メシアの待望
神は人をご自分に似せて造られました。人は神に愛され、神と共に暮らすようになりました。ところが、悪魔は蛇を使って人を欺き、罪を犯させました。その罪のせいで、人は神との結びつきを失ってしまいました。これを「死」といいます。
人は神との結びつきを失ったことで神に愛されている自分が見えなくなり、やがて土に帰る滅び行く体になってしまいました。それは言いようもない不安と恐れを人にもたらすので、人はそこから何としても逃れようとしました。必死になって愛される自分を目指し、少しでも長く生きられる道を確保するようになりました。
愛される自分を目指すには、周りの人よりも良く思われなければなりませんでした。そのため、人は互いを比べるようになり、嫉妬や怒りを覚えるようになり、その感情はさまざまな悪へと発展していきました。
また、少しでも長く生きられる道を確保するには、豊かな衣食住を必要としたため、人は互いに富の奪い合いをするようになりました。金銭を愛するようになり、それがあらゆる悪の根となりました。「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです」(Ⅰテモテ6:10)。こうして、神との結びつきを失う「死」は、まことに「悪」となって君臨し、人を「死の恐怖」の奴隷にしてしまいました。「一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々」(ヘブル2:15)。人を闇の中に突き落としてしまいました。
神は、人の中に神との結びつきを失う「死」が入り込むと、こうした闇が訪れることを誰よりもよく分かっていました。ですから神は、悪魔が人を欺き、神との結びつきを失う「死」を持ち込ませたあと、悪魔にこう言われました。「彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく」(創世記3:15)。神は、「彼は、おまえの頭を踏み砕き」と言い、人類を悪魔の仕業から救い出す「彼」が来られることを約束なさいました。
その後、神はアブラハムに対し、その「彼」が人を神のもとに連れ戻し(神を知るようにさせ)、カナンの地(神の国)へと導いてくれることを語ります。神はそれを「永遠の契約」とされました(創世記17:7、8)。また神は、その「彼」についてダビデにはこう語りました。
「あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる」(Ⅱサムエル7:12、13)
神は、その「彼」が、とこしえまで堅く立つ王国を確立すると言われました。人々はこれを聞き、「彼」を待望するようになりました。苦しみから救ってくれる「救い主」が、ダビデ王の子孫から現れることを待ち望みました。闇に輝く光を待望するようになりました。神は、その「救い主」に関し、その後も預言者を通して語り続けます。例えば次のように。
「神である主の霊が、わたしの上にある。【主】はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、【主】の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め」(イザヤ61:1、2)
神は人々に、その「救い主」なる「彼」は、神から油をそそがれた者だと教えました。「油そそがれた者」が、私たちの「救い主」となり、貧しい者に良い知らせを届け、「死の恐怖」の奴隷となってとらわれた人々を解放し、慰めてくれることを語りました。この「油そそがれた者」のことを、当時のユダヤ人たちが使っていたアラマイ語では「メシア」といい、ギリシャ語では「クリストス」[Χριστός]といいます。この「クリストス」を日本語読みにすると、「キリスト」になります。
こうして人々は、自分たちを闇から解放してくれる「メシア」(キリスト)が来られることを知りました。やがて、人々はローマ帝国の支配に苦しむようになると、「メシア」が私たちをその支配から解放し、国家が再建されることを夢見るようになりました。
しかし、神の思いは人々の思いとは異なり、神が「メシア」を通してしようとしていたことは、人を苦しめている「悪」の根本原因、「死の恐怖」から解放することでした。神との結びつきを取り戻させ、神に愛されている自分に気付かせ、永遠に生きられるようにすることでした。というのも、たとえローマ帝国から解放され、全世界を手に入れたとしても、永遠に生きられる「まことのいのち」を損じたら、何の得にもならないからです。
「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう」(マタイ16:26)
人々はそうした神の思いまでは知りませんでしたが、いずれにしても「キリスト」と呼ばれる「メシア」が来られることを切望しました。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています」(ヨハネ4:25、新共同訳)。こうした時代の中、いよいよ約束された「彼」が現れます。その名をイエスといいました。イエスは、会堂に行かれた際、手渡されたイザヤ書の中からイザヤ61:1を朗読し、次のように宣言します。
「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました」(ルカ4:21)
イザヤ61:1には、先に見たように、「神である主の霊が、わたしの上にある。【主】はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え・・・」という約束が書かれています。イエスはここで、油注がれた者(メシア)が来るという約束は実現したと宣言することで、ご自分こそが「メシア」(キリスト)であり、「神の国」を実現するために来た者であることを明かされました。ルカの福音書は、この宣言が公に語られた最初の言葉として記されています。
マタイの福音書を見ると、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」(マタイ5:3)が、最初に公に語られた宣言として記されています。ここでもイエスは、先に見たイザヤ61:1、2の預言、「貧しい者に良い知らせを伝え・・・」を念頭に、暗に、ご自分が預言された「メシア」であることを証しされました。
マルコの福音書では、次の言葉をもって宣教が開始されたとあります。「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)。ここでもイエスは、ご自分が約束された「神の国」を実現する「キリスト」であることを宣言されました。
さらにヨハネの福音書を見ると、バプテスマのヨハネが、「というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである」(ヨハネ1:17)という証言をもって、ヨハネの福音書の話が展開されていきます。ここでも、イエスが約束された「キリスト」であり、ここに「救い主」が与えられるという約束が実現されたことが告げられています。
イエスは、こうした公の宣言を皮切りに、ご自分が「メシア」(キリスト)であることのしるしを行っていきました。多くの病人を癒やし、多くの奇跡を行い、多くの人の罪を赦(ゆる)し、彼らを支配していた「死の恐怖」を取り除いていかれました。そのしるしの最後が、十字架でした。ですから十字架で殺される前、「あなたは、ほむべき方の子、キリストですか」(マルコ14:61)と尋ねられると、「わたしは、それです」(マルコ14:62)と答えられました。そして、十字架にかけられ、殺されます。
ところが、何と3日目に死からよみがえられました。イエスは、よみがえった姿を人々に見せることで、ご自分こそ死に打ち勝つ「キリスト」であり、人々を「死」から贖い出せる唯一の「救い主」であることを証明されたのです。イエスの十字架の死は、まさに人を「死の恐怖」の奴隷として苦しめてきた「死」を滅ぼし、一生涯「死の恐怖」の奴隷となった人々を解放するためでした。
「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした」(ヘブル2:14、15)
イエスこそが、まことに神が約束された「彼」、「キリスト」でした。「悪」となって君臨してきた「死」を滅ぼし、人を「死の恐怖」の奴隷から解放するために来られた「キリスト」でした。イエスは、そのことを死からよみがえることで証しされたのです。
人々はよみがえられたイエスの姿を見て、この方こそ「キリスト」であったと証言するようになりました。「死」から贖い出せる唯一の「救い主」であることを証しするようになりました。ここに、イエス・キリストという言い方が誕生します。
イエスのよみがえりはまことに真実であったため、人々はどのような迫害の中にあってもイエスはキリストだと信じ続け、この良き知らせを世界中に伝えるようになりました。それにより、イエスをキリストとして信じる人たちの群れが世界中に広がり、今や、イエス・キリストを信じるクリスチャンは世界中に誕生しました。それを国の教えとする国家も、幾つも生まれました。
こうしたクリスチャンの広がりを支えたのは、何より人々がイエス・キリストを信じたことで神に愛される自分を知り、死の先に「希望」を見いだせるようになったからにほかなりません。この「希望」が人々を「死の恐怖」の奴隷から解放し、ここに神が言われた、「捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ」(イザヤ61:1)の成就がありました。人々は、まことに死に支配された闇の中に、輝く光を見たのです。それ故、キリストが地上に来られたことを祝うクリスマスは、世界で最も大きなお祝いとなりました。
「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」(ヨハネ1:5)
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