私たちは、人の価値を判断する眼鏡を持っている。その眼鏡を「価値観」というが、その眼鏡が仮に故障していて、本来「○」である自分を「×」にしていたならどうだろう。本人は「○」であるにもかかわらず「×」だと思って生きることになる。そうなると、あの「みにくいアヒルの子」に起きた悲劇が起きてしまう。
そこで前回は、私たちの「価値観」(眼鏡)が故障していないかどうかを確認してみた。すると、私たちの「価値観」は完全に故障していることが分かった。なぜなら、絶対に正しい神の価値観(眼鏡)が下す判断と、私たちの下す判断とが全く異なっていたからだ。
例えば、イエスは姦淫の罪を犯した女性を裁かずに赦(ゆる)されたが、私たちの「価値観」では裁いてしまう。あるいは、イエスは例えの中で、8時間働こうが1時間働こうが、同じ賃金を支払うと言われたが、私たちの「価値観」ではそうはいかない。こうしたことから、神の価値観(眼鏡)の方が正しい以上、私たちの「価値観」(眼鏡)は誤った判断を下しているという結論に至った。
そうとも知らず、私たちは自分の「価値観」が下す判断を正しいと信じて生きている。その「価値観」は、自分に対し「ダメな者」という判断を下すので、人は「みにくいアヒルの子」と同じように自分を「ダメな者」と思って生きている。
しかし、「ダメな者」という判断を下した「価値観」は故障していた以上、「ダメな者」というのは誤りである可能性が高い。となれば、私たちの真実な姿は何なのだろうか。
そこで今回は、私たちの真実な姿を明らかにしたい。それは、神の価値観(眼鏡)で見た私たちの姿を知ることである。その姿は本当に「ダメな者」なのだろうか、それとも白鳥のように美しい姿なのだろうか。その答えは、次の御言葉が教えてくれる。
「神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった」(創世記1:31)
この御言葉にあるように、神は人を非常に良き者として見ている。人は「ダメな者」ではなく、神の目からは「良き者」にしか映っていない。それ故、神はこう言われる。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ43:4)
この御言葉からも、神は人をまるで高価な宝物を見るかのような眼差しで見ておられることが分かる。「ダメな者」ではなく、「良き者」として見ておられる。では、神が人を「良き者」と言われるその根拠は一体どこにあるのだろうか。
神は、単なる気休めで「良き者」と言われるわけではない。そこには根拠がある。その根拠は、神が人をご自分に似せてお造りになったことにある。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記1:26)。神は人をご自分に似せて造るために、具体的には人を次のように造られたという。
「神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった」(創世記2:7)
この御言葉にある「土地のちり」とは、地上の物質を指す。神は物質で人の体を造り、そこに「いのちの息」を吹き込まれたという。この「いのちの息」の「いのち」と訳されているヘブライ語は複数形の単語で、三位一体の神の「いのち」を表している。そして、「息」と訳されているヘブライ語は「魂」とも訳せる言葉で単数形になっている。
このことから、人の「魂」は神の「いのち」を分けて造られ、キリストの一部になったことが分かる。「あなたがたのからだはキリストのからだの一部であることを、知らないのですか」(Ⅰコリント6:15)。人は大勢いるが、キリストにあっては1つの体であり、一人一人は互いに器官として造られたのである。
「大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです」(ローマ12:5)。これが、人の真実な姿にほかならない。人は神に似せて造られ神の一部であるからこそ、神には人が「良き者」として映るのである。
考えてみてほしい。どのような器官であれ、それが自分の体の一部であれば尊ばないだろうか。自分の体の器官であれば、見た目に弱いと思う器官こそなくてはならないものであり、むしろ弱い器官こそ尊び守ろうとする。
「それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます」(Ⅰコリント12:22、23)
故に神は、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ43:4)と言い、「見よ。それは非常に良かった」(創世記1:31)と言われたのである。人が「良き者」であることの根拠は人が知らないだけで、神には十分にある。
すなわち、神は、人をただ単に励ます目的で、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ43:4)と言われたのではない。人は、神の「いのち」を分けた神の子であり、まことに高価で尊いからこそ、そう言われたのである。
このことは真実であるが故、キリストは私たちを救うために十字架で命さえ惜しまれなかった。このこと1つを取ってみても、人の姿はいかに素晴らしいものであるかが分かる。その姿はみにくくはなく、まことに美しいものであり、高価で尊い。
ところが、人の「価値観」(眼鏡)は、そんな素晴らしい人の価値を「ダメな者」としてしまう。というのも、人の「価値観」は人の価値を「うわべ」で判断させるため、どんなに素晴らしい「容貌」や「能力」を持とうが、その「うわべ」よりも勝った人が必ずいるから「ダメな者」になってしまう。自分を誰かの「うわべ」と比べれば、必ず「ダメな者」になってしまう。こうした価値観を、本コラムでは「肉の価値観」と呼ぶ。
「ダメな者」となれば、人は「うわべ」を着飾ることで自分の価値を上げようとする。必死になって富や名誉をむさぼり、自分の価値を引き上げようとする。別の言い方をするのなら、何を着て何を食べようかと思い煩う。
イエスはそうした愚かな考えを正すために、自らの「うわべ」を最高のもので着飾ったソロモンを引き合いに出しこう言われた。「しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした」(マタイ6:29)。そして、こうも言われた。「うわべによって人をさばかないで、正しいさばきをしなさい」(ヨハネ7:24)
しかし人は、自分の「価値観」(眼鏡)が下した「ダメな者」という判断を信じ、「うわべ」を着飾ることで自分の価値を引き上げようとする生き方をやめない。互いに「うわべ」を比べ、どちらが偉いかと競い合う。そこから嫉妬や怒りが生じ、さまざまな肉の行いへと発展していく。つまり、人の持つ「肉の価値観」が「○」である人を「×」にしてしまうので、人は人を愛せなくなり、「愛せよ」に集約された神の律法に違反するのである。
このように、人の持つ「肉の価値観」が、人に罪を犯させる装置になっている。だが人はそのことに気付いていない。自分が使っている「価値観」が故障していて、罪を犯させる装置になっているなどとは気付く由もない。自分を苦しめている本当の敵が見えていないのである。
そこでイエスは、人の本当の敵である「肉の価値観」(罪)を取り除くために来られた。では、イエスは「肉の価値観」を取り除くために、具体的には何をされたのだろうか。イエスが弟子たちに対しなさったことに的を絞り、その足跡をたどってみよう。
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