イエスは、私たちの価値観を変えようとされた。なぜなら、神が届けようとする福音はあまりにも素晴らしく、到底、人の持つ価値観では理解できなかったからだ。それ故、神の福音を人が受け入れられるよう、イエスは人の価値観と戦われた。前回まではそうした様子を見てきたが、今回からは、イエスが教えようとされた福音について見ていきたい。では、イエスの言われた次の言葉を読んで、一体どのような福音が見えてくるだろう。
「だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません。わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです」(ヨハネ12:47)
「まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦(ゆる)していただけます」(マルコ3:28)
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11:28)
「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」(マルコ2:17)
こうしたイエスの言われた言葉から見えてくる福音は、私たちが犯す罪は「病気」であり、キリストは「病気」を癒やすために来られたという風景ではないだろうか。罪が「病気」でなければ、「人はその犯すどんな罪も赦していただけます」とは決してならないし、私たち罪人に対し、「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です」などと言われないからだ。
ところが、人間的な標準の価値観では、罪を犯す責任は人にこそあって、罪を犯す者は「ダメな者」と決めてかかる。罪を犯せば罰を受けるべきであり、決して無条件では赦されないとする。そのため、罪が「病気」だとする話など到底受け入れられない。罪は「病気」故に赦されるなど、あってはならないと拒否してしまう。しかし、イエスはそうした人の考えを退け、罪は「病気」であるから、「人はその犯すどんな罪も赦していただけます」と言い、あなたは「ダメな者」ではないと励まされる。これは何としたことか。
パウロは、こうしたキリストの福音に触れたとき、自らの価値観を根底から覆されてしまった。人間的な標準でキリストの福音を知ろうとしても、そんなことはできないと悟った。それで彼は、「ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません」(Ⅱコリント5:16)と証しした。
弟子のペテロも、イエスから罪は「病気」だと教えられ、イエスが来られたのは罪という「病気」を癒やすためだと知り、自らの罪に対する考えが根底から覆されてしまった。だからペテロは、私たちの罪を背負ったキリストの十字架のことを次のように証しした。
「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです」(Ⅰペテロ2:24)
ペテロはこのように、キリストが背負われた私たちの罪を「病気」とし、キリストの打ち傷は、その「病気」を癒やすためであったと証言する。よく考えてみれば、キリストの十字架を預言した御言葉も、「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され」(イザヤ53:5)と言い、それを「まことに、彼は私たちの病を負い」(イザヤ53:4)と言い換えている。
まことに、人が犯す罪が「病気」であれば、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」(ルカ23:34)とイエスが言われたことも、「さばいてはいけません。さばかれないためです」(マタイ7:1)と言われたことにも、大いに納得がいく。人の罪が「病気」であるなら、罪を犯す人は神の目には「病人」に映るからである。
一体この世界のどこに、「病人」をさばく人がいるだろう。「病人」を見たなら、早く元気になってくださいと励ますのが常である。してみると、イエスが人にされたことを見ると、どれを取っても納得がいく。それはまさに、「病人」に対する対応であった。
しかし、私たちは罪が「病気」だとは知らなかった。罪は「病気」ではなく、自分が悪いからそうなるのだと、人間的な標準の価値観に思い込まされてきた。そのせいで、罪を犯すたび、「お前が悪い」と責められ、罰を受けてきた。だから、罰を恐れ、「自分は悪くない」と自己防衛に走ってきた。
外側だけは美しく見えるようにし、「嫉妬」「怒り」「情欲」「傲慢(ごうまん)」「敵意」といった罪を隠し、「私は罪人ではありません」と言ってきた。その姿は、まことにイエスが注意されたパリサイ人そのものであった。
「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいです」(マタイ23:27)
私たちは、まことに罪が「病気」だとは知らなかったから、必死になって罪を隠し、外側だけを良くしてきたのである。そのことで、内側と外側のギャップが生じ、苦しんできた。イエスは、そうした誤った罪の理解を改めさせようと、「その方が来ると、罪について、・・・世にその誤りを認めさせます。罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです」(ヨハネ16:8、9)と言われた。「わたしを信じないから」とは、「神の愛を信じないから」ということであり、神の愛が見えないことが「罪」だと言われた。
つまり、人は「ダメな者」故に罪を犯すのではなく、神の愛が見えないことが原因で罪を犯すのである。まさしく罪は、神の愛が見えないという「病気」であった。イエスはそのことを、「放蕩(ほうとう)息子の例え」でも教えられた。
さんざん罪を犯し続けた放蕩息子が父親のもとに帰ったとき、父親は彼をひと言も「さばかない」で抱きしめた。さらに、彼に多くの祝福を与え「休ませて」あげた。息子はそのことで、本当に父親が自分を愛してくれていることを知り、彼の罪は癒やされ、罪を犯さなくなった。イエスはこの例えで、人の犯す罪の原因は、まさしく神の愛が見えないことにこそあり、神の愛だけが罪を癒やせることを教えられた。罪の原因は、その人の中にあるのではなく、神の愛が見えなくなったことに起因することを教えられた。
このように、私たちが罪を犯すのは、私たちが「ダメな者」だからではない。神の愛が見えない「死の世界」に閉じ込められているせいで、私たちは罪を犯してしまうのである。故に、神にとって人の罪は「病気」でしかない。しかし、このことを受け入れるには、人間的な標準でキリストを知ろうとすることをやめなければならない。神の福音は、私たちの考えの中にあるのではなく、まさに私たちの考えの外にある。
外にある福音が受け入れられ、罪が癒やされる「病気」だと知るなら、私たちは必死になって罪と戦うようになる。それは、体が病気になったら必死に闘うのと同じである。誰でも病気になると闘い、手に負えない病気だと知れば医者のもとに駆け込み、必死になって治療を受けようとするから、罪が「病気」となれば、もう罪を隠すようなばかなことはしなくなる。医者であるキリストのもとに行き、言われた指示に従い、罪と戦うようになる。
しかし、人間的な標準の価値観に従い、罪は「病気」ではなく、人が悪いからだと信じ続けるなら、これからも罪を犯す自分を見て「ダメな者」と思い続けていくしかない。罪人を見たなら、あのパリサイ人のように罪人をさばき続けるしかない。あのパリサイ人のように、見た目だけは良くし、その内側では「嫉妬」「怒り」「情欲」「傲慢」「敵意」といった罪を放置するしかない。それがどれだけつらいかは、言うまでもないだろう。
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