(4)誰が救われる?
人の価値を「うわべ」で判断させる「肉の価値観」は、人が救われるには「行い」を良くしなければならないと思わせる。良い「行い」を頑張れば神から義と認められ、頑張ったことの報酬として人は救われると思わせる。こうした考えは古今東西同じであり、昔から今日に至るまで人を支配している。イエスに質問した青年も、例外なくその1人であった。だから、こう質問した。
「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか」(マタイ19:16)
それを聞いていた弟子たちも、人が救われるのは「行い」によると思っていたので、イエスが何と答えるのか興味津々であった。しかし、それは「肉の価値観」による考えであり、神の思いとは全く異なっていたので、ここからイエスの戦いが始まる。人を惑わす「肉の価値観」を排除すべく、イエスは次のように言われた。
「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方は、ひとりだけです。もし、いのちに入りたいと思うなら、戒めを守りなさい」(マタイ19:17)
すると青年は、どんな戒めですかと聞き返した。イエスは十戒の中から幾つかを抜粋し、最後にこう付け加えられた。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」(マタイ19:19)。青年は、「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか」(マタイ19:20)と切り返し、それであれば神から義と認められ救われると思った。
だが、この青年の「行い」には愛がなかった。彼が「行い」を守っているのは、あくまでも自分が正しい人間だと周りから認めてもらうためであり、そこには神が言われる愛は全くなかった。彼はただ、自分が義とされるために「行い」を頑張っていたにすぎなかったのである。そこにあったのは見返りを求める心だけであり、「愛」ではなかった。そのことを見抜いておられたイエスは、青年の返答に対して次のように言われた。
「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい」(マタイ19:21)
この言葉を聞くと、青年は悲しんで去って行った。自分にはとてもできない「行い」だったからである。しかし、イエスはわざと青年にはできない「行い」を突きつけ、「行い」では救われないことを教えようとされたのであった。同時に、できない「行い」を突きつけることでどうにもならない罪を浮き彫りにし、神にあわれみを乞うよう仕向けたのである。
なぜなら、それこそが神から義と認められ救われる道となるからだ。「『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました」(ルカ18:13~14)。イエスは、こうして「肉の価値観」と戦われた。
ところが、青年は自分の罪に気づくことはなかった。気づいていれば、「それは自分にはできません。まことに私は罪人です。イエス様。こんな罪人の私をあわれんでください」と言っていたからだ。彼は気づかなかったので、ただ悲しんで去ったのである。その様子を見ていた弟子たちも「行い」で人が救われると思っていたから、これでは一体誰が救われるのだろうかと疑問に思った。イエスは弟子たちの疑問を察知し、こう言われた。
「まことに、あなたがたに告げます。金持ちが天の御国に入るのはむずかしいことです。まことに、あなたがたにもう一度、告げます。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい」(マタイ19:23~24)
当時、「金持ち」というのは「行い」の立派な人たちで、価値ある者と見なされていた。人の価値を「うわべ」で判断させる「肉の価値観」は、彼らこそ「神の国」に行ける人たちだと思わせていた。
しかしイエスは、「金持ち」が「神の国」に入るより、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしいと言い、「行い」で人が救われるなどあり得ないと言われた。あり得ないことを強調するために、「らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい」と比喩を述べられたのである。要は、どんなに「うわべ」が良く立派な人であっても、それが理由で救われることはないと断言されたのである。
「肉の価値観」に支配されていた弟子たちは、「行い」が良くないと神に愛されることもなく、救われることもないと思っていただけに、このイエスの話に衝撃を受けた。その衝撃がいかに大きかったかは、イエスの話を聞いた弟子たちの反応を見ればよく分かる。
「弟子たちは、これを聞くと、たいへん驚いて言った。『それでは、だれが救われることができるのでしょう』」(マタイ19:25)
ここに、弟子たちはたいへん驚いたとある。驚くとは全く予測できないことにぶつかったときの反応であり、弟子たちは相当の衝撃を受けたことが分かる。なぜなら、これでは誰も救われないと思ったからだという。そこで、イエスは間髪入れずに救いの真理を話された。
「イエスは彼らをじっと見て言われた。『それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます』」(マタイ19:26)
イエスは彼らをじっと見たとあるが、これから話すことがいかに深い真理であるかを物語っている。そしてイエスは、神なら人を救えると言い、人の救いは人の「行い」によるのではなく、神の恵みによることを教えられた。すなわち、人は神の呼び掛けに対し、ただ信じて「応答」さえすれば救われるのである。
「人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです」(ローマ3:28)。こうしてイエスは、人の持つ「肉の価値観」と忍耐強く戦っていかれた。
どうだろう。私たちは「肉の価値観」にだまされていないだろうか。あの青年のように、頑張らなければ神に愛されないと思っていないだろうか。神は人の「行い」を見て報いを与えると信じていないだろうか。
もしあなたが、人の「行い」を見てさばいているのであれば、あなたもあの青年と同じことを思っている。もしあなたが、人の「行い」と自分の「行い」とを比べ嫉妬するのであれば、あの青年と全く変わりはない。あの青年のように自分を認めてもらうために「行い」を頑張り、人を愛せなくなっている。
しかし、神は人の「行い」を見て人を愛するような方ではない。人の「うわべ」を見てさばく方ではない。そうでなければ、イエスは、「うわべによって人をさばかないで、正しいさばきをしなさい」(ヨハネ7:24)と教えたりはしない。
神は、まことに人の「行い」に関係なく人を愛される方であり、相手が罪人であろうが、その人のために死ぬことができる方である。それが神の「意志」であり、その「意志」を何人も変えることなどできないのである。実際、神は私たちのあずかり知らぬところで、罪人の私たちのために死んでくださった。
「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」(ローマ5:8)
こうした神の「全き愛」を、人を支配する「肉の価値観」が見えなくさせている。「肉の価値観」が、神に愛されたければ「行い」を頑張れとささやき、キリストの「全き愛」を見えなくさせている。そして、人を言いようもない苦しみに突き落としている。それ故、イエスは「肉の価値観」という覆いを取り除くために戦われたのである。
◇