人は自分の価値を「うわべ」で判断する。何をしてきたのか、何ができるのか、何を持っているのか、どのような容貌なのか、そうした「うわべ」で自分の価値を判断する。これを「肉の価値観」というが、この価値観が神の愛を見えなくさせ、人を苦しめている。それ故、イエスは人々を平安へと導くために、「肉の価値観」と戦う道を歩まれた。その戦いは、イエスがエルサレムに入城される際、「ろばの子」に乗ったことでいよいよ本格的になっていく。というのも、王であるイエスが入城するという晴れ舞台において「ろばの子」に乗るなどとは、「肉の価値観」では到底想像もできないからだ。
考えてみてほしい。当時、最も偉大な王はローマ皇帝であったが、その王が「ろばの子」に乗って入城する姿を当時の人は想像できただろうか。全く想像などできなかった。「肉の価値観」が想像させる王の姿は、多くの馬に立派な馬車を引かせ、多くの兵士たちを引き連れて入城する姿でしかない。私たち日本人も、天皇に対しては似たような想像をする。天皇が来られると聞くとき、さぞかし立派な車に乗り、その周りには多くの車と警察のバイクが列を成す姿を想像する。誰も引き連れず、1人で軽自動車に乗る天皇の姿など想像すらできない。
ならば、ローマ皇帝よりも天皇よりも偉大な王、イエス・キリストが入城するとなれば、「肉の価値観」としてはさぞかし素晴らしい入城の姿を想像するのである。ところが、イエスは「肉の価値観」の期待を裏切り、「ろばの子」に乗って入城された。これは明らかに、「肉の価値観」に対する攻撃であり、そこには「肉の価値観」を砕こうとする明確な神の思いが見て取れる。その思いは、単なるロバではなく、誰も乗ったことのない、「ろばの子」を指示されたことからもうかがい知ることができる。
「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない、ろばの子が、つないであるのに気がつくでしょう。それをほどいて、引いて来なさい」(マルコ11:2)
イエスは、ただ単にロバを選ばれたわけではなかった。そのロバは、「まだだれも乗ったことのない」ものにせよと言われた。誰も乗ったことのないということは、誰も目を留めない弱々しいロバであり、しかも、大人のロバではなく子どものロバを指示された。当時の「肉の価値観」では、子どもは何もできないので価値のない存在とされていたが、イエスは価値がないとされるロバを指示されたのである。
これは、人の持つ「肉の価値観」では到底あり得ない選択であり、この選択からも、「肉の価値観」と戦うイエスの熱い思いをうかがい知ることができる。すなわち、イエスは「肉の価値観」に支配されている者たちをはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのであった。
「しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです」(Ⅰコリント1:27)
考えてみれば、王の王であるイエス・キリストは、立派な家ではなく、寂しい場所で生まれ、飼葉おけに寝かされた。また、王家の子としてではなく、大工の子として育てられた。そして、皆が交わらない罪人とも積極的に交わられた。さらには、王としてイスラエルの国家を再建することもなく、人々からさげすまれ、十字架で殺された。全てが、「肉の価値観」の考えとは正反対の姿であった。そうした姿は、全て預言者を通して語られていた。
「彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった」(イザヤ53:2、3)
実は、イエスが「ろばの子」に乗ることも預言されていた。「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに」(ゼカリヤ9:9)。イエスはこの預言通り「ろばの子」に乗ってエルサレムに入城することで、ご自分が預言で語られていた王であることを示すと同時に、人が持つ「肉の価値観」を壊そうとされたのである。
つまり、神には初めから「肉の価値観」を壊す計画があり、その計画に沿ってイエスは来られた。計画の実行はイエスの誕生から始まり、「肉の価値観」では考えられないまことに貧しい場所で生まれた。宣教を開始しても、「肉の価値観」において価値のないとされる罪人を愛し、「肉の価値観」においては価値のないとされる「仕える者」の姿に徹してこられた。そうすることで、「肉の価値観」においては価値があるとされる権力者をその座から引きずり下ろし、逆に低い者を高くされたのである。
「権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました」(ルカ1:52、53)
このように、イエスは人が持つ「肉の価値観」と戦われたが、人はいまだ「肉の価値観」に覆われている。そのため、残念ながら神の愛が見えない。自分の行いや肩書、持っている富や能力、そうしたものに左右されることなく神に愛されていることに全く気付かない。この世でどんなに悪いレッテルを貼られようが、あるいはどんなに素晴らしいレッテルを貼られようが、神の目にはみな同じ罪人であり、キリストであるイエスが、そうした罪人を招くために来られたことを、人は全く知らない。それは、人の持つ「肉の価値観」が、「うわべ」が良くなければ愛されないとささやくからである。だが、イエスはこう言われた。
「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」(マルコ2:17)
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