(2)心の貧しい者は幸いです
人は神と異なり、人の価値を「うわべ」で判断する。これを「肉の価値観」というが、この価値観が御心を見えなくさせ、人に罪を犯させている。それ故、イエスは「肉の価値観」を是正すべく戦われた。イエスが「肉の価値観」と公に戦われたのは、山上の垂訓といわれる説教の冒頭からであった。
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」(マタイ5:3)
「貧しい者」と訳されているギリシャ語は「プトーコス」[пτωχός]で、これは、恐れて縮こまっている状態を意味する動詞から生まれた言葉で、物乞いをするしかない極めて貧しい人たちを意味する。それに「心」が付くので、「心の貧しい者」とは、心が物乞いするしかない者たちを指す。それは自らの罪に気付き、神に憐れみを乞う人たちである。イエスは、そうした人たちにこそ天の御国が訪れるから幸いだ、と言われた。
しかし、「肉の価値観」では、そのようなことは到底信じられなかった。というのも、「肉の価値観」では、物乞いをするような者は価値のない者であり、そのような者は神からの報いなど受けられないとするからである。「肉の価値観」では、「心の貧しい者」こそ天の御国から最も遠い存在となり、「律法の行い」を達成し多くの誉れを手にしている者こそが、天の御国に最も近い存在となる。そうしたことから、この公で語られた説教の第一声は、人の価値を「うわべ」で判断する「肉の価値観」と真っ向からぶつかった。ここに、人の「肉の価値観」を是正すべく戦うイエスの姿勢をうかがい知ることができる。
前回のペテロの話を思い出してほしい。ペテロは自らの罪に気付き、必死になってイエスに憐れみを乞うた。「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」(ルカ5:8)。ペテロは、自らの心の貧しさを訴えたことで、神との交わりが回復し救われた。この出来事からしても、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」と言われたイエスの言葉は、まことに真実であったことが分かる。人は罪に気付き、神に憐れみを乞うことで救われるのである。
イエスはそのことを、例えの中でも話されている。「ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました」(ルカ18:13、14)。従って、天の御国は良い行いを積んだ者に訪れるとする「肉の価値観」は誤りであった。イエスの説教は、その誤りを指摘することから始まり、説教はさらに続いた。その中で、イエスは罪についても語られた。
「『姦淫してはならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです」(マタイ5:27、28)
これも注目すべき内容である。イエスは「思い」も罪であるとしたからである。神の前では、「行い」も「思い」も区別はないと言われた。しかし、「肉の価値観」は人の価値を「うわべ」で判断するので、人は罪を「行い」だけでしか見ない。「思い」を罪とはしない。だから、人の力で罪は処理できるとする。ところが、「思い」まで罪となれば、もう人の力ではどうすることもできない。誰一人、罪を言い逃れることはできず、みな罪人になってしまう。
だが、それこそがイエスの狙いであった。イエスは、どうにもならない罪に気付かせ、おまえたちこそ、神に物乞いをするしかない「心の貧しい者」たちだと分からせようとされたのである。そのことで、人々を天の御国に導こうとされた。ここにも、「肉の価値観」と戦うイエスの姿が見て取れる。
イエスの話はまだ続き、いよいよ「肉の価値観」がもたらした生き方を斬りつける。その生き方とは、自らの「うわべ」を良くすることで、人からほめられるようとする生き方にほかならない。別の言い方をするなら、人から良く思われようとする「この世の心づかい」の生き方である。「肉の価値観」では、人の価値を「うわべ」で判断するので、どうしてもそうした生き方になる。イエスは、その生き方を斬りつけられた。
「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです」(マタイ6:1、2)
さらにイエスは、「神にも仕え、また富にも仕えるということはできません」(マタイ6:24)と語り、「この世の心づかい」だけでなく、「肉の価値観」がもたらした「富の惑わし」の生き方も斬りつけられた。そして、イエスは、人が富に仕えてしまうのは、「死の恐怖」が明日のことを心配させるせいだと知っていたので、明日のことは心配するなと励まされた。最後に、「肉の価値観」は互いの「うわべ」を比べさせ、裁き合わせるので、「さばいてはいけません。さばかれないためです」(マタイ7:1)と語り、「肉の価値観」と戦うことを命じられた。
このように、イエスは公の説教を通して、「肉の価値観」を真っ向から否定し、それがもたらす生き方を斬りつけ、それと戦うよう話された。が、しかし、弟子たちは戦うべき罪の正体が「肉の価値観」であることも、イエスが語られたことの真意も、この時点で気付くことはなかった。ただ表面的な理解をしただけで、知識として受け止めるのが精いっぱいであった。では、引き続き「肉の価値観」と戦われたイエスの足跡をたどってみよう。
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