7. 戦い
(2)本当の戦い
サタンの策略
人が生きるには「神の言葉」を必要とする。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」(マタイ4:4)。しかし、「神の言葉」を食べさせない敵がいる。その敵は、「この世の心づかい」と「富の惑わし」だとイエスは言われた。
「また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです」(マタイ13:22)。だから、私たちが「神の言葉」を食べるためには、こうした敵と戦う必要がある。
「この世の心づかい」と「富の惑わし」という敵を送り込んできたのは、悪魔であった。悪魔はアダムとエバに罪を犯させることで「死」を持ち込ませ、「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り・・・」(ローマ5:12)、人々を「死の恐怖」の奴隷とし、「一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を・・・」(ヘブル2:15)、「安心」と「安全」を見えるものに求めさせ、「この世の心づかい」と「富の惑わし」という、神ではなく人のことと富のことを思う生き方をさせるようになった。
そのことで、人は「神の言葉」が食べられなくなった。全ては悪魔のしわざであり、キリストはそのしわざを滅ぼすために来られた。「神の子が現れたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです」(Ⅰヨハネ3:8)。
この悪魔のしわざである「この世の心づかい」と「富の惑わし」を深く見てみると、そこには人の価値を「うわべ」で判断する「肉の価値観」があり、それを使った実に巧妙な「策略」があることに気付く。
その「策略」により、人は「愛せよ」(ガラテヤ5:14)に集約される「神の言葉」が食べられなくなっている。故に、その「策略」を知り敵の罠に落ちないようにすることが、敵との本当の戦いとなる。では早速、敵の仕掛けた巧妙な「策略」を見てみよう。聖書は、その「策略」を次のように教えている。
「もしあなたがたが人を赦すなら、私もその人を赦します。私が何かを赦したのなら、私の赦したことは、あなたがたのために、キリストの御前で赦したのです。これは、私たちがサタンに欺かれないためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではありません」(Ⅱコリント2:10、11)
聖書は、人を赦(ゆる)せないようにすることが「サタンの策略」だという。確かに人を赦せないという思いは、「愛せよ」という最も重要な「神の律法」に逆らっている。「律法の全体は、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という一語をもって全うされるのです」(ガラテヤ5:14)
つまり、「サタンの策略」とは、赦せないという「怒り」を抱かせ、「神の律法」に逆らわせることにある。聖書は、それを罪だと教えている。「罪とは律法に逆らうことなのです」(Ⅰヨハネ3:4)。この「サタンの策略」について、さらに掘り下げてみよう。
人を赦せないという思いは「敵意」の感情であり、それは「律法」で人を裁くことで生じる。「敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです」(エペソ2:15)。ということは、「サタンの策略」は「律法」で人を裁かせることに集中することが分かる。
それは、人の価値を「うわべ」で判断させることを意味する。イエスはそれが「サタンの策略」であることを知るが故に、「うわべによって人をさばかないで、正しいさばきをしなさい」(ヨハネ7:24)と教え、さらにはこう注意された。
「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです」(マタイ7:1、2)
かつてパリサイ人は、「律法」でもってイエスを裁き、イエスを十字架にかけ殺してしまったが、今日私たちもパリサイ人と同じように「律法」で人を裁き、「愛せよ」に集約される「神の言葉」を十字架にかけて殺してしまっている。まさに、人を裁かせることにこそ「サタンの策略」がある。それで、イエスは「裁いてはいけません」と人々を戒められた。
訴え合うことが敗北
このように、敵は人に必要な「神の言葉」を人が食べられないよう、「律法」で人を裁かせる。そうやって、互いに「敵意」や「怒り」を抱くよう仕向け、「愛せよ」に集約される「神の言葉」を食べられなくする。これが「サタンの策略」である。
従って、どのような言い訳をしようとも、人を裁けば「サタンの策略」に落ち、サタンである悪魔に負けたのである。人を裁くことで、自分自身が「愛せよ」という「神の律法」に逆らう罪を犯してしまったのであって、そこには全く弁解の余地はない。人は「サタンの策略」によって、人を裁くことで自分自身を罪に定めてしまうのである。
「ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行っているからです」(ローマ2:1)
それ故、イエスは人を裁かないで、何度でも赦すよう教えられた。
「『主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。』イエスは言われた。『七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。・・・』」(マタイ18:21、22)
人に「神の言葉」を食べさせないようにするための敵の「策略」は、兎にも角にも「裁かせる」ことにある。だから、何があろうとも裁かないで赦すよう戦うしかない。しかし、私たちはどうしても人を裁いてしまう。
「傷ついた」と言って人を裁く。「信じられない」と言って人を裁く。「あれでもクリスチャンか」と言って人を裁く。いつも人の「行い」を「律法」の物差しで見て裁いてしまう。裁き合い、互いに自分が正しいと周りに訴えてしまう。
それが敵の「策略」とも知らないで、「愛せよ」という最も大切な「神の言葉」を十字架にかけてしまう。それゆえ聖書は、次のように訓戒する。
「そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。なぜ、むしろ不正をも甘んじて受けないのですか。なぜ、むしろだまされていないのですか」(Ⅰコリント6:7)
聖書は、そもそも互いに訴え合うことが、すでに敗北だと教えている。誰に対する敗北なのだろうか。それは、「サタンの策略」に対してである。
忘れてはならない。キリストが、その十字架の贖(あがな)いで人の罪をとりなしてくださっていることを。それなのに、キリストの十字架の贖いを無視し、どうして人が人を裁き罪に定められるのだろう。
「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです」(ローマ8:34)。私たちは、決して人を裁いて罪に定めるようなことをしてはならないのである。そこに「サタンの策略」があることを、肝に銘じるべきである。
罪は病気
すると、人が悪いことをしても何も言ってはいけないのかと、ただ耐えていなければならないのかと思うかもしれない。ただ目をつぶり、赦せばよいのかと思うかもしれない。しかし、それは誤りである。聖書は、そのようなことは教えていない。
「裁くな」とは、人が悪いことをしても注意してはならないということではない。悪いことをすれば注意してよい。聖書も、「父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい」(エペソ6:4)と教えている。
ただし、「おこらせてはいけません」とあるように、注意する際は、相手を「ダメな者」と決めつけ怒らせることがあってはならないのである。病人に接するように、相手をいたわるように注意するのである。それはどうしてなのか、分かりやすく説明しよう。
人が罪を犯すのは、「死」に原因がある。「死のとげは罪であり」(Ⅰコリント15:56)。その「死」は悪魔のしわざによる。「神の子が現れたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです」(Ⅰヨハネ3:8)。
そうであれば、人が罪を犯す姿は、病原体に感染した「病人」と同じである。悪魔のしわざによる「死」に感染し発病したのが「罪人」であって、人が罪を犯す姿というのは、まことに「病人」と変わらない。
それ故イエスは、「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです」(ルカ5:31、32)と言い、「罪人」の姿を「病人」に類似された。そして、罪を取り除くキリストの十字架の働きを、「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです」(Ⅰペテロ2:24)と聖書は教え、「罪」に対し「癒やす」という言葉を使う。
人は「病人」を見ると裁くだろうか。早く良くなってほしいという「あわれみ」の感情を抱き、医者の治療を受けるように促すのではないだろうか。それと同じで、私たちも人の罪を見たなら、早く良くなってほしいと「あわれみ」の感情を抱き、「柔和な心」で神に立ち返るよう促すのである。
「反対する人たちを柔和な心で訓戒しなさい」(Ⅱテモテ2:25)。それは、見た目には人を裁いているように見えても、裁いているわけではない。もしも裁いていれば、「敵意」や「怒り」が生じるので容易に判断がつく。
このことに付け加えて言うと、人は神と人を愛するように造られているので、「律法」を使って人を裁けば途端に「つらさ」を覚える。体は、その本来の働きができなくなると「つらさ」を覚えるが、それと同じように、心も「愛する」という本来の働きができなくなると「つらさ」を覚えてしまう。
従って、人との関係において「つらさ」を覚えたなら、本人は気付いていなくても、必ず「律法」で人を裁いているということを意味する。「愛せよ」という「神の言葉」を十字架にかけてしまっている。
だから、「つらさ」を覚えるかどうかでも、人を裁いているかどうかが分かる。いずれにせよ、病人に抱く同じ思いをもって相手に注意するのであれば、それは大いにしてよい。
このことから、「裁くな」とは注意してはならないということではなく、人に対して「敵意」や「怒り」を抱かないことだと分かる。故に、人を裁きそうになったなら思い出してほしい。私たちはみな神の作品であり、みな例外なく「良き者」であることを。
「神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった」(創世記1:31)。その「良き者」が、「死の恐怖」に感染し、罪を犯す「病気」になってしまったということを。そのことが分かれば、人に対して「敵意」や「怒り」を抱くことはない。
このように、「神の言葉」を食べさせない敵との本当の戦いは、「人を裁く」こととの戦いである。この戦いが、人を惑わす「経験」との戦いにもなる。人は自らの「経験」に惑わされるため、惑わされていても気付かない話をしたが、こうした敵の「策略」が分かれば十分に戦えるだろう。
これで一安心と言いたいところだが、実はそうはいかない。「人を裁く」ことと戦えばよいと分かっても、その背後には「死の恐怖」が強烈に働いているために、どうしても人は人を裁いてしまうのである。人の力では、どうしても「死の恐怖」には太刀打ちできない。
そのため、どうしても見えるものに「安心」と「安全」を求め、人の「うわべ」が気になってしまい、「律法」で人を裁いてしまう。結果、人に対して「怒り」や「敵意」を覚えてしまう。
そこで、神の助けが必要となる。その助けが「神の恵み」であり、私たちの知るべき「神の福音」となる。では、私たちを助ける「神の恵み」について詳しく見てみよう。
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