【「救い」を自覚するまでの話】
(1)「信仰」が与えられる
聖書は、イエス・キリストのことを、「永遠のいのち」とも表現する。
「──このいのちが現れ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのち(イエス・キリスト)を伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現された永遠のいのち(イエス・キリスト)です。──」(Ⅰヨハネ1:2) ※( )は筆者が意味を補足
従って、神との結びつきを取り戻すという「救い」は、人が「永遠のいのち」に接ぎ木されることを意味する。「永遠のいのち」であるイエス・キリストに接ぎ木されれば、当然、イエス・キリストを知るようになるので、イエスは次のように言われた。
「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです」(ヨハネ17:3)
すなわち、人は救われたなら「永遠のいのち」に接ぎ木されるので、イエスがキリスト(主)だと知るようになる。このことを、神から「信仰」を賜るという。端的に言うなら、救われたなら聖霊を受け、「イエスは主です」と告白できるようになるということだ。そのことで、人は自分が救われたことを知るのである。
「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません」(Ⅰコリント12:3)
人となって来たイエス・キリストを告白できるのは、救われて、神から霊を受けたからであって、それが救われたことを知る印となる。
「人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい」(Ⅰヨハネ4:2)
だからイエスは、ご自分のことを「神の御子キリストです」と信じられるようになったペテロに対し、「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です」(マタイ16:17)と言われた。
このように、救われたならイエス・キリストである「永遠のいのち」に接ぎ木されるので、イエス・キリストを知るようになる。イエス・キリストを知る「信仰」を賜る。そのことで、自分が救われたことを人は知る。ということは、イエス・キリストを信じる者は、すでに「永遠のいのち」を得ているということになる。
「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている」(ヨハネ6:47、新共同訳)
ともすると、イエス・キリストを信じられるようになれば、その時点で初めて救われ、「永遠のいのち」が与えられるかのように思ってしまうが、実際は違う。救われて「永遠のいのち」であるイエス・キリストに接ぎ木されたから、イエス・キリストが信じられるようになる。だからイエスは、キリストを信じる者(現在形)は、すでに「永遠のいのち」を得ている(現在形)と言われたのである。では、このことをさらに詳しく見ていこう。
(2)救いに関する御言葉
人は救われても自覚はないが、救われるとイエス・キリストに接ぎ木されるので、イエス・キリストを知るようになる。これをイエス・キリストを知る「信仰」を賜るといい、その「信仰」は神の力に支えられているので、私たちはイエス・キリストを信じられるようになる。
「それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした」(Ⅰコリント2:5)
ただし、キリストが信じられるようになるには、キリストについての御言葉を聞く必要がある。御言葉を聞くことで「信仰」が成長し、イエス・キリストを知るようになる。
「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」(ローマ10:17)
こうして、「イエスは主です」と告白できるようになり、神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと、信じられるようにもなる。それにより救われたことが自覚できるので、バプテスマを受ける決心へと向かう。次の御言葉は、そのことを教えている。
「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです」(ローマ10:9)
この御言葉は、イエス・キリストを信じられるようになれば、救われていることが自覚できるようになることを教えている。「信じるなら、あなたは救われる」とはそういう意味であり、イエス・キリストを信じたその時点で「救い」が得られ、神が「永遠のいのち」を下さるという意味ではない。そのことは、これに続く御言葉の「原文」を見るとよく分かる。
「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」(ローマ10:10)
この訳は、まったくもって「原文」に忠実ではない。これでは、信じるから義とされ、口で告白するから救われるかのような印象を与えてしまう。しかし、「原文」を正確に訳すとそうはならない。ここには、信じられるようになれば、救いの自覚に至ることが書かれている。では、正確に訳してみよう。
冒頭は、「人は心に信じて」と訳されているが、原文には「人は」という明確な主語はない。しかも「信じて」は受け身なので、ここの訳は「心に信じられて」となる。次の「義と認められ」の訳も、原文通りに訳すと、「義に至る」となる。さらに続く「口で告白して」の訳も、原文では受け身であり、「告白されて」となる。そして最後の「救われる」も、原文通りに訳すと「救いに至る」となる。従って、原文通りに訳すとこうなる。
「すなわち、心で信じられて義に至り、口で告白されて救いに至る」(私訳)
つまり、この御言葉は、心で信じられるようになれば、義とされたことを知るようになり、口で告白できるようになれば、救われたことを知るようになることを教えている。キリストを信じれば、神が救ってくれるという意味ではない。手前の御言葉と同じ内容になっている。イエスは、「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている」(ヨハネ6:47、新共同訳)と言われたが、ここではそのことを「信仰」の視点に立って教えている。
このように、人は信仰の告白を通して、自分が救われたことを知るようになる。聖書はそのことを教えている。ただし、「イエスは主」という信仰の告白ができたからといっても、救われているとは限らない。それについても触れておこう。
(3)偽りの告白
人は救われていなくても、「イエスは主」と告白することができる。その場合の告白は神の力に支えられるのではなく、自分が欲する御利益に支えられている。人は御利益があると思えば、何でも告白する。ゆえにイエスは、こう言われた。
「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです」(マタイ7:21)
「みこころを行う者」とは、神の呼び掛けに「応答」する者を指す。なぜなら、それが人を救うからである。つまり、イエスはここで、神の呼び掛けに「応答」した者だけが天の御国に行けると言われたのである。そうなると、「イエスは主」と告白できるようになっても、自分は救われているのかと心配になるだろう。そこで、救いを確かめる方法も述べておく。
本当に救われていればキリストに接ぎ木されているので、何があってもキリストを呪うことはできない。それに対し、救われていない人が「イエスは主」と告白する場合、キリストにはつながっていないので、他に御利益があると思えば手のひらを返したようにキリストを呪うことができる。そのことで、救われているかどうかを確かめることができる。
「ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、『イエスはのろわれよ』と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません」(Ⅰコリント12:3)
つまり、何があってもキリストを呪うことなどできない自分を知っているのなら、確実に救われているから心配は要らない。救われているので、必ず天の御国に行ける。こうしたこともあり、聖書は、「イエスは主」と告白できれば救われるとは教えない。そうしないと、告白したから神の救いを手にできたと誤解する人たちが出てくるからだ。そうならないためにも、救いに必要なのは、神の呼び掛けに対する「応答」だと教えている。
余談だが、こうした「応答」は、神にあわれみを乞い、神に立ち返ることを意味するので、「悔い改め」という言葉でも表現される。そのことが分かれば、イエスが宣教を開始される際に発した、第一声の意味がよく分かる。
「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)
「悔い改めて福音を信じなさい」とは、神の呼び掛けに「応答」し、それにより「信仰」を賜り、キリストの福音を信じるようにしなさい、ということを意味する。そうすれば救われたことが自覚でき、「神の国」を得たと知るようになると、イエスは言われたのである。このイエスの言葉からも、あくまでもイエス・キリストに接ぎ木される「救い」が先であり、そのあとにイエス・キリストを信じる「信仰」が続くことが分かる。
すると、聖書に通じている人は、「すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって」(ローマ3:22)はどうなるのかと思うだろう。これは次回のコラムで詳しく論じるが、「すなわち、イエス・キリストの信実による神の義であって」と訳すのが正しい。イエス・キリストの十字架で義とされ、救われるという意味になる。そもそも、「イエス・キリストを信じる信仰による神の義」という訳が正しいとなると、イエス・キリストを知る「信仰」が、イエス・キリストに接ぎ木される「救い」に先行することになり、先に見たイエスの言葉と矛盾する。それだけではない。この訳が正しければ、「信仰」の告白ができない障がい者などは誰一人救われないということになる。ゆえに、この訳は正しくない。
では、話を戻そう。人は「イエスは主」と告白できるようになることで、自分が救われたことを自覚できるようになる。聖書は、そのことを一貫して教えている。そうなると、ここに新たな疑問が生じる。「イエスは主」と、信仰告白ができない人はどうなるのかという疑問である。彼らは、救いの自覚には至らないのだろうか。そのことにも触れておこう。
(4)信仰告白ができない人
この世界には、「体」の障がいから言葉を聞くことも、文字を読むこともできない人たちがいる。さらには、寝たきりの人たちもいる。いわゆる、重度の障がい者と呼ばれる人たちである。それに加え、乳幼児も、私たちのようには言葉が理解できない。そうした彼らであっても、私たちと同じ神の「いのち」で造られた「魂」を持っているので、神の呼び掛けを「魂」が聞くことができ、それに「応答」することができるので救われる。
しかし、彼らには言葉の壁があり、「イエスは主」という信仰告白ができない。ならば、彼らは救われても自覚できないのだろうか。それでは、彼らには喜びがないのだろうか。実は、そうはならない。その訳を知るために、今一度、救われることの中身を正確に見てみよう。
救われるとは、神の呼び掛けで「魂」が「不安」を覚え、自らの意志で「魂」が閉じ込められていた「戸」を開けることを指す。そうすると、御霊なる神は、開けられた「戸」から入り、その人の「魂」と一緒に食事をされる。
「だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」(黙示録3:20)
だから「魂」は、救われたなら神との食事を喜ぶようになる。神と一緒に暮らせるようになったことを喜ぶ。この御言葉は、そのことを分かりやすく教えている。
つまり、人が救われたなら、その人の「魂」は喜んでいるということだ。ところが、「肉の安心」を多く持つ人は、その喜びが認識できない。「肉の安心」の喜びに、「魂」の喜びが打ち消されてしまうからだ。譬(たと)えて言うなら、雑音が大きすぎて、「魂」の喜びの声が聞き取れないのである。ゆえに、御言葉を聞くことで「肉の安心」の雑音を下げ、「魂」の声が聞き取れるようにする必要がある。「イエスは主」という告白ができるようになることを目指すことで、雑音を下げるのである。救いを自覚させることの目的は、まさしくここにある。それは雑音を下げ、「魂」の喜びを知ることである。
ということは、重度の障がい者や乳幼児のように「肉の安心」が少ない人は、「イエスは主」という告白ができなくても、すなわち救われたことを「知的」に知り得なくても、すでに「魂」の喜びを知り得ていることになる。彼らには、神と食事ができるようになった「魂」の喜びの声を打ち消す雑音があまりないので、私たち以上に喜びを認識しているということになる。
すなわち、「肉の安心」が少ない人には、そもそも私たちのような仕方での救いの自覚は不要だということだ。私たちが救いの自覚を目指す理由は、あくまでも「魂」が得た喜びを知り得るためなのである。だから、すでに喜び知っている人たちには不要となる。このことは、「放蕩(ほうとう)息子の譬(たと)え」でイエスが説明された。
イエスは譬えの中で、放蕩息子の兄の話もされた。兄は救われていて、父といつも一緒に食事ができるようになったにもかかわらず、父のものは何でも使えるようになったにもかかわらず、そうした救いの喜びに気付いていなかった。それは、兄は健康で仕事がよくでき、また能力も優れていたので、人一倍「肉の安心」を求め生きていたからである。兄は、「肉の安心」をたくさん手にしていたので、父と一緒に暮らせても、父のものは何でも使えても、その喜びに気付かなかったのである。要するに、「肉の安心」の雑音が大きすぎて、「魂」の喜びの声に気付かなかった。イエスは、そうした兄の様子を、弟に嫉妬する兄の姿として話された。そんな兄に対し、父はこう言ったという。
「子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ」(ルカ15:31)
父は兄に、救われたことで手にした喜びに気付くよう促したのであった。まさしく「肉の安心」を多く手にできる人は、すなわち自分の「弱さ」を知らない人は、この兄と何ら変わらない。彼らにこそ、この兄同様、救われたことの自覚が必要となる(参照:福音の回復(42))。
このように、重度の障がい者や乳幼児が救われても、私たちがするような形では救いを自覚できない。そうであっても、彼らは「肉の安心」をほとんど持っていないので、神と一緒に暮らせるようになった「魂」の喜びを認識できている。「肉の安心」の雑音が少ないので、「魂」の喜びがよく聞こえている。ゆえに、私たちがするような形での救いの自覚は、そもそも必要がないのである。
ともすると、信仰の告白ができ、救いを自覚できる私たちの方が上で、救いの自覚が私たちのようにできない彼らは哀れだと思ってしまうかもしれないが、実際は正反対である。「知的」な助けなくしては「魂」の喜びを自覚できない私たちの方こそ、あの放蕩息子の兄同様、哀れな者である。だからイエスは、「この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です」(マタイ18:4)と言われた。いずれにせよ、子どものようではない、「肉の安心」の雑音を多く持つ私たちには、救いの自覚が不可欠となる。こうしたことが分かれば、伝道とは何かも見えてくる。
(5)伝道とは何か
神が人を救い、神がイエス・キリストを知る「信仰」を与える。ということは、せっかく「信仰」が与えられても、キリストについての御言葉を聞く機会がなければキリストを信じることができず、救いの自覚には至らないことになる。そのようなことがあってはならないので、先に見た、救いの自覚に至ることを教えた御言葉(ローマ10:9、10)には、続きの教えがある。
「しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう」(ローマ10:14)
ここから、伝道の実際が見えてくる。それは、神の呼び掛けに「応答」して「信仰」が与えられた人たちに、キリストについての御言葉を語り、救いの自覚に至らせることだと。そのことで、神と一緒に暮らせるようになったことの喜びに気付かせることだと。ゆえに聖書は、「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」(ローマ10:17)と続けて教えている。
従って、私たちは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒16:31)と語って伝道する。それは、救われている者がイエスを信じられるようになり、救いの自覚を持てるようにするためである。私たちは伝統的に、「信じれば救われる」と語ってきたが、それはそういう意味で語るのである。ちなみに、この御言葉は、あなたが救われれば自動的に家族も救われるという意味ではない。あなたも、あなたの家族も、主イエスを信じられるようになれば、救いの自覚に至るという意味である。
すなわち、伝道とは「収穫」を意味する。神が救った人たちに御言葉を語り、彼らが救いの自覚に至るように働き掛け、彼らを収穫するのである。ゆえにイエスは、弟子たちを伝道に行かせる際、次のように言われた。
「実りは多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい」(ルカ10:1、2)
また、イエスは次のようにも言われた。
「あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています」(ヨハネ4:35)
神が人を救い、人はそれを御言葉でもって収穫するのが伝道なので、「目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています」と言われた。そうしたことから、伝道することを恐れたパウロに、主はこう言って励まされた。
「ある夜、主は幻によってパウロに、『恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから』と言われた」(使徒18:9、10)
主はパウロに、「この町には、わたしの民がたくさんいるから」と言われた。それは、神の呼び掛けに「応答」して救われた者がたくさんいるという意味である。彼らは、キリストについての御言葉を待ち望んでいる。ゆえに主は、恐れないで語り続けよと言われたのである。
さらに伝道には、もう1つの側面がある。それは、神が人の「魂」の戸を叩かれる手伝いをするという側面がある。なぜなら、「神の呼び掛け」の項で述べたように、神は人の言葉を通しても人の「魂」の戸を叩かれるからだ。それゆえ、私たちは御言葉を語る。だが、そうであっても、私たちの語る言葉が人を救うのではなく、その裏でなされる神の「魂」への呼び掛けが人を救う。神の救いは、人の働きにはまったく依存しない。それでも、神がされる「魂」への呼び掛けに参与するという側面が、伝道にはある。
そうなると、1つの疑問が湧いてくる。例えば、イエス以前の人たちはイエス・キリストの話を聞く機会がなかった。ならば彼らは、救いの自覚には至らなかったのだろうかという疑問が湧く。結論から言うと、決してそのようなことはない。神は、御言葉を聞くことのできない人たちのために、ご自分の造られた被造物を通しても、唯一の神がおられることを知るようにされたからだ。
「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです」(ローマ1:20)
神は被造物を第二の聖書とし、そのことで創造主なる唯一絶対なる神を知るようにされた。そのことで、救いの自覚を持てるようにされた。実際、アブラハムはイエス・キリストという名を知らなかったが唯一絶対なる神を知り、救いを自覚した。
このように、伝道には2つの側面がある。1つは神が救われた者を収穫することであり、1つは神がされる救いの働きへの参与である。しかし、実際の収穫は簡単ではない。彼らは福音を聞いても、すぐにはイエス・キリストを信じられるようにはならないからだ。彼らの中に住みついている「死の恐怖」が、何としても「肉の安心」にしがみつかせ、肉なるものを信頼するように仕向けてくるため、彼らはすぐには信じられないのである。続けて、その辺りの話も見てみよう。
(6)葛藤
救われたなら、神から与えられた「信仰」は「魂」と連携し、キリストの御言葉を選択するよう「意志」に働き掛ける。ところが、人の中心には「死の恐怖」から手にした「肉の安心」の情報がたくさんあるので、それが邪魔してくる。御言葉をふさいでくる。そのため、御言葉を聞いても、目に見えないイエス・キリストを信じられるようになるまでにはさまざまな葛藤が生じてしまう。イエスはその様子を「種蒔きの譬え」(マタイ13:3~23)で説明し、人の内側に御言葉をふさぐ敵がいることを教えられた。
「また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです」(マタイ13:22)
「この世の心づかい」とは、「人の言葉」で安心を得ようとすることであり、「富の惑わし」とは、「富」で安心を得ようとすることを指す。人は、そうした「肉の安心」の情報をたくさん得てきたので、それが目に見えない「神の安心」を得させようとする御言葉をふさいでくると、イエスは言われたのである。まさに「肉の安心」は、「魂」の喜びを消す雑音になっている。そうであっても、キリストに接ぎ木されているので、人は御言葉を求めようとする。ここに、キリストが信じられるようになるまでの葛藤が生じる。
その葛藤の度合いは、人が持つ「肉の安心」の強さによって異なり、葛藤が激しい人もいれば、そうでない人もいる。葛藤が長く続く人もいれば、そうでない人もいる。どちらにしても彼らは葛藤し、質問をぶつけてくる。ときには反抗したり、ときには熱心に求めたりする。それに対し、忍耐と寛容をもって御言葉を語り続ける。そうすれば「信仰」は成長し、イエス・キリストを信じられるようになっていき、救いの自覚に至る。そして信仰を告白し、バプテスマを受ける決心へと進む。そして、本人は救われた喜びを知るようになる。
無論、御言葉を蒔いても「肉の安心」の情報が強いために、救いの自覚には至らない人たちも大勢いる。そうであっても、その人たちは地上における神の「平安」が得られないというだけであって、救われていることには変わりない。つまり、信仰の告白のないまま亡くなった家族であっても、あるいは体の問題で信仰の告白ができない者であっても、救われている可能性はあるということだ。救われていれば、彼らも終わりの日に「御霊のからだ」とされ、「神の国」に帰還する。だから心配しないで、神に委ねればよい。というより、委ねるしかない。
このように、人は葛藤の末、救いを自覚するようになり喜びを知るようになる。その自覚を助けるのが伝道であり、それは御言葉の種を蒔く仕事にほかならない。御言葉を蒔きさえすれば、神が「信仰」を成長させ、バプテスマを受ける決心にまで導いてくださる。「私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です」(Ⅰコリント3:6)。
見てきたように、人は救われたなら神から「信仰」を賜り、キリストが信じられるようになり救いの自覚に至る。そこまでの流れには連続性がある。このことは、人の経験とも一致する。誰もがバプテスマを受けるに至った経緯を振り返るとき、死への「不安」から、あるいは罪責の「不安」から神を求めるようになり、葛藤の末、バプテスマを受ける決心に至ったことを証しする。そこには連続性があったことを証しする。
こうしたバプテスマを受ける決心に至るまでの連続性を見ると、救いは神に導かれたとなり、「決定論」が正しいとなる。しかし、それには人の「意志」の選択を必要としたので、救いは「非決定論」が正しいとなる。そうした事情から、ローマ書9章では神が主権を持って人を救う「決定論」が語られ、ローマ書10章では、イエス・キリストを信じる選択で救いを自覚できるようになる「非決定論」が語られている。9章では「救い」における神の働きが述べられ、10章では「救い」の自覚に至る人の働きが述べられている。9章と10章は対立した救いの話ではなく、一貫した救いの話にほかならない。では、最後にまとめをしよう。
【救いのまとめ】
救いを自覚するまでの道のり
「救い」は、神が「魂」を閉じ込めている「戸」を叩くことから始まる。そのことで「魂」は「不安」を覚え、自分の「意志」に「戸」を開けるよう訴える。同時に、「体」から持ち込まれる「肉の安心」は、「戸」を開けるなと「意志」に訴える。その中、「意志」が「戸」を開ける選択をすれば、「魂」は神の御手にしがみつくことができる。これが、救われるということを意味する。それは、人の知性を越えた「霊的」な領域でなされるので、人は自分が救われたことを自覚できない。そこで、救いの自覚に至る道が用意された。それはこうである。
救われたなら「永遠のいのち」であるイエス・キリストに接ぎ木されるので、イエス・キリストを知るようになる。これを「信仰」を賜るというが、その「信仰」はキリストについての御言葉を聞くことで成長する。御言葉に神が働き、「信仰」を成長させてくださるのである。その結果、人はキリストを信じられるようになり、救われたことの自覚に至る。これが神の用意された救いの自覚に至る道であるが、それは救いに至る「霊的」な領域の道とは異なり、「知的」な領域の道となるので、そこには肉の葛藤が生じる。
この流れで最も大事なことは、人の救いは「霊的」な領域でなされるということだ。神の「霊」によってなされるということだ。そうした「霊」によるやりとりを、聖書は次のように教えている。
「わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません」(Ⅰコリント2:10、11、新共同訳)
しかし、もし人の救いが言語理解の領域における選択となれば、それは「知的」に救われたということであって、神の救いは人の「知性」に依存することになる。そうなると、自分には「知性」があったので神を知り、救いを手に入れたと人は誇ってしまう。これは、「神の御前でだれをも誇らせないためです」(Ⅰコリント1:29)に反することになるのであり得ない。だが、人の救いが「知性」にまったく依存しない「霊」のやりとりで行われるということであれば、それは「霊的」に救われたとなり、誰も自分の救いを誇ることはできない。ここに、神の知恵がある。
「事実、この世が自分の知恵(知性)によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです」(Ⅰコリント1:21) ※( )は筆者が意味を補足
以上が、救われて、その救いを自覚するまでの道のりとなる。この道のりから、冒頭で述べた疑問も解決する。では、その疑問の解決もまとめてみよう。
何の区別もない
今回のコラムは、障がい者は救われるのか、イエス・キリストを知らない者は救われるのか、そうした問題提起から始まった。見てきたように、人の救いは人の「知的」な領域ではなく、「霊的」な領域で行われるので、すなわち誰もが平等に持つ「魂」において行われるので、障がい者であろうとも、乳幼児であろうとも、イエス・キリストを知らない者であろうとも関係なく救われる可能性を持っていたことが分かった。民族に譬えて言うなら、そこにはユダヤ人やギリシャ人といった区別はまったくなかった。
「ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです」(ローマ10:12)
「主を呼び求めるすべての人」とは、主の呼び掛けに「応答」するすべての人を指し、神はその者を区別なく救われるという。救われたなら、主の御名を知る「信仰」を賜る。だから、続けてこう教えている。
「『主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる』のです」(ローマ10:13)
ここの「主の御名を呼び求める者」とは、神から「信仰」を賜った者を指す。その者は、主の御名を教えた御言葉を聞こうと、「主の御名を呼び求める」。そうすれば「信仰」が育ち、誰でも「イエスは主」と告白できるようになり、救われたことの自覚に至るので、「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」とある。
このように、救いは神が人の「魂」との間で行う、言語を必要としない「霊的」な領域でのやりとりなので、健常者、障がい者、大人、子どもといった区別はない。キリストのことを聞いた者であっても、聞いたことのない者であっても関係がない。それゆえ聖書は、次のように教えている。
「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます」(Ⅰテモテ2:4)
神は誰の「魂」に対しても「霊」でもって呼び掛けることができ、御手を差し伸べることができるから、このような教えがある。実際神は、誰の「魂」であっても神を呼び求めているので、たとえ神に不従順で反抗する者であっても御手を差し伸べてこられた。「不従順で反抗する民に対して、わたしは一日中、手を差し伸べた」(ローマ10:21)。そこには何ら区別はなかった。これが、冒頭で述べた疑問に対する答えとなる。だが、救われる環境には違いがある。
救われる環境の違い
神の前では、障がい者、健常者という区別はまったくないが、実は、救われる環境を見ると平等ではない。障がい者の方が、はるかに素晴らしい環境を持っている。というのも、その「体」は安心できる情報を十分に持ち込めないからだ。そのため、「魂」から持ち込まれる要請の方が力を持ち、健常者と呼ばれる人たちよりも救われやすい環境にある。障がい者に比べ、健常者の方がはるかに「肉の安心」を手にしやすいので、それが神と結びつこうとすることのつまずきとなる。だからイエスは、こう言われた。
「もし、あなたの手があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。片手でいのちに入るほうが、両手そろっていてゲヘナの消えぬ火の中に落ち込むよりは、あなたにとってよいことです」(マルコ9:43)
イエスは、五体満足なことが神を拒否するつまずきとなるのであれば、むしろ、そのような体はない方がましだと言われた。大変厳しい言い方をされたが、「肉の安心」を十分に得られる健常者より、十分に得られない障がい者の方が、神へのつまずきが少ないことを示している。それは、彼らの方が救われる環境が勝っているということだ。ゆえに、イエスは次のようにも言われた。
「裕福な者が神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう」(マルコ10:23)
「裕福な者」とは、この世で多くの富を持つ者であり、この世で多くの安心を得ている人を指す。障がい者の立場から見ると、何の不自由もない体を持っている健常者が、「裕福な者」となる。従って、ここでイエスが言われたことには、この世で十分な安心が得られない障がい者ほど、救われる可能性を多く持っているという意味も含まれる。
つまり、健常者は、障がい者を哀れでかわいそうだという目で見るが、それは間違いだということをイエスは語っておられる。哀れなのは、「肉の安心」を頼りとする私たちの方であり、むしろ自分の「弱さ」を受け入れて生きるしかない障がい者に学ぶべきことを教えておられる。そうであるから、イエスは譬えの中で次のようにも教えられた。
「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」(マタイ25:40)
そして、一旦救われたなら、障がい者であろうが健常者であろうが、誰であろうが、終わりの日に同じ「御霊のからだ」(Ⅰコリント15:44)に着替えさせられ、みなが同じキリストに似た姿となる。そこには何の違いもない。みなが自由な姿をしている。
「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます」(Ⅱコリント3:18)
以上が、聖書の教えている「救い」であり、「神の福音」の根幹となる。「救い」をこのように理解すれば、「決定論」「非決定論」という対立もなくなり、無理に対立する隙間を埋めることもなくなる。救いは神の御業ゆえ、神に委ねればよいという話になる。人が心配しなくてもよいという話になる。人はただ、神が救われた人たちをいかにして収穫するか、それだけを考えていけばよい。だから、私たちは福音を語り続けていく。
◇