神は愛であり、人はその愛の神に似せて造られた。そのため、人は人を愛することに喜びを覚え、人を愛せないことに苦しみを覚える。人を「敵」にし、人に「憎しみ」を抱き、人と「争う」、これが人の苦しみとなる。この苦しみを解決するには、どうして人が「敵」になってしまうのか、その原因を明らかにする必要がある。そこで、人は一体何者なのかを知ることから始めよう。何者かを知り、人の原点に立ち返って考えれば、人を苦しめる原因も解決も明らかになる。
キリストの器官
人は何者なのか。聖書は、人は「キリストの器官」だと教える。
「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです」(Ⅰコリント12:27)
そこで、あなたは「キリストの器官」の「手」として造られたことにしよう。すると、さしずめあなたの原点の姿は、下記のようなイメージになる。
この時、「手」であるあなたは自分の姿を意識するだろうか。「手」はキリストの体につながっているので自分の姿など全く意識しない。というより、「手」は、キリストの体と1つになっている限り、自分の姿形を知ることもない。だから、自分を恥ずかしいとも思わない。そうではないだろうか。実際アダムとエバも、神に造られたときはそうであった。「人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった」(創世記2:25)
それだけではない。「手」はキリストの体につながっているので、自分の中にはキリストが生きていて、自分とキリストとは1つ思いで結ばれていると感じる。実際パウロは、キリストにつながっているときの心境を、「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)と証ししている。それはつまり、神に無条件で愛されている自分が分かるということでもある。故に、自分を恥ずかしいとは思わないし、自分の中にキリストが生きておられると感じられる。
「死」が入り込んだ
では、そんな「キリストの器官」である「手」が、キリストから分離してしまったならどうだろう。分離することを「死」というが、「死」が入り込むと「手」はどうなるだろう。「死」が入り込み、キリストとの結び付きを失うと、さしずめ「手」であるあなたは下記のようなイメージになる。
絵を見れば分かるように、「死」が入り込めば「手」は否が応でも自分の姿を知ることになる。というより、それしか意識できなくなる。そのことは、悪魔の仕業により実際に「死」が入り込んでしまった直後のアダムとエバの様子からも確認できる。「このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った」(創世記3:7)
すると、人は自分の姿をどう思うだろう。その姿は、「キリストの器官」としての姿ではないので、まるで価値を失った姿にしか思えないだろう。そうなると、「手」は何かで自分を隠したくならないだろうか。必ずそうなる。アダムとエバは、まさにそうした。「そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った」(創世記3:7)
このように聖書は、人は「キリストの器官」として造られたが、人はキリストとの結び付きを失ってしまった様子をつづっている。こうして、アダムに入った「死」は、全ての人に及んだのである。「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです」(ローマ5:12、新共同訳)
その結果、私たちは生まれながらに「キリストの器官」としての自分が意識できない者になった。自分という孤立した姿しか意識できないのである。それは、まさに神に愛されている自分を認識できないことを意味する。
無論、人は神とのつながりの中で生きる「キリストの器官」として造られていたので、何のつながりもない孤立した姿になど耐えられない。そればかりか、神とのつながりのないせいで、神に愛されている自分が見えないとなれば、言いようもない「不安」や「恐れ」を覚える。私たちが抱く「不安」や「恐れ」は、まさしくここから来ている。
そうなると、人は何としてもつながりを求めるようになる。ただし、神が見えない「死の世界」では、人とのつながりを求めるしかない。これを、「居場所」探しをするという。では、どうすれば人とのつながりが見いだせるのだろうか。
ほめられようとする
人とのつながりを見いだすための最初の試みは、「ほめられる」ことから始まる。「ほめられる」と自分が役に立っていると感じられ、そのことが心地よいつながりを覚えさせるからだ。だからこそ、子どもは親にほめられようと頑張る。まさに「ほめられる」が、人とのつながりを得るための入り口となり、「居場所」探しの始まりとなった。
この「ほめられる」生き方を象徴するのが「この世の心づかい」であり、イエスはこれが御言葉をふさぐ罪の始まりであると言われた。「また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです」(マタイ13:22)。なぜそうなるのか、説明しよう。
考えれば分かるが、「ほめられる」ことを求めるということは、あるいは人から良く思われようとすることは、人との「競争」に勝つことを意味する。例えば、会社でほめられたいと思えば、他の社員と競争して抜きん出た成果を上げる必要がある。例えば、学校でほめられたいと思うなら、他の生徒と競争して抜きん出た成績を取る必要がある。「ほめられる」ことを求めるということは、まさしく「競争」に勝つことなのである。
しかし、「競争」すると人は「敵」になってしまうので、自分ではなく他者がほめられれば激しい悔しさを覚える。実際カインはアベルと「ほめられる」競争をし、アベルの方がほめられたことで激しい悔しさを覚えた。「だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた」(創世記4:5)。まさに、競争するカインにとってアベルは「敵」になってしまった。そのため、このあとカインはアベルを殺してしまう。
このように、「ほめられる」ことで人とのつながりを求めようとすれば「競争」を生み、人を「敵」にしてしまう。人を愛せなくしてしまい、最悪、人殺しへと向かわせる。そのことをイエスは誰よりも知っていたので、「ほめられる」生き方を象徴した「この世の心づかい」を罪の筆頭に挙げられた。実は、人が人とのつながりを求める手段はこれだけではない。これは、ほんの入り口にすぎない。
注目を集めようとする
人はほめられようと競争するが、競争に勝てるのはごく一握りである。多くの人は頑張ってもほめられない。そうなると、人とのつながりを持つことができず、自分の「居場所」を確保できなくなる。かといって、孤立することには耐えられないので、何でもよいから人の注目を集め、そのことで人とつながろうとする。
例えば、子どもはわざと親が怒ることをする。例えば、ある生徒は周りから非難されることをする。そうなると、周りは「お前は悪い子だ」と責め罰を与える。だが、その子は悪い子なのではなく、ただ自分の「居場所」を探しているだけである。そうとも知らずに、周りは責め続け、責められる方も責める方も、互いに憎み合うようになる。そうであっても、そのことで人とのつながりが持てるので、孤立することの恐れは回避できる。こうして、それを自分の「居場所」にしようとするのである。
このように、人とのつながりの中で自分の「居場所」を見つけようとすると、人は人を「敵」とするだけでなく、互いに「憎しみ」を抱くようになる。話はこれでおしまいではない。この話にはさらなる続きがある。
権力闘争をする
人はキリストとのつながりを失って以来、人の中につながりを求めてきた。ほめられるか、注目を集めるかでつながりを得、それを自分の「居場所」にしようとしてきた。しかし、そうしたつながりはしょせん、キリストにつながることの代用でしかないので満足など得られない。そこで、さらなるつながりを人は求めるようになる。それは、誰が偉いかを競うことで手にする。自分が相手よりも上に立つことができれば、人とのつながりはより優れたものになり、さらなる心地よさを覚えられるからだ。
そこで、人は権力闘争を始めた。実際、弟子たちは誰が偉いかを競った。「さて、弟子たちの間に、自分たちの中で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がった」(ルカ9:46)。これは何も弟子たちに限ったことではない。夫婦げんか、親子げんか、友達とのけんか、これらも皆どちらが偉いかを競い合い、より心地よい上下の関係のつながりを築こうとしている。
権力闘争は、何も声を出したけんかだけではない。反目し合うことも権力闘争である。弟子たちは、まさにそうした。「そして激しい反目となり・・・」(使徒15:39)。こうした反目を、一般に「反抗」という。例えば、親が子どもに対して勉強しなさいと言うと、子どもは無言で反抗し勉強をしない。例えば、先生がいくら遅刻を注意しても、全く知らん顔して遅刻を繰り返す。例えば、いつも言い訳をし、親の手伝いをしない。これが「反抗」であり、反抗することで権力闘争に勝とうとする。こうして、人は「争い」を繰り返す。それが拡大したのが、まさに戦争である。
すなわち、人とのつながりの中で自分の「居場所」を見つけようとすると、そこから競争が生まれ、人は「敵」となり、さらには注目を集めようとして「憎しみ」が生まれ、それら全てに加え、権力闘争という「争い」が生まれる。これは人を愛することとは正反対の道であり、まさしく人に苦しみをもたらす。そうであっても、人はつながりのない孤立した自分になることを最も恐れるので、その道を進んでしまう。
このように、人が抱える苦しみの全ては、自分の「居場所」を人とのつながりに求めたことから始まった。人を苦しめる罪は、「キリストの器官」である私たちがキリストの中に自分の「居場所」を求めないで、人とのつながりの中に自分の「居場所」を求めたことに端を発していたのである。ならば、人の苦しみはどうすれば解決できるだろう。
解決
思い出してほしい。人はどうして、人とのつながりの中に自分の「居場所」を探すようになったのかを。それは、キリストとの結び付きを失う「死」が入り込んだからであった。ということは、人にとっての真の敵は「死」であり、これを滅ぼさない限り、人の苦しみは解決しないことになる。キリストはそれを知るからこそ、「死」を滅ぼされる。「最後の敵である死も滅ぼされます」(Ⅰコリント15:26)
しかし、人は苦しみの原因が「死」にあることを全く知らない。自分が悪いから人を愛せない、あるいは相手が悪いから愛せないと思い込み、自分や相手を責めたりする。ならば、「死」が原因だと知れば解決するのだろうか。そうはいかない。原因を知ったところで、人の力では「死」をどうすることもできないのである。そう、人にはなすすべがない。
キリストは、そのことを知っておられたので、絶えず人の心に呼び掛け、私の手につかまりなさいと手を差し伸べてくださる。「不従順で反抗する民に対して、わたしは一日中、手を差し伸べた」(ローマ10:21)。故に、その呼び掛けに「応答」さえすれば、すなわち信じさえすれば、誰であろうと何の差別もなくキリストによって救われる。「それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません」(ローマ3:22)。それは「死」から贖(あがな)い出され、キリストにつぎ合わされることを意味する。まことに解決は、神の呼び掛けに「応答」し、キリストとの結び付きを取り戻すことにこそある。そこでその様子を、再び「手」の話に例えてみよう。そうすると、それは次のような話になる。
神は私を救おうと呼び掛けられた。私は、その呼び掛けに「応答」した。するとキリストが現れ、ご自分の腕を見せられた。その腕には「手」がなかった。だがキリストは、「あなたが私の手だよ」と言われた。そして、優しく「手」であった私を拾い上げ、ご自分の腕につながれた。私は「キリストの器官」だったことに気付き、ようやく本来の「居場所」にたどり着いた。
人は「キリストの器官」として造られていたので、キリストにつぎ合わされたなら、自分が無条件で神に受け入れられ、愛されていることに気付く。気付けば、周りの人は「敵」ではなく、「仲間」であり、「兄弟」であり、「友」であったことを知り、心から人を愛せるようになる。これこそが「神の福音」であり、ここにしか人の苦しみの解決はない。人は「キリストの器官」として造られた以上、「キリストの器官」としての「居場所」に戻らない限り、苦しみからは解放されないのである。
ただし、キリストにつぎ合わされ本来の「居場所」に戻っても、その事実に気付かないクリスチャンは大勢いる。そのため、いまだに人の中に自分の「居場所」を求め、苦しんでしまう。聖書は、それを「肉に属する」クリスチャンと呼ぶ。「さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました」(Ⅰコリント3:1)。
聖書は、自分が「肉に属する」者かどうかは、「ねたみや争い」があるかどうかで分かるという。「あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか」(Ⅰコリント3:3)。聖書は、人の苦しみの原因は、人の中に自分の「居場所」を見つけようとすることで生じることを明確に教え、それをやめないのかと問う。つまり、キリストにつぎ合わされたにもかかわらず、これからもただの人のように歩むのかと問うている。「そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか」(Ⅰコリント3:3)
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