前回は、イエスがロバで入城された様子について述べた。今回は、その続きを見てみよう。イエスはエルサレムに入城したあと、宮に入られた。そこで、誰もが予想しない行動を取られた。
「それから、イエスは宮に入って、宮の中で売り買いする者たちをみな追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。そして彼らに言われた。『「わたしの家は祈りの家と呼ばれる」と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている』」(マタイ21:12、13)
イエスは、何と宮の中で商売をしていた者たちをみな追い出し、彼らの商売道具を倒されたのである。そんなことをすれば、今日なら営業妨害ならびに器物損壊の現行犯で逮捕されてしまう。そういう行為を目の当たりにしたのだから、そこにいた者はさぞかし驚いたことだろう。それは、今までのイエスからは想像すらできない目を疑うような光景であっただろう。しかし、彼らを驚かせることが分かっていても、それでもイエスは徹底的に商売人を追い出された。そこまでして、一緒にいた弟子たちに何を教えたかったのだろう。そこには、どんな意味があったのだろうか。それを解くカギは、「宮」の意味にある。
「宮」というのは、人が神に祈りをささげる場であり、神と交わるための地上における神の家であり、神聖な場所である。日本における神聖な場所といえばお寺や神社であるが、そうした神聖な場所で商売がなされていた。そうした場所で商売がなされるというのは、古今東西、今も昔も、ごく当たり前の光景であり、誰も疑問には思わない。ところがイエスは、「宮」を商売の場にしてはならぬと、富に仕える者たちを排除しようとされた。そして、神の「宮」のあるべき姿を訴えられた。
では、私たちにとっての「宮」は、すなわち、神と交わりをし、神に礼拝をささげる場所はどこなのだろうか。イエスが言われた、「わたしの家は祈りの家と呼ばれる」とは、どこを指しているのだろう。一体どこに、イエスが言われた、「わたしの家」となる「宮」があるというのだろうか。それは、イエス・キリストを信じる者の体にある。
「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか」(Ⅰコリント6:19)
イエスが商売を排除した「宮」は、まさしく私たちのうちにある「聖霊の宮」を象徴していた。イエスは、その「聖霊の宮」で商売をしていないかと問うたのである。聖霊に仕えるのではなく、富に仕え、富で心を満たそうとしていないかと問うたのである。「富」に仕えるとは、人の言葉で心を満たそうと、人の称賛を得ようとすることであり、お金で心を満たそうと、お金を得ようとすることを指す。イエスは、そうした「神の言葉」以外で心を満たそうとすることを排除しようとされたのであった。
というのも、「聖霊の宮」を有していながら、私たちはみな「富」に仕えてしまっているからだ。私たちの中には三位一体の神である聖霊が住んでおられるのに、神に仕え、「神の言葉」で心を満たそうとはしないので、イエスは「宮」から、そうした行為を排除しようとされた。それはまさに、私たちのうちに住む罪と戦う姿にほかならない。では、どうして私たちはみな「富」に仕えてしまうのだろう。
その昔、人はアダムの罪により神との結びつきを失って生きられなくなった。神に愛されている自分が見えなくなり、朽ち果てる体となった。こうした人の状態を「死人」(ヨハネ5:25)といい、「死の恐怖の奴隷」(ヘブル2:15)という。要は、人の一生に、「死」というマイナスが付いてしまったのである。この「死」というマイナスは、「死の恐怖」を容赦なくもたらし、見える結果を人に要求し、見えるもので安心と安全を確保させようとした。それにより、人は人の価値を「うわべ」で判断するようになり、「うわべ」を着飾ることで安心を得ようと、「富」に仕える者になってしまった。
こうした価値観を「肉の価値観」というが、人は「死」というマイナスを背負うようになったことで、「肉の価値観」を持つようになった。この「肉の価値観」は、人がどのような能力を持っているか、何ができるか、どのような容貌か、そうした「うわべ」で人の価値を判断させてしまう。それゆえ、誰であれ完璧な「うわべ」を持つ者などいないので、人は自分の「うわべ」を見て価値がないと思い込み、必死になって「うわべ」を着飾ろうとする。自分の価値を少しでも良くしようと「富」をむさぼり、「富」で自分を着飾ろうとする。しかし、どんなに着飾っても、神が造られた花の1つにも及ばない。
「しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした」(マタイ6:29)
なぜイエスは、「このような花の一つほどにも着飾ってはいません」と言われたのだろう。それは、人は神に似せて造られた者であり、神の栄光を輝かせている存在であるからだ。分かりやすく言うと、人の価値は「うわべ」にあるのではなく、その存在自体にあるにもかかわらず、しかもその価値は比類なき最高のものであるにもかかわらず、それを必死になって価値のない「富」で覆い隠そうとするから、「このような花の一つほどにも着飾ってはいません」と言われたのである。
そうした人の行為は、神からすると、まことに残念としか言いようがない。ゆえにイエスは、何としても愚かな行為から人を助けようと、「宮」に入られ、「富」に仕える者たちと戦われた。「宮」で商売をし、そこを強盗の巣にしてしまった者たちを追い出すことで、私たちのうちにある「聖霊の宮」を、強盗の巣にしてしまった「肉の価値観」と戦われたのである。
このように、イエスは誰もが予想しない行動を取ることで、「富」に仕えさせる「肉の価値観」を排除しようとする神の強い思いを示された。そこには、「死の恐怖の奴隷」となった人々を解放しようとする神の熱い思いがあった。イエスが「宮」に辿(たど)り着き、そこで商売をする者たちを追い出される姿は、まさに私たちのうちの「聖霊の宮」から、「富」をむさぼらせる「肉の価値観」を徹底的に排除しようとされる神の姿にほかならない。イエスのされた一つ一つの行動には、こうした深い意味が隠されていたのである。
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