価値観のチェック
同じ出来事に対し、ある人は良かったと言い、ある人は悪かったと言う。この違いは、人の価値観の違いによる。自分を「ダメな者」と思うのも、「良き者」と思うのも、全ては人が持つ価値観に左右される。本人の資質に左右されるわけではない。
ということは、人の価値観が誤った判断を下していたなら、その人は誤った生き方をすることになる。そんな悲劇を分かりやすく描いた話が、アンデルセン童話の「みにくいアヒルの子」である。
本当はみにくくなかったのに、彼の持つ価値観が正しくなかったために、自分をみにくいアヒルの子だと思い込み苦しんでしまった。これと同じ悲劇が、誤った判断を下していれば起きてしまう。
そこで、価値観が正確な判断を下せているかどうかを確かめてみたい。確かめる方法は至ってシンプルである。それは、この世で唯一正しい価値観を持つ方が下す判断と、自分が下す判断とを比べてみればよい。
同じ出来事に対し、同じ判断が下せるのであれば問題ないが、違っていれば価値観は誤った判断を下していることになり、その価値観は故障している。言うまでもないが、唯一正しい価値観を持つ方とは神である。
では、神の価値観で書かれた聖書の記事を幾つか要約するので、その記事の中での神の判断と、それを読んだときの自分の判断とを比べてみてほしい。それが同じならば問題ない。もしも違っていれば、気付いていないだけで「みにくいアヒルの子」の悲劇が起きていることになる。
労働者たちと主人の例え
イエスは、マタイ20:1~16で、「労働者たちと主人」の例えを話された。それによると、農園の主人は労働者を雇うために朝早く出掛けていき、1日1デナリの約束で人を雇った。次に、主人は9時ごろまた出掛けていき、再び人を雇った。次に、12時ごろ、3時ごろ、そして5時ごろにも出掛けていき、再び人を雇った。
仕事が終わると、主人は、最後に雇った者から賃金を支払った。最後に来た者は1時間しか働いていなかったが、主人は1デナリを支払った。それを見た朝早くから働いていた者は、あの人があの金額なのだから、自分はより評価され、それ以上の金額をもらえるはずだと期待した。
しかし、主人は、その人にも1デナリしか支払わなかった。この人は文句を言ったが、逆に主人に叱られてしまった。
さて、あなたはこの主人の下した判断をどう思うだろうか。これが、唯一正しい神の価値観における判断である。神の価値観が下した人に対する評価は、皆が同じ報酬を受け取るというものであった。
ここから見えてくるのは、神の価値観は人の価値を「行い」では判断していないということだ。神は、「うわべ」で人を裁かないことが分かる。故にイエスは、「うわべによって人をさばかないで、正しいさばきをしなさい」(ヨハネ7:24)と言われた。
あなたも、この例えにある主人と同じ判断を下し、「行い」に関係なく人を愛せるだろうか。それとも、文句を言った者と同じ思いを抱くのだろうか。その回答次第で、自分の価値観が故障しているかどうかがすぐに分かる。では、次の話を見てみよう。
姦淫の女
ある時、律法学者とパリサイ人は、姦淫の現場で捕らえられた1人の女をイエスのもとに連れてきた。彼らは、この女は罪を犯したので、石打ちの刑にしてよいかと尋ねた。それに対して、イエスはこう言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」(ヨハネ8:7)
すると、その場から彼らは去っていき、女だけが残った。そこで、イエスはその女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか」(ヨハネ8:10)と。
女は、「だれもいませんでした」(ヨハネ8:11)と答えた。イエスは、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません」(ヨハネ8:11)と言い、一切、女を責められなかった。
さて、あなたがイエスと同じ場面にいたなら、この女にどのような判断を下すだろうか。この世では、人が過ちを犯したのを見たなら、その人を裁くのが常である。罪を犯したなら、罰を受けるべきとし、罪の行為がもたらした被害に応じ、罰を受けさせる。
故に、この世の価値観では、姦淫をした女に対しては罰を与えるべきという判断を下してしまう。イエスとは全く異なる判断を下してしまうのである。となれば、その価値観は正しい判断が下せていないことになり、故障しているとしか言いようがない。では、次の話はどうだろう。
放蕩息子の例え
イエスは、ルカ15:11~32で、「放蕩(ほうとう)息子」の例えを話された。それによると、あるところに2人の息子がいた。弟は父親にお願いし、自分の受けるべき財産をもらい、家をあとにした。
彼は放蕩の限りを尽くし、財産を使い果たしてしまった。食べる物もなくなったとき、彼はようやく目が覚め、親元に帰る決心をする。自分の犯した罪を父親に告白し、どんな罰でも受ける覚悟で家に帰った。
ところが、父親は一言も息子を責めることもせず、無条件で赦(ゆる)した。それだけではない、素晴らしい贈り物を与え、最高の宴会まで催した。
そこに、兄が畑仕事から帰ってきた。家の近くに来ると、家の騒ぎに驚いた。これは何事かと使用人から事情を聞くと、兄は怒りがこみ上げ、家に入ろうとはしなかった。そこに父親が出てきて、兄をいろいろとなだめるが、へそを曲げたままだった。
さて、あなたはこの父親の取った判断をどう思うだろう。この父親の判断こそ、神の価値観を表している。神の価値観が下した判断は、人の罪は何であれ、無条件で赦されるというものであった。
では、あなたは人が自分に対してした罪を無条件で赦せるだろうか。それとも、あの兄と同じような態度を取ってしまうのだろうか。それによって、価値観が正しく働いているかどうかが確認できる。
他にも、神の価値観を知る御言葉はたくさんある。例えば、「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)とイエスは言われた。
自分の敵を愛するなど、人の価値観では到底理解できないだろう。また、「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい」(エペソ5:20)ともある。
全てのことを感謝することなど、人の価値観では無理である。それはつまり、人の持つ価値観は神の価値観とは大きく異なるということであり、誤った判断を下していることを意味する。なぜなら、神の下す判断こそが正しいからである。
完全に故障している
どうだろう。神の価値観と私たちの価値観とでは、まるで異なる判断を下すことに気付いただろうか。人が持つ共通の価値観では、人の価値を「うわべ」で判断するが、それは誤りであり、その価値観は完全に故障している。
そうとも知らず、私たちは自分の価値観は正しい判断を下していると信じて生きている。それは、あのアヒルの子が、自分をみにくい価値のない「ダメな者」と思って生きていたのと全く変わらない。
そう言われても、にわかには信じがたいだろう。そこで、人の価値観が故障していることを、別の視点からも説明しよう。
人の価値観では、人の価値を「容貌」や「能力」、「行い」や「富」といった「うわべ」で判断する。しかし、それは本当に人の価値を表しているのだろうか。別の言い方をするなら、そうした「うわべ」は、人の「功績」を表しているのだろうか。冷静に考えれば、人の「うわべ」は決して人の功績(価値)など表していないことに気付く。
例えば、人は肌の色の違いで人の価値を決めてきた歴史がある。白人は価値があり、黒人は価値がないと決めつけてきた。しかし、人の肌の違いは、人の努力で得たものなのだろうか。いや違う。親から引き継いだだけであり、そこには、その人の功績など全くない。
例えば、人はその容貌で人の価値を決めてきた。美しい容貌なら価値があり、人から愛され、美しくなければ人から嫌われてきた。しかし、人の容貌の違いは人の努力で得たものだろうか。いや違う。親から引き継いだだけであり、そこには、その人の功績は全くない。
例えば、人はその能力の違いで人の価値を決めてきた。頭が良ければ称賛され、悪ければばかにされる。足が速ければ脚光を浴び、遅ければ見下される。
しかし、こうした能力の違いは、人の努力で得たものだろうか。いや違う。その能力は親から引き継いだだけであり、そこには、その人の功績は全くないのである。
ところが人は言う。たとえ能力や容貌などを親から引き継いだにせよ、それを生かせたのは本人が努力したからだと。「良い行い」は、本人の努力によると。故に、それは人の功績でありその人の価値を表していると。
本当にそうだろうか。もしどんなに頭が良くても、貧しい家庭に生まれ、学校にも行くことができなかったなら、本人がいくら望もうとも、その能力を生かすことなどできない。逆に裕福で、親にも愛される家庭に育てば、受け継いだ能力を磨くことに専念できる。人が「良い行い」ができるかどうかも、その人が育った環境や親に大きく左右される。
しかし、そうした家庭環境や親は、人の選択によるのだろうか。いや違う。人には選択などできない。従って、人の努力も、人の「行い」も、そこには人が誇れるような功績などないのである。
そういうわけで、人の価値を「うわべ」に求めることは誤りとしか言いようがない。人の価値を人の「うわべ」では判断しない、神の価値観こそ正しい。
このように、人の価値観は完全に故障している。誤った判断を下している。この故障した価値観を「肉の価値観」というが、「肉の価値観」に従って人の価値を「うわべ」で判断する限り、誰であれ皆「ダメな者」になってしまう。「みにくいアヒルの子」になる。なぜなら、必ず自分よりも勝った「うわべ」の人がいるからだ。
たとえ自分の方が勝った「うわべ」であったとしても、人は必ず老いていき「ダメな者」になってしまう。そして、「ダメな者」という思いが、怒りや嫉妬を生み、人を愛せないという罪へ人を駆り立てる。しかし、人はそのことに全く気付いていない。これは何という悲劇だろうか。
すると、素朴な疑問が湧いてくる。自分の価値観で見ている自分の姿が誤っているというのであれば、そもそも自分はどのような姿をしているのかと。何が私たちの真実な姿(価値)なのかと。
それは白鳥なのか、それともみにくいアヒルの子なのか。そうした疑問が湧いてくる。そこで次回は、人の真実な姿について見てみることにしよう。それは、神の目に映る人の姿である。
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