(3)種まきの例え
人は神と異なり、人の価値を「うわべ」で判断する。これを「肉の価値観」というが、この価値観が「神の言葉」をふさいでしまい、人に罪を犯させている。それ故、イエスは「肉の価値観」を是正すべく戦われた。その戦いは、今度は「種まきの例え」を通して行われた。イエスは、この例えの意味を弟子たちに詳しく解説することで、「神の言葉」をふさいでしまう敵の正体を教えられたのである。
「また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです」(マタイ13:22)
イエスは、「この世の心づかい」と「富の惑わし」が、「神の言葉」(みことば)をふさぐ敵だと明確に教えられた。「この世の心づかい」とは、人から良く思われようとする思いであり、「人の言葉」で心を満たすことを目指す思いである。「富の惑わし」とは、富で安心を得ようとする思いであり、同時に、富を得ることで人からも良く思われ、おいしい「人の言葉」を食べようとする思いである。ここに共通するのは、「神の言葉」ではなく、「人の言葉」で心を満たそうとすることにほかならない。これが人における罪だとイエスは言われたのである。
パウロは、人が「神の言葉」をふさがれてしまっている状態を、「かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです」(Ⅱコリント3:15)と言ったが、この「おおい」の正体を、イエスは「この世の心づかい」と「富の惑わし」だと言われたのである。
しかし、「富の惑わし」は罪として認識できても、人は「この世の心づかい」を罪だとは思わない。むしろ、人のことを思い、人を気遣うことは良いことだと思う。だからイエスが言われたことに反発を覚える。だがその反発こそが、人が神と異なる「肉の価値観」に支配されていることを証ししている。
いずれにせよ、「肉の価値観」は見た目が良ければ「○」とし、悪ければ「×」とするので、少しでも見た目を良くすることを人は求め、それでもって愛されようとする。それが「この世の心づかい」と「富の惑わし」という思いを生んでいる。イエスはそれを、「神の言葉」をふさいでしまう罪だと一刀両断で切り捨てたのである。そうした行為には、自分が良く思われたいという思いが潜んでいて、「神の言葉」ではなく「人の言葉」で安心を得ようとするもくろみがあることを知っていたからである。
イエスはここで、彼らを惑わしている「肉の価値観」という敵を、「この世の心づかい」という側面から攻めたのであった。とはいえ、弟子たちにはイエスが言われたことの意味を理解できなかった。そこでイエスは、そのことを彼らに分からせる機会をうかがっていた。そして、ようやくその時が訪れた。
イエスはある時、弟子たちがご自分を誰だと思っているかを確認された。弟子たちは、イエスを神の御子キリストであると言った。その確認を境に、イエスは、ご自分が苦しみを受け、殺され、3日目によみがえることを示し始められた。「その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた」(マタイ16:21)。
しかし、殺され、よみがえるなどと言われても、そのようなことは信じられなかった。というより、起こるはずなどないと思っていたので、ペテロは、「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません」(マタイ16:22)とイエスをいさめ、「神の言葉」をふさいでしまった。ペテロは、人のことを思う「世の常識」を優先させ、イエスの口から出た御言葉をふさいでしまったのである。イエスはそれに対し、こう切り返した。
「しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。『下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている』」(マタイ16:23)
注目すべきは、イエスが「サタン」と言われたことだ。ペテロは、イエスの言われるようにサタンだったのだろうか。いや違う。では、なぜそう言われたのだろう。それは、ペテロの言ったことが、サタンの思惑と同じであったからにほかならない。サタンの思惑は、御心を邪魔することであるが、ペテロの言うとおりになればキリストの十字架の贖(あがな)いは達成されず、御心が本当に邪魔されてしまうことになる。故に、「下がれ。サタン」と言われたのである。
そしてイエスは、ペテロがサタンと同じ思惑に至った原因を、このあと鋭く指摘された。「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と。人のことを思うとは聞こえはよいが、要は、自分が周りの人たちから良く思われたいという思いから「世の常識」を優先させ、「神の言葉」を拒むことである。これこそが、人から良く思われようとする「この世の心づかい」であり、「おおい」の正体であった。
私たちは、人から良く思われようと、人が共有する「世の常識」を優先させていないだろうか。「世の常識」を持っていれば人から良く思われるから、「世の常識」というフィルターで「神の言葉」を聞こうとしていないだろうか。すると、私たちの罪のために死んでよみがえったという「十字架の言葉」は、愚かな話にしか聞こえなくなる。「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です」(Ⅰコリント1:18)。なぜなら、死んだ人がよみがえるなどあり得ないからだ。
ペテロは、人から良く思われようとする「この世の心づかい」から人のことを思い、「世の常識」を手にイエスの口から出た「十字架の言葉」を抹殺しようとしたのである。だから、「下がれ。サタン」と言われた。そのことでイエスは、先に「種まきの例え」で教えた「この世の心づかい」の実際を、弟子たちに教えようとされた。
「下がれ。サタン」と言われた話には、実はまだ続きがある。イエスはご自分が死んでよみがえるという「十字架の言葉」を、弟子たちが何としても信じられるようにと、あることをされた。それから6日後に、ペテロとヤコブとヨハネを連れて高い山に行き、彼らの目の前でその姿を変えられたのである。イエスは太陽のように輝き、その衣は白くなった。そこに、何と死んだはずのモーセとエリヤが現れ、イエスと話し始めた(マタイ17:1~3)。
さらに不思議なことが起きた。光り輝く雲がイエスとモーセとエリヤを包み、そこから、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」(マタイ17:5)という声がしたのである。弟子たちは、ひれ伏して恐れた。そこで、イエスは彼らに、「起きなさい。こわがることはない」(マタイ17:7)と言われた。こうしてペテロは、人のことを思う「世の常識」よりも、イエスの言葉を信じるようになった。死んだはずのモーセとエリヤがよみがえったのだから、イエスもよみがえらないはずはないと信じることを目指した。そのことで、御言葉をふさぐ「この世の心づかい」の恐ろしさを知り、「下がれ。サタン」と言われたイエスの言葉を理解できた。
この出来事からのちは、ペテロはイエスの言葉をふさぐような行動は取らなくなった。だからといって、本当にイエスがよみがえることを信じられるようになったかというと、そうではなかった。信じたいという気持ちにはなったが、やはり信じ切ることまではできなかった。それ故、イエスが再び、「人の子は、いまに人々の手に渡されます。そして彼らに殺されるが、三日目によみがえります」(マタイ17:22、23)と話されたとき、弟子たちはよみがえりを信じ切ることができず、非常に悲しんだ。「すると、彼らは非常に悲しんだ」(マタイ17:23)。ただ前回のように「世の常識」に立ち、イエスをいさめるようなことはしなくなった。
私たちもそうだが、いざ自分が患難に遭うと、神が助けてくださるという「神の言葉」を信じたいと思っても信じ切ることができない。「世の常識」から、本当に助けてもらえるのだろうかと不安になってしまう。だからといって、「神の言葉」に対しつぶやくわけでもない。弟子たちも、それと同じであった。このことから、弟子たちは依然として「肉の価値観」による「この世の心づかい」に支配され、「世の常識」に惑わされていたことが分かる。いずれにせよ、イエスはペテロの中にあった「肉の価値観」と、こうして戦われた。では、イエスが人を惑わす「肉の価値観」とどう戦われたのか、その足跡をさらにたどってみよう。
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