迷い出た羊の譬え
ある時、卑しい者と呼ばれていた取税人や、罪人と呼ばれていた人たちがみな、イエスの話を聞こうと集まって来た。イエスは、そんな彼らを喜んで受け入れ、一緒に食事までした。イエスは以前、「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです」(ルカ5:31、32)と言われたが、その言葉通りに罪人を喜んで招き入れていたのである。
ところが、自分たちは正しい人間であって、罪人とは違うと自負していたパリサイ人や律法学者たちは、罪人を招き入れるイエスの様子を見て激しくつまずいた。「さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た。すると、パリサイ人、律法学者たちは、つぶやいてこう言った。『この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする』」(ルカ15:1、2)。そこでイエスは罪人を招き入れる理由を、「迷い出た羊の譬(たと)え」で話された。
「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。見つけたら、大喜びでその羊をかついで、帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください』と言うでしょう。あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです」(ルカ15:4~7)
イエスは罪人を招き入れる理由を、彼らは「迷い出た羊」だからだと言われた。「迷い出た羊」が神のもとに立ち返ってきたので(悔い改めたので)、こうして一緒に食事をしているという。このことは大変重要なので、さらに続けて2つの譬えを話された。「銀貨10枚の譬え」と「放蕩(ほうとう)息子の譬え」である。どちらも、「迷い出た羊の譬え」同様、罪人が神のもとに立ち返ることを神がどれほど喜ぶかを教えている。
ならば、「迷い出た羊」とは一体誰のことを指すのだろう。誰が、悔い改めを必要とする「罪人」なのだろうか。今回のコラムは、神が捜し歩かれると言われた「迷い出た羊」について考えてみたい。なお、御言葉の引用は記載のない限り新改訳聖書第3版を使用する。
「迷い出た羊」の正体
次の御言葉が、「迷い出た羊」は誰なのかを知る手掛かりとなる。
「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない」(ローマ3:10~12)
この御言葉によると、すべての人は迷い出ている。神を求める人は1人もいないという。このことからイエスの言われた「迷い出た羊」とは、何とすべての人を指していることが分かる。すべての人が神のもとから迷い出てしまった羊であり、「行い」に関係なく「罪人」と見なされている。なぜそうなのか。それを知るには、アダムの時代までさかのぼってみる必要がある。
「迷い出た羊」の誕生
その昔、神はご自分に似せてアダムを造り、アダムからエバを造られた。ところが、そこに悪魔が現れ、蛇を使ってエバを欺いて罪を犯させた。「しかし、蛇が悪巧みによってエバを欺いたように」(Ⅱコリント11:3)。エバによってアダムも罪を犯した。このアダムの犯した罪により、人は神との結びつきを失った。神という「居場所」を失ってしまったのである。これを「死」という。この「死」はすべての人に及んだ。「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです」(ローマ5:12、新共同訳)。
人は悪魔の仕業により神という「居場所」を失ったため、生まれながらに神との結びつきを持たない者となり、神に愛されている自分が見えなくなった。当然のことながら、この出来事は言いようもない「不安」を抱かせた。それだけではない。人は神との結びつきを失ったことで永遠には生きることができなくなり、やがて土に帰る朽ちる体にもなった。
「あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る」(創世記3:19)。この出来事は、当然のことながら言いようもない「恐れ」を抱かせた。こうした「不安」や「恐れ」は、神との結びつきを失う「死」から来たので「死の恐怖」という。人は、一生涯「死の恐怖」の奴隷となったのである。「一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々」(ヘブル2:15)。
人はこの「死の恐怖」から逃れようと、神のいない世界に安心できる「居場所」を探した。必死になって、自分をありのままで承認してくれる「居場所」を探した。どこかに同情してくれる人はいないか、慰めてくれる人はいないか、褒めてくれる人はいないか、関心を持ってくれる人はいないかと探し歩いたのである。そうやって、誰もが「死の恐怖」から逃れようと安心できる「居場所」を人々の中に探し求めた。しかし、いくら探そうとも、自分をありのままで承認してくれる人などいなかった。無条件で自分を愛してくれる人など、どこを探してもいなかった。
仕方がないので、人はありのままの自分を置き去りにし、周りから承認される自分になろうとした。ここに承認を得ようとする競争が勃発し、人は人と争うようになった。互いを比べ嫉妬するようになった。人と人とは互いに愛せなくなり、「疎外」へと向かった。そのことは人をひどく苦しめたので、人はその苦しみから逃れようと快楽を求めるようになった。人は、神との結びつきを失う「死」を背負ったことで、御心とは真逆の方向、すなわち「罪」と呼ばれる方向に向かったのである。
こうして、神を求めない「迷い出た羊」が誕生した。人は正真正銘の「罪人」となった。つまり、私たちが犯す「罪」は、神との結びつきを失う「死」がもたらした「とげ」であった。「死のとげは罪であり」(Ⅰコリント15:56)。私たちの中に「罪」を犯す性質があったわけではなく、人を支配するようになった「死」が「罪」をもたらした。「それは、罪が死によって支配したように」(ローマ5:21)(参照:福音の回復(34))。
このように、悪魔の仕業による「死」は、私たちを例外なく「迷い出た羊」とし「罪人」とした。罪を犯す者は、まさしく悪魔の仕業から出ていた。「罪を犯している者は、悪魔から出た者です」(Ⅰヨハネ3:8)。ならば、キリストを信じるようになったクリスチャンは、もう神を求める者になったのだろうか。「迷い出た羊」ではなく、「罪人」という肩書もなくなったのだろうか。
実は、そうはいかない。私たちは、クリスチャンになっても罪を犯してしまう。神を愛すると言いながら、その実、人からどう思われるかが気になる。このことは、クリスチャンになっても再び「迷い出た羊」になってしまうことを意味する。なぜそうなってしまうのだろう。「迷い出た羊」については、さらなる考察を必要とする。
日々、迷い出る
キリストは、悪魔の仕業により「迷い出た羊」となった人々を連れ戻すために、すなわち悪魔の仕業を打ちこわすために来られた。「神の子が現れたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです」(Ⅰヨハネ3:8)。キリストは私たちのところに来て、私たちの魂に呼び掛け、救いの御手を差し伸べてくださった。そのおかげで私たちは御手につかまることができ、神のもとに立ち返ることができた。キリストの「居場所」に戻ることができ、キリストを信じるクリスチャンになれた。
とはいえ、クリスチャンになっても「体」は人々の中で暮らしている。いまだ「死」が支配する世界に暮らしている。そのため、否が応でも人々の中にも自分の「居場所」を求めてしまうのである。あの「放蕩(ほうとう)息子の譬(たと)え」に登場する放蕩息子も本来の「居場所」である父のもとで暮らしていたが、この世に自分の「居場所」を求めて出て行った。あの放蕩息子のさまは、再び人々の中に自分の「居場所」を求めてしまうクリスチャンの姿をも投影している。
つまり、私たちは「死」が支配する世界に暮らす限り、神が見えない、朽ち果てるしかないという運命に支配された地上で暮らす限り、どこまでいっても「迷い出た羊」を繰り返してしまうということだ。日々、見えるものを頼り、迷い出てしまう。まことに、「すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった」(ローマ3:12)は正しい。それでもキリストは、「迷い出た羊」を見捨てることなく連れ戻そうとしてくださる。何度でも悔い改めへと導いてくださる。「熱心になって、悔い改めなさい」(黙示録3:19)。何度でも迷い出た人の「魂」を「死」の穴から引き戻し、いのちの光で照らされる。
「見よ。神はこれらすべてのことを、二度も三度も人に行われ、人のたましいをよみの穴から引き戻し、いのちの光で照らされる」(ヨブ記33:29、30)
人はいのちの光で照らされると(悔い改められると)、自分の「居場所」はキリストだという実感が増し加わり、「平安な義の実」(ヘブル12:11)を結ぶようになる。人々の中に自分の「居場所」を求めようとする誘惑は、それに伴い力を弱めていく。これを「罪が洗い流されていく」といい、「聖められる」という。ならば、神はどのような手段をもって「迷い出た羊」を連れ戻してくれるのだろう。その手段も併せて見ておこう。
「迷い出た羊」を連れ戻す手段
神は人に「意志」を持たせ、人が自分で選択するようにされた。そのため神は人の「意志」を無視し、人に代わって選択することはされない。されないというより、それは神の愛に反するのでできない。神がなさることは、あくまでも救いの御手を差し伸べ、それにつかまるよう呼び掛けるところまでである。あとは人の選択に委ね、差し伸べた救いの御手につかまるのを待たれる。神はそうやって人を連れ戻そうとされる。その際、人が救いの御手につかまることが「神に立ち返る」ことであり、それを日本語の聖書は「悔い改める」と訳している。
ところが、人は神の呼び掛けになかなか「応答」しない。自分は正しい人間であり神の助けなど必要ないと思うから、神が救いの御手を差し伸べてもつかまろうとはしない。そこで神は、「迷い出た羊」が自らの「意志」でつかまることができるよう策を講じられる。その策が、「迷い出た羊」を連れ戻す手段となる。
その手段は大きく分けて2つある。1つは「神の律法」を使うことだ。神は「神の律法」が書かれた良心と聖書を使って、すべての人を罪の下に閉じ込めてしまう。そうすることで罪の赦(ゆる)しが必要だと気付かせ、救いの御手につかまらせようとされる(悔い改めに導こうとする)。「しかし聖書は、逆に、すべての人を罪の下に閉じ込めました。・・・こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました」(ガラテヤ3:22~24)。
しかし、この手段が有効に働くのは「神の律法」に従おうとする者だけなので、さらなる手段を必要とした。それは、人に襲いかかる患難(かんなん)を静観することだ。静観することで、私たちが自分には神の助けが必要だと気付くのを待ち、救いの御手につかまらせようとされる。ただし、神は患難を静観して待つだけではなく、ありとあらゆるチャンネルを使い、神に助けを乞うよう呼び掛けもされる。その実際を、ヨブの話から見てみよう。
患難がヨブを襲う
その昔、ヨブという人がいた。彼は神を信じ、潔白で正しい人であった。「ウツの地にヨブという名の人がいた。この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた」(ヨブ1:1)。そんな彼に、信じがたいほどの患難が襲う。その患難はすべてサタンからであったが、神はそれを静観された。「【主】はサタンに仰せられた。『では、彼のすべての持ち物をおまえの手に任せよう。ただ彼の身に手を伸ばしてはならない』」(ヨブ1:12)。
まず押さえておきたいのは、患難は神から来るのではないということだ。ヨブ記にあるように、それは悪魔からであり、正確に言うと、悪魔の仕業による「死」(神との結びつきを失うこと)が原因で起きる。なぜなら、この「死」によって人は罪を犯すようになり、「死のとげは罪であり」(Ⅰコリント15:56)、人の犯す罪がさまざまな問題を引き起こすようになったからだ。さらに「死」が原因で、人の「体」は朽ちる体となり、「病気」を覚えるようにもなった。
それだけではない。人に入り込んだ「死」によって、被造物すべても滅びの束縛を受けるようになり、「被造物自体も、滅びの束縛から・・・」(ローマ8:21)、さまざまな「天変地異」を引き起こすようになった。こうした「死」に伴う出来事が、人に襲いかかる患難になっている。その「死」は悪魔の仕業によるのであって、神によるのではない(参照:福音の回復(35))。ただ神はその患難を逆手に取り、ご自分のわざが現れるときとされる。すなわち、「迷い出た羊」を連れ戻す手段に使われる(参照:福音の回復(36))。
さて、平穏な日々を送っていたヨブのもとに知らせが入った。ヨブの下で働いていた人たちが殺され、ヨブの財産が奪われてしまったという。さらにはヨブの子どもたちが食事をしている所に大風が襲い、みな死んでしまったという知らせも入った。それでもヨブはつぶやかなかった。神をほめたたえ、自分の「居場所」は神にあることを確認した。「ヨブはこのようになっても罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった」(ヨブ1:22)。
すると今度は、悪性の腫物ができるという患難がヨブ自身を襲った。それでもヨブは罪を犯さなかった。しかし、その腫物はひどくなり、ヨブの顔かどうかも分からないほどになった。その苦しみの中、ヨブはついにつぶやいた。「その後、ヨブは口を開いて自分の生まれた日をのろった」(ヨブ3:1)。生まれた日をのろうことで、自分を造った神を間接的に批判したのである。そうすることで自らを正しいとし、神に助けを乞う「悔い改め」を拒んだ。その後も、ヨブは友達とのやりとりの中で自らの正しさを主張した。
「そうだ、神はわたしを殺されるかもしれない。だが、ただ待ってはいられない。わたしの道を神の前に申し立てよう。・・・罪と悪がどれほどわたしにあるのでしょうか。わたしの罪咎を示してください」(ヨブ13:15~23、新共同訳)
ここでヨブのしたつぶやきこそ、すなわち自分を正しいとする主張こそ、私たちが患難に襲われるときにしてしまう典型的な行動にほかならない。私たちも、耐えがたいほどの患難に遭うと、その苦しみを誰かのせいにし自分を正しいとしてしまう。そうやって人の関心を自分に向けさせ、同情やあわれみを手に入れようとする。これが、人の中に自分の「居場所」を求めようとすることの実際であり、神を求めないという罪である。
ヨブは患難に遭ったことで彼の中に潜んでいた罪が表に現れ、実は今でも「迷い出た羊」であったことが露呈した。ならば、神はそんなヨブにどうなさったのだろう。
神はヨブの患難を静観するだけで、患難から助けることはしなかった。しかし、ヨブが自分を正しいとし自分の「居場所」を神以外に求めてしまう罪に気付けるよう、神は人を通して救いの御手を差し伸べられた。エリフの心に願いを起こさせ、「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ」(ピリピ2:13、口語訳)、彼の口を通してヨブが罪に気付けるようにされたのである。
神は私たちに襲いかかる患難に対しても、ただ静観されるだけではない。ヨブにしたように、ありとあらゆるチャンネルを使い、私たちが罪に気付き本来の「居場所」に戻れるよう働き掛けてくださる。さて、エリフは自分の心に湧き起こった願いに従う選択をし、ヨブの罪を指摘したが、ヨブは気付かなかった。そこで神は、ヨブの心に語り掛けた。
「わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。あなたに悟ることができるなら、告げてみよ」(ヨブ38:4)
自分を正しいとして神を非難するヨブに、神はさらに語り掛けた。「非難する者が全能者と争おうとするのか。神を責める者は、それを言いたててみよ」(ヨブ40:2)。ついにヨブは、自らの愚かさに気付き、恐れ多くも自分は神と戦っていたことを認めることができた。「ああ、私はつまらない者です。あなたに何と口答えできましょう。私はただ手を口に当てるばかりです」(ヨブ40:4)。それでも神は、「自分を義とするために、わたしを罪に定めるのか」(ヨブ40:8)と言い、ヨブにとどめを刺した。こうしてヨブは、どうにもならない自分の罪に気付き、神に助けを乞うたのである。彼は、神の前で灰をかぶり、神に立ち返ることができた。
「それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔いています」(ヨブ42:6)
これこそが神に立ち返る「悔い改め」であり、神にしてみると、「迷い出た羊」を再び連れ戻した瞬間を意味する。それゆえ神は、「迷い出た羊の譬え」にあったように大いに喜び、彼を大いに祝福された。「【主】はヨブの繁栄を元どおりにされた。【主】はヨブの所有物もすべて二倍に増された」(ヨブ42:10)。ヨブを祝福される姿は、「放蕩息子の譬え」の中で帰ってきた息子を大いに喜んだ父親を彷彿させる。
この神の喜びは、そのままヨブの心に「平安」となって届き、彼の心を支配した。これが神のわざであり、「迷い出た羊」を捜し出す神の実際となる。
キリストは羊飼い
このように、神を信じない者であっても、神を信じるようになったクリスチャンであっても、その「体」が「死」の支配する世界で暮らす限り、自分の「居場所」を人の中に求めてしまう。誰もが「迷い出た羊」になってしまう。神のことよりも人のことを思う、「この世の心づかい」(マタイ13:22)に生きる「罪人」でしかない。だから神は「神の律法」を使い、患難を静観し、その中で人が罪に気付けるよう働き掛ける。神の赦しの御手につかまれるよう、誰に対しても救いの御手を差し伸べてくださる。
あのペテロに対しても、イエスは患難を静観された。イエスが捕らえられるという患難を、静かに見守ったのである。そのことで初めて、ペテロは、人の中に自分の「居場所」を求めてしまう罪に気付いた。彼は、神のことよりも人のことを思う「この世の心づかい」から、すなわち周りから良く思われようとする思いから、イエスを知らないと言ってしまったのだ。そんなペテロを、イエスはただ静観するだけでなく、時を見計らって救いの御手を差し伸べられた。
イエスは振り向いて、ペテロを見つめられたのであった。「主が振り向いてペテロを見つめられた」(ルカ22:61)。目は口ほどにものを言うというが、イエスはペテロに「それでも私はお前を愛している」という思いを伝えられた。ペテロは、その思いに必死になってつかまった。こうしてイエスは「迷い出た羊」、ペテロを連れ戻された。
私たちは救われてクリスチャンになっても、人の中で暮らす以上、ヨブやペテロのように再び迷い出てしまう。しかし、クリスチャンになった者が迷い出たからといって、救いが取り消されるわけではない。いくら迷い出ても、キリストのもとには自分の「居場所」がある。この世界でいくら迷い出てもキリストが信じられるのは、まさしくそういうことを意味する。すなわち、この世界でイエス・キリストを信じている者は、その者がこの世界でどのような状態にあろうとも「永遠のいのち」を持っているということだ。
「私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです」(Ⅰヨハネ5:13)
ということは、クリスチャンはこの世界においてはどこまででも「罪人」であると同時に、キリストにおいては何があろうとも「義人」ということになる。この地上でのイエスの姿は人であったと同時に、何があろうとも神の目にはキリストであったように、私たちも「罪人」であると同時に、神の目には何があっても「義人」なのである。
いずれにしても神は、いまだ神を信じない者であっても、神を信じるクリスチャンであっても、この世界においては「迷い出た羊」(罪人)ゆえ、見捨てることはせず何度でも連れ戻そうとされる。「罪人」を「悔い改め」へと導いてくださる。「それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで」(ローマ2:4)。私たちはその導きに「応答」し、ただ「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」と叫べばよい。
それにより、神を信じない者は「義人」とされ、キリストのもとに自分の「居場所」を手にする。神を信じるクリスチャンであれば、それでも自分は神に愛されているという「義人」の実体を目の当たりにし、「平安な義の実」を結ぶようになる。だからイエスは、「パリサイ人と取税人の譬え」でこう教えられた。
「『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』 あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました」(ルカ18:13、14)
私たちは誰もが「迷い出た羊」であり、私たちの信じるキリストは、何があっても「迷い出た羊」を連れ戻そうとしてくださる「羊飼い」である。私たちは患難にぶつかると見捨てられたような孤独な気分になるが、実はそうではない。私たちを助けようと、「羊飼い」であるキリストは必死になって御手を差し伸べておられる。私たちを連れ戻そうと、私たちを背負ってくださっている。ただ私たちは、そうした「羊飼い」の姿を知らずに生きている。
「わたしに聞け、ヤコブの家よ イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ 胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで 白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」(イザヤ46:3、4、新共同訳)
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