アメリカ合衆国の初代大統領ジョージ・ワシントンは肺炎になったとき、当時、最も効果があるとされた治療を受けた。それは何と、血を抜くという治療であった。病気の原因が血にあると信じられていたので、そのような治療が行われた。この治療で大統領がどうなったかは、容易に想像がつくだろう。彼は良くなるどころか、出血多量で死んでしまったのである。正しい治療を知らなかったとはいえ、これは何という悲劇だろうか。
この話を持ち出したのは、私たちが罪の原因を知らず、罪に対して正しい治療を行っていないからだ。私たちは、罪を犯すのはその人が悪いせいだと思い、「罰」でもって罪の治療をしてしまう。それは、神からすると到底考えられない治療なのである。なぜなら、罪の原因はその人が悪いからではなく、神の愛が見えないことにあるからだ。まさに、罪は「病気」と同じであり、神の愛でしか癒やせない。イエスはそのことを「放蕩(ほうとう)息子の例え」で教えられた。
放蕩息子の例え
放蕩(ほうとう)息子は罪を重ね、どうにもならない状態にまで追い込まれた。それでようやくわれに返り、自分の罪を何とかしなければと反省し、どうすればよいか考えた。そこで出した答えは、父親の前で罪を懺悔(ざんげ)し、父親から「罰」を受けることであった。その「罰」は、親のもとで働く使用人の1人にでもしてもらうことであった(ルカ15:17~19)。この彼の考えこそ、私たちが信じて疑わない、罪に対して最も効果があるとする治療である。
ところが、いざ放蕩息子が父親のもとに行くと、父親は「罰」を与えるどころか、彼が味わったこともない愛を体験させ、これでもかと最大限の愛をもって息子の治療をしたのである(ルカ15:22~24)。イエスはこの例えを通して、人の罪は神の愛が見えないことで生じた「病気」であって、神の愛でしか治療できないことを教えられた。
このイエスの教えが正しいとなれば、私たちが行ってきた治療は、まさにジョージ・ワシントンを死に追いやったと同じ誤った治療となる。これは何としたことだろう。これが事実であれば、まことに罪に対する対応にパラダイムシフトが起きてしまう。それ故、イエスの言われたことが本当かどうか、にわかには信じがたいと思う人は多いだろう。そこで、「罪」は本当に、神の愛が見えないことによる「病気」で間違いないか、罪の正体を知る旅に出てみたい。
罪の正体を探るⅠ
初めに、「罪」とは何かを定義する。聖書は、罪とは律法に逆らうことだと教える。「罪とは律法に逆らうことなのです」(Ⅰヨハネ3:4)。その律法は、「愛せよ」の一語に集約されている。「律法の全体は、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という一語をもって全うされるのです」(ガラテヤ5:14)。従って、人を愛することと逆行する「怒り」「嫉妬」といった思いは罪となる。この罪が、本当に神の愛が見えないことで生じるかどうか探ってみよう。
では、問いたい。あなたはどういう時に「怒り」を覚えるだろう。例えば、頑張ったのに認められないとき、「怒り」を覚えないだろうか。誰であれ、自分が認められず低い評価を受けると「怒り」を覚える。その「怒り」の下に横たわっているのは、明らかに「愛されたい」という願望である。
では、あなたはどういう時に「嫉妬」を覚えるだろう。例えば、人と自分を比べ、自分よりも愛される人を見ると「嫉妬」しないだろうか。その昔、カインはアベルと自分を比較し「嫉妬」し「怒り」を覚え、アベルを殺してしまった。その「嫉妬」の下に横たわっているのも、明らかに「愛されたい」という願望である。
つまり、「愛されたい」という願望が罪の思いを生み出している。そもそも「愛されたい」という願望は、「愛せよ」の一語に集約される神の律法に逆らっているので、そうした罪の思いを抱くのは当然と言えば当然である。では、さらに罪を探る旅を続けてみよう。今度は、どうして人は「愛されたい」という願望を持ってしまったのかを探ってみたい。
罪の正体を探るⅡ
人は幼い時にチョコレートやアイスクリームを食べ、その味を覚えてしまうと、その味が忘れられなくなり、生涯求め続けるようになる。塩味も同様である。いったんその心地良さを覚えてしまうと、その味を生涯求め続けてしまうのである。私たちの「魂」にも同様のことが言える。私たちが「愛されたい」という願望を持っているということは、私たちの「魂」は、愛されることの心地良さを知っていることを意味する。それは当然である。なぜなら、人は神の愛の中で生きるように造られたからだ。
神は人をご自分に似せて造られた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記1:26)。そのために、土地のちりで人の「体」を造り、そこにご自分の「いのち」を吹き込まれた。「その鼻にいのちの息を吹き込まれた」(創世記2:7)。「いのち」と訳された言葉は「ハイイーム」[חַיּׅים]という「複数形」の単語で、三位一体の神の「いのち」を表している。「息」と訳された言葉は「ネシャーマー」[נְשָׁמָה]で、「魂」という意味があり、神は人の「魂」をご自分の「いのち」で造られたことを教えている。
その神は三位一体の神であり、互いが互いを思いやる「愛」の関係にあり、互いの「いのち」が互いに愛されることの喜びを知っていた。故に、神の「いのち」で造られた人の「魂」も、神に愛されることの心地良さを知っていた。それは、人は神の愛の中で生きるように造られたということを意味する。
では、神に愛される喜びを知っていたことが、どうして「愛されたい」という願望に変貌したのか、今度はそのことを探ってみよう。そこにこそ、人が罪を犯すようになった原因がある。
罪の正体を探るⅢ
アダムとエバは神と共に暮らしていた。そこでは、言うまでもなく神に愛されている自分を十分に認識することができた。そのため、彼らの中には「愛されたい」という願望は全くなかった。
ところが、そこに悪魔が登場し、神と人との関係を分断させてしまった。それを「死」というが、「死」が入り込んだことで、人は神を見ることも、神に触れることも、神と会話することもできなくなってしまった。人は神と分断され、神の愛を全く認識できない「死の世界」で暮らすことになったのである。それが、私たちが生まれながらに住む今日の世界の始まりである。すると、人はどうなるだろう。
人は神の愛が見えなくなれば、当然「愛されたい」という願望を抱くようになる。これは、十分な食物が供給されてお腹が満腹の時は「食べたい」という欲求など全く湧いてこないが、食物の供給が絶たれたなら「食べたい」という欲求が生じるようになるのと同じである。
ということは、神と人を分断する「死」が神の愛を認識できなくさせ、人の中に「愛されたい」という願望を生じさせ、人に罪を犯させるように仕向けたことになる。実際、このあとアダムとエバは自分の姿を恥ずかしいと思うようになり、いちじくの木の葉で腰のおおいを作り、愛されようとした(創世記3:7)。
このことはアダムの時代に起きたことであったが、私たちの「魂」はアダムの「魂」からの枝分かれなので、神に愛される喜びを初めから知っていた。ところが、私たちが生まれた世界は神の愛が認識できない「死の世界」であったため、私たちは生まれながらに「愛されたい」という願望を持って生きるようになった。「魂」は、神の愛を慕いあえぐようになったのである。「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます」(詩篇42:1)。
しかし、「死の世界」では神が見えない。見えるのは「人」だけである。だから、人はその願望を「人」から愛されることで満たすしかなく、「人」を「神」の代わりにしてしまった。ここに偶像礼拝の起源がある。とはいえ、人から良く思われることで「愛されたい」という願望を満たす以外に方法はなかったので、偶像礼拝を続けた。
ところが、いくら人から良く思われ愛されようとも、しょせん、人は神の代用であり、人が「魂」の知る喜びを与えてくれるはずもなかった。そうなると、満足できる愛を提供できない人に対し、どうしても「怒り」「嫉妬」「敵意」が生じてしまう。「愛されたい」という願望は、こうして「愛せよ」に逆らう罪へと発展した。
これで罪の正体は明らかになった。それは、神の愛を見えなくさせた「死」に原因があった。まさしく「死のとげ」が「罪」であった。「死のとげは罪であり、罪の力は律法です」(Ⅰコリント15:56)。
罪の正しい治療
イエスが「放蕩息子の例え」で教えられたように、人の罪は神の愛が見えないことによる「病気」で間違いない。その人が悪いせいで罪を犯しているわけではない。神に愛されていることが認識できない「死の世界」に暮らすから、自分が愛されようと「目の欲」「肉の欲」「自慢欲」が生じ、人は罪を犯すのである。罪へと結びつく「欲」は人から出たものではなく、まさしく「死」が支配する「この世」から出ていたのである。
「すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです」(Ⅰヨハネ2:16)
であれば、「罰」でもって罪を治療しても全く意味がない。そんなことをすれば、かえって人は罪を隠すようになり、ますます罪の状態を悪くしてしまう。間違った治療がジョージ・ワシントンを殺してしまったように、そんな治療を続ければ相手を霊的に死なせてしまう。
罪は神の愛が見えないことによる「病気」なのだから、罪に対する正しい治療は、神がいかに私たちを愛しているかを知るようにすることしかない。そこでキリストはイエスとして「死の世界」に来られ、私たちのために十字架にかかり、神の私たちに対する愛を明らかにされた。
「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」(ローマ5:8)
従って、人の罪は、この「キリストの打ち傷」でしか癒やされない。「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです」(Ⅰペテロ2:24)。神との関わりの中で、神に愛されていることを知るようになることでしか癒やされないのである。ただその治療を、人の価値観が「否」と言って拒んでしまう。そして、神からすると到底考えられない治療でもって、罪を治そうとしてしまう。
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