人は「ノアの箱舟」の話をどう読むだろう。一般に「ノアの箱舟」は、神が人の罪を見て怒り、人を造ったことを悔やんで滅ぼした出来事として読まれる。人は「ノアの箱舟」を、神が人の罪を裁くことを教えた話として読む。しかし、それが事実となれば、イエスの次の言葉はうそということになるのだろうか。
「わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである」(ヨハネ12:47、新共同訳)
前回のコラムでは、このイエスの言葉を使い、神は人の罪を裁く方ではなく救う方であることを説明した。ところが、「ノアの箱舟」は神が人の罪を裁くことを教えた話となれば矛盾してしまう。そんなことはないのであって、実は「ノアの箱舟」の話は、神が人の罪を裁く方ではなく救う方であることを教えた話であった。
とはいえ、このことはにわかには信じがたいだろう。そこで今回のコラムは、「ノアの箱舟」に秘められた真実を明らかにしてみたい。それにまつわる驚愕(きょうがく)の事実をお伝えしたい。なお、御言葉の引用は記載のない限り新改訳聖書第3版を使用する。
神は滅ぼしてなどいない
ノアの時代、確かに神は多くの人を大洪水で滅ぼされた。しかし、それは見た目の話であり、実際のところは誰も滅ぼしてなどいない。なぜなら、神を信じない者は、すでに死んでいたからである。「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって」(エペソ2:1)。このことが分からないと話が進まないので、まずこのことを簡単に説明しておこう。
人はアダムの罪によって神との結びつきを失い、誰であれ霊的に死んだ状態で生まれてくるようになった。「すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように」(Ⅰコリント15:22)。そのせいで、その体もやがて朽ち果てて土に帰るようになった。「あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る」(創世記3:19)。まさに人の姿は見た目が生きていても、すべてを知る神の目にはすでに死んでいた。神から見ると、神との結びつきを持たない者は「死人」にほかならなかった。ならば、神にとって生きている者とは誰のことを指すのだろう。それは、神の呼びかけに「応答」し、神との結びつきを回復した者を指した。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです」(ヨハネ5:25)
イエスは、神との結びつきを持たない「死人」が神の声を聞いて「応答」するなら、生きる者になると言われた。神の声とは、誰の心にも迫る「空しさ」や「罪責感」であり、その声に耳を傾け神にあわれみを乞うなら、「死人」は神との結びつきを取り戻し生きる者になれるということだ。それは「永遠のいのち」を持つようになり、肉体の死を迎えた後は天国に行けるということを意味する。つまり、神の呼びかけを聞き、それを信じる者は「永遠のいのち」を持ち、死からいのちに移される。
「わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです」(ヨハネ5:24)
ということは、神の声を聞いても無視し、神を信じようとしない者は「死人」のままであり「永遠の死」に至る。ゆえに、信じない者はすでにさばかれているとしか言いようがない。
「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている」(ヨハネ3:18)
実は、大洪水で滅ぼされた人たちはみな神の声を聞いたにもかかわらず、それを無視し神を信じなかった人たちであった。いくら神が呼びかけても救いの御手を拒み、キリストを信じようとはしなかった者たちであった。これから先も、神を拒み続けることが明らかになった者たちであり、「死人」であり続けることが確定していた。彼らは、自らの意志で自らを滅ぼしていたのである。
そういうわけで、神は誰も滅ぼしてなどいないと冒頭で述べた。滅ぼすどころか、キリストの霊は彼らの魂に呼びかけ、可能な限り救おうとされたというのが真実である。聖書はそのことを、次のように証ししている。
「その霊において、キリストは捕らわれの霊たちのところに行って、みことばを語られたのです。昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです」(Ⅰペテロ3:19、20)
聖書は、キリストがノアの時代にも御言葉を語られたことを証しする。ノアの時代にはまだ起きてはいなかったキリストの十字架の贖(あがな)いではあったが、時間の拘束を受けない永遠の中に存在するキリストからすれば、それはすでに起きた事実であった。ゆえにキリストは、今日と同じ十字架の贖いをもってノアの時代の「死人」たちにも救いの御手を差し伸べることができた。そのことが、「キリストは捕らわれの霊たちのところに行って、みことばを語られた」とつづられている。
この聖書の証しから、神は彼らを滅ぼそうとしたのではなく、逆に救おうとしたことが分かる。すでに死んでいた魂を、何としても救おうと試みられたのであった。だが、ノアの家族8人以外は神の呼びかけを拒否し、自らが「永遠の死」を選択した。神は、呼びかけを拒否した彼らの体を大洪水で消し去りはしたが、それは彼らの罪を裁いたわけではない。神を拒み「永遠の死」を選択した彼らの「意志」を、ただ尊重されたにすぎない。これが真実であった。だからといって、なぜ大洪水まで起こす必要があったのかと思うだろう。その理由は、大洪水に至る前の人の様子を知れば容易に分かる。
「大洪水」前の人の様子
神が大洪水を決断する前の人の様子はこうであったと、聖書は証言する。
「さて、人が地上にふえ始め、彼らに娘たちが生まれたとき、神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻とした」(創世記6:1、2)
ここに登場する「神の子ら」とは誰なのだろうか。その意味を知るには、キリストを証しした新約聖書の光を当てる必要がある。なぜなら、旧約聖書の教えはキリストを証しするために書かれた影であり、本体はキリストにあるからだ。「これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです」(コロサイ2:17)
その新約聖書を見ると、「神の子ら」についてこうある。「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです」(ローマ8:14)。この御言葉から、「神の子ら」とは、神の呼びかけに「応答」し、神を信じるようになった者たちであったことが分かる。ということは、その「神の子ら」と区別して書かれた「人の娘たち」は、神を信じない者たちだということになる。したがってこの箇所には、神を信じる者たちが神を信じない者たちに魅力を覚え、彼らと結婚するようになった様子がつづられている。そうなると、生まれてくる子どもが信仰を継承するのは実に困難となるので、その様子が次のようにつづられている。
「当時もその後も、地上にはネフィリムがいた。これは、神の子らが人の娘たちのところに入って産ませた者であり、大昔の名高い英雄たちであった」(創世記6:4、新共同訳)
ここに「ネフィリム」という言葉が出てくる。これはどう訳してよいか分からないということで、ヘブライ語をそのまま日本語にしている。ただし、この言葉の語根は「ナーファル」[נָפִיל]と同じであることから、それに近い意味であることが推察される。その「ナーファル」の意味は「落ちる、倒れる」なので、そこから「ネフィリム」という言葉を使って何を言わんとしたのかが見えてくる。それは、神を信じる者たちが神を信じない者たちと結婚するようになったために、生まれてくる子どもたちは信仰を持たなくなった(落ちた)ということだ。それを、「当時もその後も、地上にはネフィリムがいた」と言っている。すなわち、神を信じない者たちが増え広がり、その者たちが世界を牛耳る英雄となっていった。その様子を、「大昔の名高い英雄たちであった」と言っている。
余談だが、信者が未信者と結婚すれば、その子どもたちは信仰を持たなくなる可能性は高くなる。だから神は、「あなたがその娘たち(未信者)をあなたの息子たち(信者)にめとるなら、その娘たちが自分たちの神々を慕ってみだらなことをし、あなたの息子たちに、彼らの神々を慕わせてみだらなことをさせるようになる」(出エジプト34:16※( )は筆者が意味を補足)と言われた。神は昔から信者は信者と結婚し、信仰を子どもたちにも継承するよう教えてこられた。「また、彼らと互いに縁を結んではならない。あなたの娘を彼の息子に与えてはならない。彼の娘をあなたの息子にめとってはならない。彼はあなたの息子を私から引き離すであろう」(申命記7:3、4)。しかし、ノアの時代の信者は未信者と結婚したために、神を信じる子たちは日ごとに減っていき、神を信じない者たちが増大することになり、その世界は彼らの中から出た名高い英雄たちに支配されることになった。では、話の続きを見てみよう。
「【主】は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった」(創世記6:5)
地上には神に逆らう悪が増大し、彼らは、いつも悪いことにしか心が傾かなくなったという。それは悪の力が圧倒的に強く、神が何を言っても神を信じない者になったということであって、救われる可能性が完全に断たれたことを表している。別の言い方をするなら、彼らは「死人」のままであることを自らが選択をし、「永遠の死」が確定したということだ。神はその状況をご覧になり大洪水の決断に至るが、その理由はこうであった。
決断に至った理由
かつてキリストに反抗する者が国を支配したとき、そこでは一体何が起きただろう。彼らは例外なくキリストを信じる者たちを迫害し、殺してきた。ローマ帝国における迫害は有名だが、日本でも江戸時代に踏み絵があり、多くのクリスチャンが迫害され殺された。であれば、ノアの時代はどうであったかは容易に推察できる。
ノアの時代、神を信じる者はノアの家族8人だけであり、神を信じない者たちが世界を牛耳っていた。ならば当然、今までの歴史が物語っているように、ノアの家族8人は迫害され殺される危険を身に帯びていたことは火を見るよりも明らかだ。しかも、これほどまでに神を信じる者の比率が少なかったことはいまだかつてなく、その危険度は歴史上類を見ない。まさしく8人の命は風前のともしびであった。
考えてみてほしい。ノアの家族がみな殺されてしまえばどうなるかを。彼らは「神の言葉」を受け継いでいたので、彼らが殺されでもしたら救いに必要な「神の言葉」も断たれてしまう。さらにノアの家族の「いのち」の中には、これから生まれてくるはずの数え切れない「神の子」が含まれていたので、彼らが殺されでもしたら「神の子」も絶たれてしまう。それは人類が霊的に生き延びられるのか、それとも完全に悪に支配され「光」を失ってしまうのかの瀬戸際にあったことを意味する。人類は、いまだかつて経験したことのない「破滅」に瀕(ひん)していたのである。「地上に人の悪が増大し」(創世記6:5)という出来事には、そうした様子が含まれていた。
無論、神はその状況を誰よりも理解されていたので、人類の「破滅」を回避するための選択に迫られた。それが、神を信じない者を大洪水で一掃し、ノアの家族を救い出すという選択であった。ゆえに神は、次のように言われた。
「地は神の前に破滅していた。地は暴虐に満ちていた。神が地を見ると、果たして、それは破滅に頻していた。すべて肉なるものが地上でその道を破壊させたからである。神はノアに言った、『すべて肉なるものの終りがわが前に迫った。彼らによって暴虐が地に満ちたからだ。よいか、わたしは彼らを地もろとも破壊させる』」(創世記6:11~13、岩波訳[岩波書店の旧約聖書Ⅰ])
ここに「破滅に頻していた」とあるが、新改訳では「堕落していた」となっている。この箇所の動詞は「シャーハット」[שָׁחַת]であって、この言葉の使われている用例の大半が「破壊」や「破滅」の行為を表しているので、ここは岩波訳の方が適切といえる。この訳からは、人類がいかに危機的な状況にあったかが伝わってくる。その中にあって神は思いをめぐらし、神を信じない者を大洪水で一掃することでノアの家族を救い出すという決断をされた。それは、まことに愛の決断であった。
愛の決断
見てきたように、神は誰も滅ぼしてなどいない。そもそも大洪水で滅ぼされたかのように見える彼らは死んでいた。「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって」(エペソ2:1)。キリストは死んでいた彼らに救いの御手を差し伸べるも、彼らは拒んだ。しかも、彼らはその先もキリストを受け入れる見込みはなかった。それどころか、このままだと神を信じるノアの家族に危険が迫った。そこで神は、すでに魂の死んでいた彼らを地上から消し去ることで、義を説いていたノアたち8人を保護されたのである。新約聖書の光は、「ノアの箱舟」の話をそのように解説している。
「また、神は昔の人々を容赦しないで、不信心な者たちの世界に洪水を引き起こし、義を説いていたノアたち八人を保護なさったのです」(Ⅱペテロ2:5、新共同訳)
この決断によって神を信じるノアたち8人の命は保護され、そこから生まれてくる数多くの霊的な子孫も、「神の言葉」も守られた。その結果、「神の言葉」は今日に至るまで伝えられ、信仰が全人類に広がった。今こうして私たちが信仰を持ち、神の子として生きていられるのは、神の下されたあの決断のおかげである。神は、実に多くの「いのち」を救う「愛の決断」をされたというのが、この話の真実である。
ところが、人はこの決断を罪に対する神の裁きとして受け取る。神が人の罪を見て怒り、人を造ったことを悔やみ、大洪水で罰したという意味に解する。それは、人を消し去ったことだけに着目するからそうなる。しかし、ノアの時代にキリストが霊において御言葉を語り、神を信じない者たちを「救い」へと導こうとされたことや(Ⅰペテロ3:19、20)、ノアの家族を水の中を通して助けられた「救い」に着目するなら、そうした誤解は起きない。着目すべきは、あくまでも神の「救い」の御業にある。ゆえに新約聖書の光は、ノアの時代の大洪水こそ、神の救いを示した「型」であったと証言する。
「昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです。わずか八人の人々が、この箱舟の中で、水を通って救われたのです。そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです」(Ⅰペテロ3:20、21)
このように、「ノアの箱舟」の話は神が人の罪を罰することを示した「型」ではなく、人を救うことを示した「型」であった。私たちは救われたことを水のバプテスマによって確認するが、そのことの起源がここにある。すなわち、「ノアの箱舟」の話は、神は何があっても信じる者を救うことを教えた出来事であって、そこには人に対する神の深い愛しかない。人の罪に腹を立て、その罪を裁くことで満足しようとするような安っぽい感情はまったくない。何としても人を救おうとする、神の激しいあわれみしかなかった。そして、神が人を救うためにノアに用意させた「箱舟」こそ、私たちを救うために神が用意された「イエス・キリスト」を示した「型」にほかならない。
話はこれで終わりたいところだが、この解釈に疑問を抱く方は多いことだろう。というのも、「それで【主】は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。そして【主】は仰せられた。『わたしが創造した人を地の面から消し去ろう』」(創世記6:6、7)という御言葉があるからだ。この御言葉を見る限り、神が大洪水で人を滅ぼされたのは人を造ったことを悔やんだからとなる。悔やんだのは、人が神に逆らい悪を行っていたからとなる。これでは、今まで述べてきた話とは明らかに矛盾する。
しかし、新約聖書の光は「ノアの箱舟」を、「救い」を示した「型」であり、人への「あわれみ」を示しているという以上、逆に、この御言葉の訳は正しいのかという疑問が生じる。そこで、この箇所の訳についても見ておきたい。ここからは少し専門的な話になるが、興味のある方は読み進めてみてほしい。そうすれば驚愕の事実を知ることになり、「ノアの箱舟」に対する疑問は吹き飛んでしまうことだろう。
神が悔やんだ?
では、問題となる御言葉の訳を見てみよう。
「地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。主は言われた。『わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する』」(創世記6:6、7、新共同訳)
ここにある「後悔し」や「後悔する」という訳が正しければ、神は人を造られたことを悔やみ、自らの過ちを精算するために人を滅ぼされたことになる。となれば、神は人を造ることに失敗したということであって、そのことを神は人間のように悔いるということになる。そうなると、次の御言葉を完全に葬り去るしかない。
「神は人間ではなく、偽りを言うことがない。人の子ではなく、悔いることがない」(民数記23:19)
「実に、イスラエルの栄光である方は、偽ることもなく、悔いることもない。この方は人間ではないので、悔いることがない」(Ⅰサムエル15:29)
「わたしは悔いず、取りやめもしない」(エレミヤ4:28)
神は全知全能なる方なので、そもそも失敗とは無縁である。ゆえに、後悔することはないとする上記の御言葉は正しい。したがって、先の「後悔し」や「後悔する」という訳は間違っているということになる。
実は「後悔し」や「後悔する」と訳された言葉、これはどちらも同じヘブライ語の「ナーハム」[נָחַם]を訳している。この「ナーハム」には、何と「あわれむ」という意味もある。ならば、「あわれむ」と訳せば見てきた解釈とも一致し、神は悔やまないことを教えた一連の御言葉とも対峙しない。しかし、ここはなぜか「後悔する」という意味に訳されている。実際のところ、どう訳すかはその人の裁量によるが、この「ナーハム」という言葉について深く知るなら、ここはどう訳すべきなのかは明確になる。そこで、「ナーハム」を深く掘り下げてみよう。
「ナーハム」の意味
「ナーハム」という言葉は、アラビア語の「ナハーマ」に由来する。「ナハーマ」は、馬が息を切らすような、呼吸が激しく乱れる様子を意味する。馬は呼吸が乱れると何としても呼吸を整え安堵しようとするが、人も呼吸が乱れるほどの激しい感情に襲われると何としても安堵しようとする。つまり「ナーハム」は、人が安堵しようとする様子を表す言葉であった。
そのため、呼吸が乱れるほどの激しい感情が人に対する「怒り」から来れば、人は「恨みを晴らす」ことで安堵しようとするので、「ナーハム」は「恨みを晴らす」という意味になる。また、呼吸が乱れるほどの激しい感情が人の「死」から来れば、人は「悲しむ」ことで安堵しようとするので、「ナーハム」は「悲しむ」という意味になる。また、呼吸が乱れるほどの激しい感情が自らの「失敗」から来れば、人は「後悔する」ことで安堵しようとするので、「ナーハム」は「後悔する」という意味になる。また、呼吸が乱れるほどの激しい感情が人に対する「同情」から来れば、人は「あわれむ」ことで安堵しようとするので、「ナーハム」は「あわれむ」という意味になる。
すなわち、安堵しようとする様子を表した「ナーハム」は、呼吸が乱れるほどの激しい感情の原因次第で、「恨みを晴らす」「悲しむ」「後悔する」「あわれむ」といった意味になる。ならば、この箇所はどう訳せばよいのだろうか。
神は人の中に悪が増大し、人類が「破滅に頻していた」のをご覧になったことで、呼吸が乱れるほどの激しい感情を抱かれた。そして、何としても人を救いたいという思いを抱くことで、安堵しようとされた。そのことは、新約聖書の光が「ノアの箱舟」の話を「救い」を示した「型」であったと証しすることからも明白である(Ⅰペテロ3:20、21)。ゆえにこの箇所の「ナーハム」は、神の「あわれむ」様子を表す意味に訳すのが正解となる。ここでは、神は何としても人を助けたいという思いをめぐらし安堵しようとされたので、例えば「思いめぐらす」といった具合に訳すのがよい。では、創世記6:6、7における「ナーハム」がどのように訳されてきたのか、その歴史を見てみよう。
訳の変遷
イエスの時代に広く使われていた聖書は七十人訳聖書であった(ヘブライ語で書かれた旧約聖書をギリシャ語に翻訳した聖書)。その七十人訳聖書は異なる版(異なる訳)がたくさん残っているが、どの版も創世記6:6の「ナーハム」に関しては「エンテュメオマイ」[ἐνθυμέομαι]という言葉に訳している。6:7の「ナーハム」は版によって異なる。そのことは後で触れるとし、創世記6:6の「ナーハム」の訳から見てみよう。
創世記6:6の「ナーハム」は「エンテュメオマイ」という言葉に訳されている。これは日本語では、「熟考する」「思いめぐらす」という意味に訳されるが、そこには「激しい感情の爆発」が横たわっている。というのも、この「エンテュメオマイ」は「エン」[ἐν]と、「テュモス」[θυμός]からできた合成語で、「エン」は「内に」という意味であり、「テュモス」は「激しい感情の爆発」を意味するからだ(参:織田昭編 『新約聖書ギリシア語小辞典』教文館)。ヘブライ語の「ナーハム」には“呼吸が乱れるほどの激しい感情”が含まれていたが、それと同じように、「エンテュメオマイ」には「激しい感情の爆発」が含まれている。だからといって、先に見た「ナーハム」の意味をすべて含んでいるかというとそうではない。「エンテュメオマイ」には、「悔いる」とか「恨みを晴らす」という意味はまったくない。あくまでも「激しい感情の爆発」からなされる「熟考する」「思いめぐらす」ことだけを表している。
さらに言うと、この「激しい感情の爆発」である「テュモス」は、元来「動かされるもの、動かすもの」を意味する。それはまさに困難を乗り越える「気概」であり「気力」であり、内面における「自分を突き動かす強い感情」を言い表している。その様子を外面的に捉えるなら、困難を引き起こすものへの「怒り」「憤り」となるので、「テュモス」は内面的な意味にも外面的な意味にも訳される(参照:『ギリシア語 新約聖書釈義事典Ⅱ』教文館 203ページの2、Liddell-Scott-Jones,『A Greek-English Lexicon』9th ed. Clarendon Press, 1968 567ページ)。ならば、神における「自分を突き動かす強い感情」とは何だろう。
それは、キリストが私たちの「罪」を滅ぼすために十字架にかかり、人を救う道を用意してくださったことからも分かるように、神における「自分を突き動かす強い感情」は、まさに人への「あわれみ」である。それは同時に、人を苦しめている罪に対しては「怒り」となるので、神の人に対する「あわれみ」は「神の怒り」としても表現される。
何が言いたいかというと、七十人訳聖書は創世記6:6の「ナーハム」を「エンテュメオマイ」(思いめぐらす)と訳したが、その言葉には人に対する神の「激しいあわれみ」が含まれていたということだ。同時に、人を苦しめる罪に向けられた「激しい怒り」が含まれていた。
いずれにせよ、その言葉には「悔やむ」という意味はまったくもってない。今日の聖書は「ナーハム」を「悔やむ」という意味に訳しているが、イエスの時代に使われていた聖書はまったく別の意味に訳されていた。信じがたいかもしれないが、これが真実である。ならば創世記6:7におけるもう1つの「ナーハム」は、どう訳されていたのだろう。この箇所は先に述べたように、七十人訳聖書の版によって異なる。そこで、古い版から順番に見てみることにしよう。
イエスと同時代に生きたアレクサンドリアのフィロン(BC25年ごろ~AD45/50年ごろ)は、「神の不動性」という著書の中で創世記6:7を七十人訳聖書から引用している。これが、七十人訳における創世記6:7の訳を知る上で最も古い版になる。それを見ると、先の「ナーハム」同様、「エンテュメオマイ」(思いめぐらす)と訳されている。ただし、「神の不動性」も異なる写本が存在し、写本によっては「エンテュメオマイ」ではなく、「テュモー」(激怒する)になっている。これは、後世の人の書き換えであると思われる。というのも、他の教父たちはみな、「エンテュメオマイ」という訳を採用しているからだ。
例えば、次に古い創世記6:7の七十人訳は、オリゲネス(185年ごろ~254年ごろ)が編さんした聖書研究テキストである。それは「エンテュメオマイ」となっている。次に古いヨアンネス・クリュソストモス(344年ごろ~407年)の引用も、次に古いアレクサンドリアのキュリロス(376~444年)の引用も、キュロスのテオドレトス(395年ごろ~457年ごろ)の引用も「エンテュメオマイ」になっている。教父たちはみな、「エンテュメオマイ」と訳された七十人訳聖書を使っていた。正確に言うと、異なる訳の版は存在していたが、教父たちは「エンテュメオマイ」という訳の版を支持したということだ。
ところが、5世紀に書かれたアレクサンドリア写本を見ると、「テュモー」(激怒する)という訳の版が支持されるようになった。さらに16世紀に出版されたアルダス版の七十人訳聖書では、「メタメロマイ」(悔やむ)という訳が採用されている。以上が、創世記6:7の「ナーハム」における七十人訳の大まかな変遷である(参照:『ゲッティンゲン版七十人訳』[Septuaginta Vetus Testamentum Graecum Auctoriate Academiae Scientiarum Gottingensis editum]の異読欄。ただし、この異読の記載には一部誤りがあり、そのことを発行元に確認したところ誤りを認めたので、上記の記述は誤りを訂正した内容になっている)。
神にあるのはあわれみ
この社会では悪いことをすれば必ず罰を受けるので、人は「罪人には罰」という経験を積み上げてしまう。そのため、どうしても「ノアの箱舟」の話を、神が人の罪を罰した話だと思ってしまい、創世記6:6、7の「ナーハム」を「後悔する」という意味に訳してしまう。しかし、その訳はイエスの時代や教父の時代に採用されていた聖書の訳とは明らかに違う。当時の訳は、以下のようになっていた。
「神は、地上に人を造ったので思いをめぐらし、考え抜いた。そして、神は言われた。「わたしが造った人を地の面から取り除こう。人から家畜に至るまで、はうものから空の鳥に至るまで。というのは、これらを造ったことを思いめぐらせたからだ」(創世記6:6、7、七十人訳の私訳)
この訳だと、「ノアの箱舟」は神が人をあわれみ(思いをめぐらし)、人を助けた話になる。だからこそペテロは、「ノアの箱舟」を神がノアの家族8人を保護した話とし、「・・・義を説いていたノアたち八人を保護なさったのです」(Ⅱペテロ2:5、新共同訳)、神の「救い」を示した「型」であったと解説した。「・・・そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです」(Ⅰペテロ3:20、21)。これは、まことに驚愕の事実ではないだろうか。
前回のコラムで神は人の罪を裁かないという話をした。人は生まれながらに「死人」なので、神は人を救うことしかされないことを述べた。そのことは、今回の話からも真実であることが分かっただろう。神にある人への思いは、一貫して「あわれみ」である。キリストが十字架で示された人へ「あわれみ」が本体なら、その影は「ノアの箱舟」であった。つまり、人は神に似せて造られた「良き者」であり、「神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった」(創世記1:31)、神の胸は人に対する「あわれみ」で熱くなっている。その熱い思いを示した出来事こそ、「ノアの箱舟」であった。
「エフライムよ。わたしはどうしてあなたを引き渡すことができようか。イスラエルよ。どうしてあなたを見捨てることができようか。どうしてわたしはあなたをアデマのように引き渡すことができようか。どうしてあなたをツェボイムのようにすることができようか。わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている」(ホセア11:8)
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