聖書はイエスのことを、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)と言い、罪を取り除くために来られたことを証しする。「キリストが現れたのは罪を取り除くためであったことを、あなたがたは知っています」(Ⅰヨハネ3:5)。では、イエスは罪を取り除くために何をされたのだろう。イエスが人の罪を背負い十字架にかかられたことは広く知られているが、それ以外は罪に対し何もなさらなかったのだろうか。
実は、十字架は罪を取り除くための最後の仕上げであって、そこに至るまでの間、イエスは人の持つ価値観を変えようと戦われた。なぜなら、人の罪は、神と異なる価値観が引き起こしているからだ。聖書に、「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい」(ローマ12:2)とあるように、イエスは神と異なる人の価値観を一新させ、御心に沿った生き方ができるように戦われた。
本コラムは、神と異なる人の価値観を「肉の価値観」と呼ぶが、その価値観の一番の特徴は、人の価値を「うわべ」にあるとすることだ。それについては「序」で詳しく説明してきた通りである。
本章では、イエスは人の罪を取り除くために、人が持つ「肉の価値観」とどう戦われたのか、その足跡をたどっていきたい。その前に、そもそも「価値観」とは何か。「価値観」は一体どのような働きをし、どのような力を持っているのか。そうした話をしたい。その上で、人の「価値観」を変えようとされたイエスの足跡をたどっていくことにする。
価値観の働き
「価値観」とは、ひと言で言うなら価値を知るための物差しである。そのため、価値を知る物差しである「価値観」が変われば、同じものであっても異なる価値となる。そのことを教えるのに、2つの異なる形状のコップに同じ水の量を入れた絵がよく使われる。ここでも、それを使って説明してみよう。下記の左のコップに入れた水を見てほしい。喉が渇いているときにこの水が出されたなら、たくさんの水に満足を覚えないだろうか。ところが、右のコップに入れられた同じ量の水を出されたなら、これしかないのかと思い不満を抱くことだろう。
ここで重要なのは、左右のコップの水の量は同じであり、渇きを潤す水の価値は何も変わらないということだ。ところが、左の細長いコップに水を入れると水の価値は「○」となるが、右の平べったいコップに入れると「×」になってしまう。このコップこそ、「価値観」と言われるものに当たる。このコップは、「価値観」が異なれば同じ出来事であっても、異なる評価が下されることを教えてくれる。「価値観」とは、まさに物事の価値を定める眼鏡なのである。
今度は別の例で、「価値観」の働きを説明しよう。ある時、先生がクラスの生徒全員を叱った。ところが、生徒のうちの1人は、先生の叱る言葉に怒り、もう学校には行きたくないと言った。別の生徒は、先生の叱る言葉に感動し、ますます熱心に学校に行くようになった。2人の生徒は同じ出来事に遭遇したにもかかわらず、全く違う反応を示したのである。片や怒り、片や感動した。怒りを覚えた生徒は、先生の言葉を聞いて自分の価値を「×」だと判断し、感動した生徒は「○」だと判断したのである。
同様のことは、イエスの時代にも起きた。イエスの説教を聞いたある人々は自分が否定されたと思って怒り、ある人々は自分が受け入れられたと思って感動し、イエスをほめたたえたのである。
こうした事例から分かることは、自分のことを「○」と思うのも、「×」と思うのも、その人の持つ「価値観」次第だということだ。同じ出来事を体験しても、「価値観」が異なれば異なる評価が下され、その人の行動も変えてしまうのである。まさに「価値観」は、人の行動を左右する力を持っている。では、さらに別の事例も見てみよう。
明治の頃、子どもは外で元気よく遊ぶ子が良い子とされた。家に閉じこもって本ばかり読むような子はダメな子と、親は怒った。ところが、今日はどうだろう。その評価は全く逆転している。外で遊んでばかりいる子はダメな子と親に怒られ、家で本を読む子はほめられる。これは、時代の変化とともに、それまで良い子とされていた「価値観」が変化したためにそうなった。子どもの遊ぶ習性は何も変わっていないが、その習性を評価する「価値観」が変わったために、子どもに対し全く別な評価が下されるようになったのである。
もう1つ、例を挙げよう。私が妻とニュージーランドに行ったときの話である。私たちを世話してくれた婦人が妻を呼んで、「あなたは何とダメな妻なの。そんなに痩せていてどうするの。妻たるものは、太っていなければならない」と、まじめに怒った。聞くところによると、その婦人はフィジー島出身で、フィジーでは太っていることが良い妻の証しだという。だから、その婦人は細い妻を見て怒った。確かに、フィジーの「価値観」で見れば、妻はダメな者になる。しかし、日本ではそういう話にならない。本人の体型は変わらなくとも、人を見る「価値観」が変われば、「×」が「○」にもなるし、「○」が「×」にもなる。
この手の話は幾らでもあるが、これくらいで十分だろう。まことに人の「価値観」は、同じ人を「良い者」にも「悪い者」にもしてしまう。その結果、人を喜ばせもすれば悲しませもする。人が何を感じ、どう思うかは、全て人の「価値観」に懸かっているのである。それ故「価値観」は、物事の優先順位を決める基準となり、人の生き方を左右する力となる。
ということは、誰かが悪意を持って、人の「価値観」を間違ったものにしてしまえば、人は何も気付かず、間違った評価を基に間違った生き方を強いられることになる。それは、自分の「価値観」の誤りに気付くまで続くのである。これこそが、「価値観」の持つ恐ろしさである。その恐ろしさを知るために、実際に起きた面白い話をしよう。
ある時、私は健康管理のために、腕につけて測定する小さな血圧計を買った。すると、どうだろう。血圧が非常に高かった。朝晩と計るが、やはり高い。妻は私を心配し、食べ物に気を使ってくれた。私も運動するように心掛けた。しかし、一向に数値が改善されない。そんなある時、肩と頭に異常な痛みを覚え、高血圧が原因で脳の血管が切れたのかと心配になり、病院で精密検査を受けた。ところが、どこにも異常は認められなかった。しかも、血圧は下が80で、上が120と全く正常であった。医者は、デスクワークのやり過ぎからくる単なる肩こりだと言った。
では、なぜ自分で血圧を測ったときは、数値が高かったのだろうか。もしやと思い、家に帰り再び血圧を計ってみた。案の定、高い数値を示した。その時、確信した。この血圧計が間違っていると。私はそうとも知らず、その数値を信じたために判断を誤り、間違った対応をしたことにようやく気付いた。
これは笑い話で済む話だが、この血圧計が人の「価値観」であったらと考えると、とても笑い話では済まされない。なぜなら、人はいつも自分の「価値観」が下す評価を疑わずに信じ、それを基に行動しているからだ。もしその評価自体が間違っていたならどうなるだろう。人は間違いにも気付かず、誤った生き方をしてしまうことになる。そんな恐ろしさを教えた有名な童話がある。その話を要約しよう。
「アヒルの中で生まれたひな鳥がいた。そのひな鳥は、アヒルの子として育てられた。ところが、アヒルの子にしては見た目が灰色で、他の仲間と違っていたので、その子は仲間からいじめられるようになった。育てた母親も、愚痴を言うようになった。その子は、自分は醜いアヒルの子で、生きる価値のない『ダメな者だ』と落ち込んでしまった。そこで、その場所を出て行く決心をし、当てもなく旅を始めた。だが、行く先々でばかにされ、嫌われたので、ますます自分を価値のない『ダメな者』と思うようになり、死にたくなってしまった。そんなある日のこと、美しい白鳥の群れを見た。あまりの美しさにもっとそばで見たいと白鳥に近づいた。するとその時、その子は湖面に映る自分の姿を見て、自分は醜いアヒルの子ではなく、美しい白鳥だったことに気付いた」
この話は、アンデルセンの有名な童話「醜いアヒルの子」である。この子は、アヒル社会の「価値観」の下で育てられたために、他のアヒルと自分を比べ、自分は醜いと思い込んでしまった。愛される価値のない「ダメな者」だと信じ切ってしまった。しかし、彼の「価値観」が下した評価は完全に誤りであった。その誤りのせいで、苦しまなくてもよいのに苦しんだのである。この「醜いアヒルの子」の話は、決して他人事ではない。
このように、「価値観」というのは、人を生かすことも殺すこともできる力を持っている。従って、「価値観」が先の血圧計のように故障していれば、恐るべき事態になる。にもかかわらず、人は全くと言ってよいほど、自分の「価値観」が故障しているかどうかを確かめようとはしない。完全に正しいと信じ切っている。
そのため、「醜いアヒルの子」のように、誤った「価値観」のせいで苦しんでも自分の「価値観」を疑うことなどせず、ただ人や周りのせいでこうなったとか、自分が悪いからこうなったと思ってしまうのである。こうした何とも恐ろしい悲劇を避けるには、私たちの持つ「価値観」が正しいかどうか、故障していないかどうか、まずは正確に確かめてみることから始めなければならない。
先にひと言述べておくと、人が「ダメな者」に見えるなら、あるいは人に対し「怒り」を覚えるなら、その「価値観」は完全に故障している。なぜなら、神は「良き者」しか造られなかったからである。「神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった」(創世記1:31)。では、次回はさらに詳しく、「価値観」が故障していないかどうかを確かめることにしよう。
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