7. 戦い
(3)神の恵み
問題の整理
生きるために、人は「神の言葉」を必要とする。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」(マタイ4:4)。だから敵は、人が「神の言葉」を食べられないよう罠を仕掛けてくる。その罠は、互いを裁かせることに集中する(Ⅱコリント2:10、11)。裁かせることで、「愛せよ」(ガラテヤ5:14)に集約される「神の言葉」を食べられなくしてくるのである。
人はそうとも知らず、律法の規定で人を裁き罪に定める。神が人の罪をとりなしているにもかかわらず、神に逆らい罪に定めようとする。「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです」(ローマ8:34)。故に、私たちの本当の戦いは、裁かないことに集中する。
無論、裁くことは良くないと知ってはいても、どうしても人を裁いてしまう。人と自分とを比べ、ねたみや嫉妬を抱き裁いてしまう。それは、背後に「死の恐怖」があるからそうなる。「死の恐怖」のせいで、どうしても見えるものに「安心」と「安全」を求め、人の「うわべ」が気になってしまい裁いてしまうのである。そうなれば、生きるのに必要な「神の言葉」が食べられなくなる。これでは敵との戦いに勝つことができない。そこで、神の助けが必要になる。その助けが、人にとっての「神の恵み」になる。その恵みを知るには、人の誕生の歴史から見ていく必要がある。
人の歴史
人は神に似せて造られた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記1:26)。人は本来、神がそうであるように、神を愛し、人を愛する者として造られた。故に、人の願望は「御霊の思い」と同じで、神と人を愛したいというものであった。こうして人は、神と同じ思いを共有し、神と共に生きる者となった。「神の言葉」を糧として生きる者となった。
ところが、悪魔が人に近づき、神と異なる思いをあたかも「御霊の思い」かのように欺き、御霊に逆らう思いを信じさせてしまった。その結果、人は神と同じ思いを共有できなくなり、神との結びつきを失った。これを「死」という。この「死」によって、人は神の愛が見えなくなり、自分が何者だか分からなくなった。その出来事は言いようもない「不安」をもたらした。さらに人は、神との結びつきを失ったことで永遠に生きることができなくなり、やがて訪れる肉体の死に怯(おび)えるようになった。その出来事は言いようもない「恐怖」をもたらした。
こうした「不安」と「恐怖」を、一言で「死の恐怖」という。人は「死の恐怖」により、新たな願望を抱くようになった。神ではなく、見えるものに「安心」と「安全」を確保したいという願望である。その願望により、元来あった神と人を愛したいという願望は機能停止状態になり、人が人を裁く生き方が始まった。こうして、人は「神の言葉」が食べられなくなり、御心に逆らう生き方をするようになった。
神は人の現状を憂い、何としても本来の願望を回復させ、再び「神の言葉」が食べられるようにしようと思われた。そのために、神ご自身が地上に来られた。その方が、イエス・キリストである。では、神はどうやって人本来の願望を回復させ、再び「神の言葉」を食べられるようにしようというのだろうか。ここに「神の恵み」がある。
救いの恵み
人は神との結びつきを失う「死」によって「神の言葉」を食べられなくなった以上、人が再び「神の言葉」を食べられるようになるには、まずは神との結びつきを回復する必要があった。そこで神は、その条件を満たす恵みを用意された。神の呼び掛けに「応答」する者は誰であれ、その行いに関係なく信仰を与え、神との結びつきを回復してくださるという恵みである。これを、「救いの恵み」と呼ぶことにする。
この恵みを受けることで、人は神との関係を回復でき、永遠に生きられるようになる。そのことで神は、やがて訪れる肉体の死の「恐怖」を締め出そうとされた。しかし、これだけでは、神の愛が見えなくなったことで生じた「不安」を締め出すことはできない。そのため、神との結びつきを回復したからといっても、愛したいという本来の願望は機能停止のままであり、兄弟を愛することができない。目に見えない神を愛することもできず、「神の言葉」も食べられないままである。
「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません(神の言葉が食べられません)」(Ⅰヨハネ4:20) ※( )は筆者が意味を補足
そこで、もう一つ「神の恵み」が必要となった。それは、神の愛が見えなくなったことで生じた「不安」を締め出してくれる恵みである。この恵みがあれば、「死の恐怖」という「恐れ」は締め出され、人は見えるものに「安心」や「安全」を求めなくなり、見えるもので人を裁かなくなって「神の言葉」が食べられるようになる。ならば、神はどうやって神の愛が見えないことの「不安」を締め出すというのだろうか。それは、人の罪を無条件で赦(ゆる)すことで締め出そうとされる。その恵みを、「赦しの恵み」という。では、神はどうやって「赦しの恵み」を人に与え、その恵みがどうして「不安」を締め出すのかを見てみよう。
赦しの恵み
神は人に「赦しの恵み」を受け取らせようと、人に「神の律法」を提示された。それに従うよう命じ、そのことで、まずはどうにもならない罪に気付かせようとされた。というのも、神との関係が回復した者は、どうにもならない罪に気付けばキリストに赦しを乞うようになるからだ。「こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました」(ガラテヤ3:24)。赦しを乞えば、「赦しの恵み」の出番となる。神は人が罪を言い表せば、無条件で赦してくださるのである。それは、イエスが話された「放蕩(ほうとう)息子の例え」と同じ出来事となる。放蕩息子が罪を言い表したとき、その罪を無条件で赦されたが、それと同じことを神はしてくださる。
「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」(Ⅰヨハネ1:9)
これが、背後で人を裁かせてきた、「死の恐怖」という「恐れ」を締め出す「赦しの恵み」となる。罪を言い表した際、それが無条件で赦されたなら、神に無条件で愛されている自分を知ることになり、神の愛が見えなくなったことの「不安」は締め出される。「死の恐怖」がもたらした「恐れ」の大半は、神の愛が見えないことの「不安」が占めていたので、罪を赦すキリストの「全き愛」が「恐れ」を締め出してくれるのである。「全き愛は恐れを締め出します」(Ⅰヨハネ4:18)。
この「赦しの恵み」は、罪に気付くたびに受け取ればよい。そのたびに「恐れ」は締め出されていき、機能停止状態にあった、神を愛し人を愛するという本来の願望は息を吹き返すようになる。こうして、多くの罪が赦されれば、それだけ多く神を愛するようになる。
「だから、わたしは『この女の多くの罪は赦されている』と言います。それは彼女がよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません」(ルカ7:47)
神の恵みをただ受ければよい
このように、神は人が「神の言葉」を食べられるように、敵と戦うための恵みを用意してくださった。1つは「救いの恵み」であり、この恵みは、神との結びつきを回復し永遠に生きられるようにすることで、やがて訪れる肉体の死の「恐怖」を締め出してくれる。もう1つは「赦しの恵み」であり、この恵みは、罪が無条件で赦されることを体験させることで、神の愛が見えないことの「不安」を締め出してくれる。この2つの恵みにより、「死の恐怖」という「恐れ」と戦うことができ、人は見えるものではなく神を信頼し愛するようになっていく。それに伴い、人を裁かなくなる。これが、「神の言葉」を食べるということの実際になる。
従って、私たちのすべきことは、兎にも角にも、「神の恵み」を受け取ることにある。「救いの恵み」にあずかった者は、罪が赦される「赦しの恵み」を受け取ればよい。そのことで初めて、どうにもならなかった罪と戦えるようになる。というより、罪に気付き「赦しの恵み」を受け取ることが、人を裁かせる「死の恐怖」との戦いになる。人の価値を「うわべ」で判断させる「肉の価値観」との戦いになる。
以上で、「序」の話は終わる。「序」を通して述べてきたことは、「神の言葉」を食べさせない働きをする敵が私たちの内側にいる、ということだ。それは、「死の恐怖」によって誕生した、人の価値を「うわべ」で判断させる「肉の価値観」にほかならない。イエスの言葉で言うなら、「この世の心づかい」と「富の惑わし」という「経験」である(マタイ13:22)。この敵が互いを裁き合うように仕向け、「神の言葉」を食べられなくしている。「神の福音」を誤った意味に捉えさせている。だから、それと戦うのである。
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