダムとエバに、神は優しく皮の衣を着せられた。
「神である【主】は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった」(創世記3:21)。「死」は神からの罰ではなかったから、彼らをあわれみ、そうされたのである。では、「死」は神から来たのではないことを示す決定的な御言葉を最後に紹介しよう。
「死」は神の敵
聖書にこうある。
「最後の敵である死も滅ぼされます」(Ⅰコリント15:26)
ここに、「死」は神にとって「最後の敵」であることが述べられている。ということは、「死」は神から出たとなれば、「最後の敵」は神ご自身ということになってしまう。「死」が神からの罰であれば、神こそが「死の力」を持つ者であり「最後の敵」ということになる。
だが、聖書は断言する。「死の力」を持つ者は「悪魔」であり、キリストがその「悪魔」を滅ぼしたと。「これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし」(ヘブル2:14)。それにより、キリストは「死」を滅ぼしたのだと。「キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました」(Ⅱテモテ1:10)。
そのおかげで、人は「最後の敵」である「死」が完全に滅ぼされることを、「終わりの日」に知ることができる。「終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです」(Ⅰコリント15:52)。
これが真実であれば、「死」が神からの罰になどなりようがない。つまり、「最後の敵である死も滅ぼされます」(Ⅰコリント15:26)という御言葉こそ、「死」は神の罰ではなかったことを示す決定打となる。
「死」は神の罰ではない
見てきたように、アダムの罪を通して入り込んだ「死」は、神からの罰ではなく、あくまでもアダムとエバの罪に伴う出来事であり、罪の報酬が「死」であった。だから聖書は、「というのは、死がひとりの人を通して来たように」(Ⅰコリント15:21)と綴(つづ)っている。「死」はアダムを通して来たと言い、神の関与はまったくなかったことを表現している。
また、「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り」(ローマ5:12)と言い、「罪によって神が死を下し」とは言っていない。「死」については、あくまでも罪に伴う出来事として表現している。
そして、「死」とは神との結びつきを失ってしまうことだったので、そのことで人は永遠に生きることができなくなり、それに伴い「体」が朽ちる体へと変化した。さらに人のために造られた被造物も、人の「死」に伴い、同じ滅びの拘束を受けるようになった(創世記3:17~19、ローマ8:20~21)。その結果、人の「体」は病気を覚えることとなり、人のために造られた自然界も、「滅びの拘束」により天変地異を起こすようになった。
すなわち、人が覚える災いのすべては、まさしく悪魔の仕業で入り込んだ「死」に起因するのであって、神からではない。ゆえにイエスは、弟子たちから「障がい者」に対する質問を受けたとき、「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです」(ヨハネ9:3)と言われた。災いは神からの罰ではないこと、そして災いから人を助けるのが神であることを教えられた。
しかし、人は自らの「経験」に惑わされ、「死」を罪に対する神からの罰だと思い込んでしまった。その結果、他の御言葉との矛盾や疑問が一気に噴出し、それに対する返答に追われる羽目になった。こうして、神の福音には「おおい」が掛かってしまった。まさしく「おおい」は、「死」に対する誤解から始まったのである。聖書はこの様子を、次のように解説する。
「かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです」(Ⅱコリント3:15)
ということは、この「おおい」さえ取り除かれれば、そこから素晴らしい福音が見えるようになる。そこで今回のコラムは、その「おおい」を取り除くことを試みた。それは一重に、次のような素晴らしい福音が見えるようになるためであった。
素晴らしいキリストの福音
「死」は、悪魔の仕業によって入り込んだ。その「死」が原因で、私たちは罪を犯すようになり、さまざまな災いにも見舞われるようになった。よって、神は人の罪を責めることなく、求める者を無償で義とし、救ってくださる。そのままで愛してくださるのである。
「ただキリスト・イエスによる贖(あがな)いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」(ローマ3:24、新共同訳)
無償で救われる以上、人の救いが人の行いによって取り消されることもない。すなわち、人は悪魔の仕業で「死」を背負わされたので、神も人の行いに関係なく、ただ神に助けを乞うなら、誰であれキリストによって「永遠のいのち」を背負わせてくださるのである。イエスはそのことを、こう言われた。
「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません」(ヨハネ10:28)
この恵みによって「死」は完全に滅び去り、「死」によってもたらされた人の罪も災いも、完全に取り除かれてしまう。「死」は罰ではないということが分かると、こうした素晴らしいキリストの福音が見えてくる。誰であれ、神にそのままで愛されている福音が見えてくる。
◇