前回のおさらい
前回は、「誰が救われるの?」ということで「救い」の話をした。簡単におさらいするとこうなる。神の救いは、神が人の「魂」に呼び掛け、人がそれに「応答」することで達成される。その「魂」は神の「いのち」で造られているので(創世記2:7)、誰であれ神の呼び掛けを聞くことができ、誰であれ神の呼び掛けに「応答」すれば救われる。それは、「永遠のいのち」であるイエス・キリストにつぎ合わされることを意味するので、救われると人はイエス・キリストを知るようになる。
「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです」(ヨハネ17:3)
イエス・キリストを知ることで、イエス・キリストを信じる信仰の告白が可能となる。つまり、「救い」が先で「信仰」の告白はあとになる。前回は、そうした話をした(参照:福音の回復(44))。
「信仰による義認」
しかし、従来の「信仰による義認」では、イエス・キリストを信じる信仰の告白が「救い」に先行するとされてきた。人は「信仰」が原因で義とされ、救われるとされてきた。そうなると、信仰の告白ができない障がい者は救われる対象から外されてしまう。乳幼児が死んだなら、彼らは信仰の告白ができなかったので救われなかったという話になる。ましてや、キリストのことを聞いたことのない人は誰も救われないことになる。
こうした疑問から、「信仰による義認」はさまざまな解釈の試みがなされてきた。例えば、信仰の告白ができない障がい者は言葉を発せられなくても、その「存在」において信仰の告白に代わるものとするとか(参照:熊澤義宣著『キリスト教死生学論集』教文館 168、262ページ)、あるいはキリストのことを聞いたことのない者は、神の被造物を通して神を知る道が用意されているとか(参照:ミラード・J・エリクソン著『キリスト教神学 第一巻』いのちのことば社 220~223ページ)、さまざまである。それでも乳幼児の救いに対する疑問は残る。
ところが前回の救いの話であれば、神の救いは、人の「魂」への「霊的」な呼び掛けでなされるので、「知的」な能力に関係なく、誰であれ神の呼び掛けを聞くことができ、平等に救われる機会を持っていることになる。だから、「救い」に関する疑問は何も生じない。だが、その救いの理解に対し、従来の「信仰による義認」が「違う!」と立ちはだかる。
再解釈を試みる
そこで今回は、「信仰による義認」を再解釈し、前回述べた救いの話との整合性を試みてみたい。さらに言うと、「信仰による義認」はカルヴァン主義によって「予定説」に置き換えられていき、神があらかじめ誰を救うかを決めているという話になったが、それについても再解釈を試みてみたい。こうした再解釈の試みは、「信仰による義認」「予定説」それぞれの説の根拠になっている御言葉を再検証する作業であり、根拠とされる御言葉の意味は、本当にそれで間違いないかを確かめる話となる。
なお、「信仰による義認」も「予定説」も、それぞれに幾つもの考え方があり、1つにまとまっているわけではない。であっても、「予定説」は神が誰を救うかを決めることが前提となるので、前回のコラムでは端的に「決定論」と呼ばせてもらった。また「信仰による義認」は、神が誰を救うかを決めるのではなく、人が救いを選択するということが前提になるので、前回のコラムでは「非決定論」と呼ばせてもらった。今回は「予定説」「信仰による義認」という言い方をするが、それぞれの説についての詳しい説明は省かせてもらう。
では最初に、人が救いに至るまでの道のりを見ておこう。それを見ると、従来の「予定説」や「信仰による義認」が支持される背景がよく分かる。また今回も、御言葉の引用は記載のない限り新改訳聖書第3版を使用する。
【救われるまでの道のり】
神の救いは、神が人の「魂」を閉じ込めている「戸」を叩くことから始まる。「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく」(黙示録3:20)。それは、神の「霊」による働き掛けであり、その働き掛けは、神との結びつきがない死の現状を「魂」に気付かせてくれるので、「魂」は「不安」を覚える。すると「魂」は、自分を閉じ込めている「戸を開けろ!」と自らの「意志」に訴え、神の御手を掴むよう指示する。他方、人の「体」は必死になって「肉の安心」の情報を持ち込み、「戸を開けるな!」と自らの「意志」に訴え、神の御手を掴むなと指示する。
ここでいう自らの「意志」とは、選択する決断である。人の「意志」は、たくさんある訴え(情報)の中から、最も強い訴えを選択する。そんな「意志」に対し、「魂」と「体」が異なる訴えを起こすので、「意志」は選択する決断に迫られる。その中、「戸を開けろ!」という訴えを選択すれば、「魂」は神の御手に掴まることができ救われる。それは、神の「恩恵」を「魂」が受け取ることを意味する。
ただし、こうしたやりとりは、人が意識できない「霊」でのやりとりとなる。神の救いは、神の「霊」が同じ「霊」である「魂」に訴えることで進められる。なぜなら、「霊」は「霊」でしか受け止められないからだ。
「わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません」(Ⅰコリント2:10、11、新共同訳)
つまり、神の救いは人の意識を越えた「霊的」な領域でのやりとりとなる。従って、人は自分が救われるまでの経緯を意識できない。人の「霊」が神の呼び掛けに「応答」し、救われても、人は自分が救われたことを自覚できない。こうした領域は、心理学で言うところの「潜在意識」、あるいは「無意識」に分類される。そこで神は、救われた者に対し、救いを自覚できるようになる道を用意された。それはこうである(参照:福音の回復(44)前編)。
人が救われたなら、「永遠のいのち」であるイエス・キリストに接ぎ木されるので、神が人を支え、イエス・キリストを知るようにしてくださる。これを「信仰」を賜るという。ただし、イエス・キリストを知るようになるにはキリストについての御言葉を聞く必要がある。それにより神が「信仰」を成長させてくださるので、人はキリストを信じられるようになる。そのことで、救われたことが自覚できるようになる。これが神の用意された、救いを自覚するまでの道となる。それは救いに至る「霊的」な領域の道とは異なり、御言葉を聞くという「知的」な領域の道となるので、信じられるようになるまでには「肉の葛藤」が生じる(参照:福音の回復(44)後編)。
この救いの道のりで大事なことは、人の救いは100パーセント「神の働き」であり、しかもそれは「霊的」な領域で行われるので、人はその様子を知り得ないということだ。ただし、神の呼び掛けで「不安」を覚えたことは知り得るかもしれないが、そうではあっても、そのことでどのように「応答」し、救われたのかまでは分からない。あとから振り返れば、あの時の出来事を通して「応答」したのではないかといった推測はできるが、それも臆測の域を越えない。そうしたことから、人の感覚としては神によって導かれ救われたとなる。人はこの感覚に立つと、神が誰を救うのかをあらかじめ決めているとする「予定説」を支持したくなる。
しかし、救われた瞬間は自覚できなくても、救われたことでイエス・キリストに接ぎ木されるので(信仰を賜るので)、キリストについての御言葉を聞くことでイエス・キリストが信じられるようになる。「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」(ローマ10:17)。だから、救われて以降、イエス・キリストを信じられるようになるまでの過程は自覚できる。人がする伝道は、この間の働きを担う。それはまさに、神が救われた人を収穫することにある。
ただし、自覚できるようになるということは、人の考えがそこに入り込むということでもあり、そこに勘違いも生じてくる。実際、人はイエス・キリストを信じられるようになる過程を、「救い」を手にする過程と勘違いする。人はこの勘違いの経験に立つと、イエス・キリストを信じる信仰で義とされ救われるとする「信仰による義認」を支持したくなる。
このように、「救い」の話には、救いに至るまでの話と救いの自覚に至るまでの話がある。救いに至るまでの話に伴う感覚は「予定説」を後押しし、救いの自覚に至るまでの話に伴う経験は「信仰による義認」を後押しする。さらには、それぞれを支持するとされる御言葉がある。では最初に、「予定説」を支持するとされる御言葉が本当に「予定説」を支持しているのか、それから見てみよう。そのことで、「予定説」の再解釈を試みてみたい。
【予定説】
(1)「選び」
「予定説」の根拠となるのは、神の「選び」という御言葉である。これは聖書に何度となく登場する(マタイ24:31、マルコ13:20、27、ヨハネ15:16、19、ローマ9:11、11:5、28、Ⅰコリント1:27、ガラテヤ1:15、エペソ1:4など)。こうした「選び」という言葉を見ると、神が一方的に誰を救うかを決めているかのような印象を受ける。しかし、そうした印象は誤解である。神の「選び」とは、人にまったく左右されない神の自由な意志が人を救うことを教えるための隠喩にすぎない。「選び」とは、人を救うのは神の自由な意志であって、その意志は、人の「行い」(働き)にはまったく左右されないということを言い表すための表現である。誰か特定の人を救うという意味では決してない。そのことは、次の御言葉を見ればよく分かる。
「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます」(Ⅰテモテ2:4)
この御言葉は、神はすべての人を救おうと望んでおられることを明確に教えている。特定の人を選び救いたいという願いなど、さらさらないことを教えている。イエスご自身も、次のように言われた。
「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである」(ヨハネ3:17)
イエスは、神は誰かをさばく計画など持ち合わせていないと、はっきり言われた。あるのは、この世の人を救うことだけだと言われた。ゆえに神の「選び」とは、神が一方的に誰を救うかを決めるという意味では決してない。
このように、神の「選び」とは、神の救いは神の自由な意志がするのであって、人にまったく左右されないことを言い表したにすぎない。だから神は、不従順な者であろうと、反抗する者であろうと、一日中、この手に掴まれと呼び掛けてこられた。「不従順で反抗する民に対して、わたしは一日中、手を差し伸べた」(ローマ10:21)。そこにはユダヤ人もギリシャ人もないので、誰であれ、神の呼び掛けに「応答」するなら(主を呼び求めるなら)救われる。
「ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです」(ローマ10:12、13)
これが神の「選び」であり、それは、神が誰にも拘束されない自由な意志をもって、主を呼び求める者を救うということを意味する。しかも、神の自由な意志が行う人の救いは、先に見たような、人の意識を越えた「霊的」な領域で行われるので、そうしたことからも「選び」という言葉が使われている。すると、「神の選びの計画」(ローマ9:11)とは何かも見えてくる。
(2)「神の選びの計画」
人の意志は見えるものに拘束される。常に見えるものに左右され、「うわべ」の言いなりになってしまう。しかし、神の意志は何ものにも拘束されない。ましてや、人の言いなりになることなどない。この世でどんなに立派だとされる人であっても、どんなに悪人だと言われる人でも、この神の意志を変えることはできない。ゆえに神は、神の呼び掛けに「応答」する者を誰であろうと、例外なく救われる。これが、神の自由な意志である。そうした神の意志があるからこそ、神は人が生まれる前から、人が善も悪も行わないうちに、人の行いには関係なく人を救う計画を持つことができる。それを、「神の選びの計画」という。
「その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行わないうちに、神の選びの計画の確かさが、行いにはよらず、召してくださる方によるようにと、」(ローマ9:11)
「神の選びの計画」とは、このように神が特定の誰かを救うという計画ではない。神が誰の上にもなされる呼び掛けに対し、「応答」する者を救うという計画である。その「応答」とは、ただ神の「恩恵」を受け取ることを意味する。そういう意味では、神の呼び掛けは人を平等に照らす「太陽」と何ら変わりはない。
「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです」(マタイ5:45)
しかし、いくら神が「太陽」を誰の上にも輝かせても、その「太陽」の光を受けるか受けないかは、その人の選択となる。もし人が日陰に隠れてしまうなら救われないし、逆に、光を受け取る選択をするなら救われる。それが、神の自由な意志による「神の選びの計画」となる。
そもそも、神が人の「行い」を見て人の救いを決めるとなれば、神には自由な意志などないということになる。神の意志は、人の「行い」の奴隷ということになる。神の意志を決定するのは人の働きということになる。しかし、そのようなことは決してあってはならないし、あるはずもないので、そのような意味での「神の選びの計画」は存在しない。私たちは神の意志を変えられないとなれば、私たちにできることは、神が下さる救いの「恩恵」を受け取ること以外に何もない。それは人にできる義なる「行い」ではなく、ただ神のあわれみにすがるということを意味する。
このように、「予定説」の根拠とされる御言葉は、神が救われる者を選ぶとする「予定説」を支持してはいない。まだ他にも「予定説」を支持するとされる御言葉は幾つもあるので、その幾つかを取り上げてみよう。
(3)事は人間の願いによるのではない
次の御言葉は、「予定説」を強く支持しているように読める。
「神はモーセに、『わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ』と言われました。したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです」(ローマ9:15、16)
確かにこの御言葉からは、誰を救うかは、神の意志が自由に決めているかのような印象を受ける。しかし、それは正しい印象ではない。なぜなら、パウロは同じローマ書でこう書いているからだ。
「こういうわけで、ちょうどひとりの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、ひとりの義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられるのです」(ローマ5:18)
パウロは、神の思いは特定の誰かを救うことではなく、「すべての人が義と認められ」、「永遠のいのち」が得られるようになることだと明確に述べている。さらにはこうも言っている。
「なぜなら、神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたからです」(ローマ11:32)
神の意志は、すべての人をあわれむことにある。誰を救い、誰を滅ぼすなどという計画などまったくないことを、パウロは明確に述べている。
ということは、同じローマ書で書かれた、「事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神による」(ローマ9:16)とは、神が誰かを救い、誰かを滅ぼすことを選んでいるということでは決してないことが分かる。そうではなく、人を救いたいという「神の働き」が人を救う、ということを言っている。この御言葉は、救いは「人間の願いや努力」には関係なく「神の働き」によるからこそ、すべての人に救われるチャンスがあるということを教えている。
そもそも神の救いは人の意識では知り得ないところでの作業となるので、「事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです」となる。では、続けて「予定説」を支持するとされる御言葉を見てみよう。
(4)わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ
神は人を救うために、誰の「魂」に対しても呼び掛けられる。ということは、救いのカギを握っているのはほかでもない、人の側ということになる。私たちは神の呼び掛けを受け取る「応答」をしたヤコブにもなり得るし、受け取りを拒否したエサウにもなり得るのである。無論、神は誰が何を選択するかを知っておられるので、例えばヤコブとエサウが生まれる前に、「兄は弟に仕える」とリベカに告げられた。そのことで、神は誰であっても救いたいと願ってはいるが、それを人の側が拒否するので、「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」という事態になってしまうことを教えようとされた。その出来事をパウロは取り上げ、次のように述べたのである。
「その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行わないうちに、神の選びの計画の確かさが、行いにはよらず、召してくださる方によるようにと、『兄は弟に仕える』と彼女に告げられたのです。『わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ』と書いてあるとおりです」(ローマ9:11)
この御言葉も「予定説」を支持するとされるが、よく読むと、そうではないことが分かるだろう。ここでは、神はすべての人に救いの御手を差し伸べるので、それを受け取る者のことを「愛する」と言い、拒む者のことを「憎む」という言い方をしたにすぎない。他にも、「予定説」を支持しているとされる強力な御言葉がある。
「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました」(エペソ1:4、5)
これも、人の救いは「神の働き」であることを教えたにすぎない。神が誰を救い、誰を滅ぼすかを決めているという話ではない。神はすべての人を救おうと、いっさいの者をキリストにあって集めたいと願っておられるという話である。それが神の「選び」なので、この御言葉の続きに、「いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです」(エペソ1:10)とある。ともすると、この御言葉から神が誰を救い、誰を滅ぼすかをあらかじめ定めているかのような印象を受けてしまうが、よく読むと、そうではないことが分かる。
このように、「予定説」を支持するとされる御言葉を丁寧に読んでいくと、それは「予定説」を支持していないことが分かる。では、「予定説」はどう再解釈すればよいのだろう。
(5)「予定説」を再解釈
救いは神の「恩恵」であって、すべては「神の働き」による。その点は、従来の「予定説」の主張は正しい。何ら間違ってはいない。しかし、従来の「予定説」は、人の側がその「恩恵」を受け取るかどうかの選択をすることを見落としている。神の救いは人の「意志」を通して行われ、神は人に与えた自発性を尊重する。そうでなければ、人はロボットになってしまう。つまり、神が受け取るようにと「魂」に呼び掛ける「恩恵」を、人は自らの「意志」で受け取るから救われるのであって、こうした神の呼び掛けに対し「応答」しなければ救われない。従って、「予定説」は次のように再解釈する必要がある。
「神の予定とは、神の呼び掛けに『応答』する者は誰であれ神が救うという予定であり、それは神の自由な意志による決定である」
これであれば、御言葉との整合性が取れる。いずれにせよ、従来のような「予定説」が生まれてくる背景には、神の救いを人は意識できないという感覚がある。その感覚が、従来の「予定説」を後押しする。
しかし、神の「救い」は、人が意識できない「霊的」な領域で行われるからこそ、重度の障がい者であろうと、乳幼児であろうと、キリストのことを聞いたことのない者であろうと、救われる機会を持つことができる。逆に、「救い」が「知的」な領域で達成されるとなれば、そうした人たちはすべて「救い」の外に置かれてしまう。
ならば、救われたことはどうすれば自覚できるのか。それはすでに述べたように、イエス・キリストを信じられるようになるという、「知的」な領域を通過することで自覚できるようになる。ところが、人は自覚できるようになることを「救い」を手にすることと勘違いするため、イエス・キリストを信じる「信仰」で義とされ救われるという「信仰による義認」を支持してしまう。
では、いよいよここからは「信仰による義認」の話になる。イエス・キリストを信じる「信仰」が原因で義とされ救われるという「信仰による義認」は、どう再解釈すればよいのかという話に移る。その話は、もっぱら「信仰による義認」の根拠となっている御言葉を丁寧に見ていく作業になる。
ただし、この作業は少し専門的な話になる。なるべく専門用語を使わず分かりやすい表現での説明を試みるので、難しいと思っても最後まで読んでみてほしい。そうすれば、そうだったのかと目から鱗(うろこ)が落ちる話に出合うことだろう。
実はこれから述べる話は、100年以上も神学者たちの間で繰り広げられてきた論争でもあり、それは今も続いている。というのも、論争次第では従来の「信仰による義認」が大きく変わってしまうからだ。それだけ重要な内容なので、今もなお活発に論争が繰り広げられている。とはいえ、論争の決着はほぼついたように見える。では、このまま「信仰による義認」の話を続けるので、下記にある、次のページへ(後編)をクリックしてほしい。
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