人は「災い」に遭うと、バチが当たったと思う。それは、罪に対する神の裁きだと思ってしまう。しかし、「災い」は神との結びつきを失う「死」に起因するのであって、その「死」も、悪魔の仕業によることを前回のコラムで説明した。「災い」は、神からのものではないことを説明した。そうなると、罪に対する神の罰などないということなのか。「神の裁き」などない、ということなのか。そこで今回のコラムは、「神の裁き」について考えてみたい。
「死人」を裁ける?
最初に質問がある。私たちは死んでいる人を裁けるだろうか。「死人」に対し、罪を問うことができるだろうか。言うまでもないが、そんなことはできない。「死人」の罪を問うたところで、その人は死んでいるから罰することなどできない。ならば、神はどうだろう。神なら「死人」を裁けるだろうか。神なら裁けたとしても、すでに死んでいる者を罰したところで、やはり何の意味もない。ゆえに、神も「死人」を裁かないという話になる。
では、再度質問をする。生まれながらの人間は生きているのだろうか、それとも死んでいるのだろうか。無論、生きていると答えるだろう。しかし、正解は死んでいるである。なぜなら、生まれながらの人間は神との結びつきもなく、ただ朽ち果てていくしかないからだ。そのままでは天国にも行けず、ただ滅びるしかない以上、生きているように見えても死んでいるとしか言いようがない。その様子は、折れた「枝」と同じである。
木に結びついていた「枝」が折れてしまうと、しばらくは生きられるが木から栄養を受け取れないので、やがて土に返る。そのため、「枝」は折れた時点で、死んでいるとしか言いようがない。人間も神との結びつきを失った時点で永遠に生きることができなくなり、やがて土に帰るしかない以上、「あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る」(創世記3:19)、死んでいるとしか言いようがない。そうした事情から、聖書は生まれながらの人間のことを「死んでいる」という。
「すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように」(Ⅰコリント15:22)
このように、神との結びつきを持たない者は死んでいる。「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって」(エペソ2:1)。そのことをイエスは知るからこそ、人が神との結びつきを回復することを、「この息子は、死んでいたのが生き返り」(ルカ15:24)と、放蕩(ほうとう)息子の譬(たと)えで教えられた。
ならばもう1度聞くが、神は「死人」の罪を裁くだろうか。すなわち、生まれながらに死んでいる私たちの罪を問うだろうか。その答えは、「死人」ゆえに問わないとなる。放蕩(ほうとう)息子の譬(たと)えでも、放蕩息子がしてきた「肉の行い」の罪を父親は一切問わなかった。納得がいかないかもしれないが、これが真実なので、イエスは次のように教えられた。
「まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦(ゆる)していただけます」(マルコ3:28)
「だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません」(ヨハネ12:47)
イエスは、どんな罪も裁かないと断言された。人は死んでいるからである。であれば、すべての人の罪は赦され、すべての人が救われるということになるのだろうか。実は、そうはいかない。「死人」ゆえに、神に問われる罪が1つだけ存在するのである。次に、その罪について考えてみたい。それを知るには、人が「死人」となったことで、神が人に何をされようとしたのか、その働き掛けを知る必要がある。
「死人」への働き掛け
その昔、悪魔はエバを欺き、それによりアダムも欺かれ罪を犯してしまった。それ以来、人は生まれながらに神との結びつきを持たない「死人」になった。「すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように」(Ⅰコリント15:22)。そのことで、人は土に帰るしかなくなった。「土に帰る」(創世記3:19)。ならば、土に帰るしかない「死人」に対し、神は何もできなくなったのだろうか。いや、神が「死人」に対してできることが1つだけあった。それは、神との結びつきを取り戻させ、生きるようにすることだ。「死人」の罪を裁くのではなく、「死人」を救うことだ。そこで神は、「死人」を死から救い出すために来られた。
「わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです」(ヨハネ12:47)
神は自らが十字架にかかることで、神との結びつきを奪ってきた「隔ての壁」を滅ぼされた。「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし」(エペソ2:14)。すなわち「死」を滅ぼし、「いのちと不滅」を明らかにされたのである。「キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました」(Ⅱテモテ1:10)。
ここに「死人」を救い出す「救いの恵み」が実現したので、神はこの「救いの恵み」をもって一日中、神に反抗する「死人」に手を差し伸べておられる。「不従順で反抗する民に対して、わたしは一日中、手を差し伸べた」(ローマ10:21)。神は時間に制約されない永遠なる方なので、いつの時代の人にも手を差し伸べてこられた。聖霊なる神が、人の魂に呼び掛けてこられたのである。その呼び掛けは、誰の心にも迫る「むなしさ」や「罪責感」となり、その声に耳を傾け、神にあわれみを乞うなら「死人」は生きる者にされた。
神は人に「意志」を与えたので、神が「死人」に対してできることは呼び掛けるところまでである。あとは「死人」がその呼び掛けを聞いて、神に「応答」するしかない。そこでイエスは、次のように教えられた。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです」(ヨハネ5:24)
ここでイエスは、「わたしを遣わした方を信じる者」が救われると言われたが、それは「死人」が神の声を聞き、「応答」するということだ。そうすれば、その人は死から贖(あがな)い出され「永遠のいのち」を持つようになると言われた。さらに続けて、こう教えられた。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです」(ヨハネ5:25)
「聞く者は生きるのです」の「聞く者」とは、聖霊なる神の呼び掛けに「応答」し、神に助けを乞う者を指す。これを「神に立ち返る」といい、「悔い改める」という。イエスは「死人」である私たちに、「悔い改める」なら神との結びつきが回復し、生きる者になれることを教えられた。生きる者になるとは、「神の国」を手にすることを意味する。
このように、神が「死人」に対しされたことは、裁くことではなかった。「死人」を救い「神の国」に連れ戻すことであり、再び神に「接ぎ木」することであった。だからこそイエスは、宣教開始の開口一番、「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)と言われた。このことから、「死人」ゆえに問われる罪が見えてくる。
「死人」ゆえに問われる罪
「死人」ゆえに問われる罪がある。それは聖霊の呼び掛けを拒み、イエス・キリストを信じようとしないことだ。神は「死人」を救おうとされる以上、それを拒むことだけは罪として問われる。人はそのことを知らなかったので、イエスは次のように教えられた。
「まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます」(マルコ3:28~29)
罪は何でも赦されるが、「聖霊をけがす者」だけは赦されないことを教えられた。「聖霊をけがす者」とは、聖霊なる神の呼び掛けを拒否する人たちを指す。キリストが成し遂げられた十字架の贖いを拒み、キリストを信じようとしない人たちである。つまり「死人」が問われる罪というのは、イエス・キリストを信じないことを指す。「罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです」(ヨハネ16:9)。
正確に言うなら、「聖霊をけがす者」を神が裁かれるわけではない。あくまでも本人がキリストを信じないという選択をし、自らの意志で「永遠の死」に至るのである。自らの意志で「死人」のままでよいという選択をしたのであって、そこには神が裁くという関与は一切ない。神がされることは一貫して人を救うことであり、裁くことは何もされていない。ゆえに聖書は、「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである」(ヨハネ3:17)と教えている。
神は患難を静観される
見てきたように、神は人の罪を裁かない。神は人を救い出すことしかされない。人を死から贖い出し、さらには人を苦しめてきた「肉の行い」の罪を洗い流そうとされる。「神のみこころは、あなたがたが聖くなることです」(Ⅰテサロニケ4:3)。そのためなら、神は人に襲いかかる「患難(かんなん)」さえ静観される。「患難」を静観することで、神の救いが必要であることを人に気づかせようとされる。ただし、その場合の「患難」は悪魔の仕業による「死」が原因で生じるのであって、神から来るのではない。神は悪魔の仕業による「患難」を逆手に取り、神の栄光をもたらされるだけである(参照:福音の回復(36))。
「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです」(Ⅱコリント4:17)
とはいえ、神が「患難」を静観されるということは、見ようによっては罪が裁かれ罰を受けているかのように思えてしまう。人がそのように思うので、神も「患難」を静観することを、時として人の眼鏡に合わせた言い方をされる。例えば、「見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行う者たちも、この女の行いを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう」(黙示録2:22)のように。
神が罪を裁いて罰を与えるといった類の表現は、旧約聖書では多々見られるが、実際は神が罪を裁いて罰を与えるということではなく、あくまでも「患難」を静観するということを意味する。静観することで、どうにもならない罪に気づかせ、神に助けを乞う決心ができるよう援護しておられる。神が人の眼鏡に合わせ、罪に対し神からの「患難」(わざわい)があるかのような言い方をされるのは、あくまでも人がその「わざわい」を聞いて神に立ち返るなら、神はその人の罪を赦すことができるからにほかならない。
「ユダの家は、わたしが彼らに下そうと思っているすべてのわざわいを聞いて、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。そうすれば、わたしも、彼らの咎と罪とを赦すことができる」(エレミヤ36:3)
このように、神が罪を裁いて罰を与えるといった類の表現は人の眼鏡に合わせた言い方であって、人が自らの意志で神を選択できるように助けておられる。神の立ち位置はあくまでも、「だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません」(ヨハネ12:47)にある。そのことを知らないと、神は人の罪を裁く方だという誤解が生じてしまう。
そこで、そうした誤解を避けるために、神が「患難」を静観されることの実際を見てみよう。それを見れば、人に襲いかかる「患難」は、まさしく神にとっては栄光の時であり、罪を裁いて罰を与えている時でないことが分かる。
「患難」を静観されたイエス
夜中に弟子たちは、なぜか舟に乗っていた。しかし、向かい風に遭い、いくら漕いでも前に進めなった。これでは目的地にたどり着けない。私たちも時として問題にぶつかり、思い描く目的地にたどり着けないことがある。そうした問題を「患難」という。
さて、陸地にいたイエスは、弟子たちが湖で「患難」に遭っているのをご覧になった。そこでイエスは、湖面の上を歩いて弟子たちの舟の方に行かれた。このイエスの行動は、一見すると困っている弟子たちを助けるために行かれたかのように思える。だが、そうではなかった。イエスは、ただそこを通り過ぎるだけのおつもりであった。
「イエスは、弟子たちが、向かい風のために漕ぎあぐねているのをご覧になり、夜中の三時ごろ、湖の上を歩いて、彼らに近づいて行かれたが、そのままそばを通り過ぎようとのおつもりであった」(マルコ6:48)
そのまま通り過ぎるとは、弟子たちの「患難」を静観されるということを意味する。わざわざ彼らのそばまで行き、ただ静観して通り過ぎるというのだ。これではまるで野次馬のようだが、そうではない。イエスは、彼らが「患難」の中で神に助けを乞えるよう、ご自分の姿をわざわざ見せに行かれたのである。ところが、湖面の上を歩いておられるイエスを見た弟子たちは、幽霊ではないかと恐れてしまった。
「しかし、弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、叫び声をあげた。というのは、みなイエスを見ておびえてしまったからである」(マルコ6:49~50)
この弟子たちの様子こそ、私たちの姿を映し出している。考えてみてほしい。私たちは「患難」に遭うとキリストのことを思い浮かべないだろうか。神なら助けてくれるかもしれないという思いが来ないだろうか。キリストを知らない「死人」であっても、神にすがりたいという思いが来ないだろうか。と同時に、その思いを打ち消すかのごとく、神にすがったところで「患難」は解決できないだろうという不信仰も湧いてくる。そうなると、神は実体のない幽霊のような存在になってしまう。「患難」の中でイエスの姿を幽霊だと思った弟子たちの様子は、まことにそうした私たちの姿を投影していた。
そんな弟子たちに対し、イエスは、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」(マルコ6:50)と言われた。私たちも「患難」に遭うと、本当に神は助けてくれるだろうかと「恐れ」に襲われるが、神は声なき声でもって私たちの心の戸を叩き励ましてくださる。「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく」(黙示録3:20)。それにより、神に助けを乞う機会が訪れる。弟子たちは訪れた機会を生かし、必死になってイエスにすがろうとした。
特にペテロは、「主よ。助けてください」(マタイ14:30)と叫んだことが並行記事に綴(つづ)られている。これが「悔い改め」であり、私たちを罪が赦される神の恵みへと導き、それにより「患難」は静められる。だから、イエスは通り過ぎるのをやめ、彼らの舟に乗り込み「患難」となった風を止められた。
「そして舟に乗り込まれると、風がやんだ。彼らの心中の驚きは非常なものであった」(マルコ6:51)
私たちも「患難」の中で神の呼び掛けに「応答」し、神にあわれみを乞うなら(悔い改めるなら)、イエスが弟子たちにされたように私たちの舟に乗り込み「患難」の風を止めてくださる。それは見える「患難」が解決するということではなく、見える「患難」が生じさせていた「恐れ」が締め出されることを意味する。
無論、「患難」が解決されることもあるが、それは二次的なものであり、大事なのは「恐れ」が締め出されることにある。なぜなら、私たちは「恐れ」から見えるものにしがみつこうとする罪を犯してしまうからだ。つまり、「恐れ」が締め出されることで罪は洗い流されていく。これを、「罪が赦される」という。
このように、神が「患難」を静観されることを通して「死人」が悔い改めるなら、神を信じなかった「罪」は赦され(洗い流され)生きる者とされる。また、神が「患難」を静観されることを通して生きる者とされた「死人」が悔い改めるなら、「肉の行い」の罪は赦され(洗い流され)神を愛するように変えられていく。
ただし、神が「患難」を静観されている間は「つらさ」を覚えるので、それはあたかも「神の懲らしめ」のようである。そうであっても、それは罪に対する罰ではなく、「愛」以外の何ものでもない。だから、「つらさ」を覚えたなら、神の御手にしがみつく機会とし、「平安な義の実」を結ばせればよい。
「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます」(ヘブル12:11)
このことから、人の罪に対する「神の裁き」の中身が見えてくる。
神の裁き
人は生まれながらに死んでいて、すでに裁かれた状態にあるので、神は人の罪を裁かれない。「信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている」(ヨハネ3:18)。「死人」に必要なのは救いしかないから、神は人の罪を裁かない代わりに、救いの御手を差し伸べられる。その御手に人が自らの「意志」で掴(つか)めるよう、ありとあらゆるチャンネルを使い、ありとあらゆる表現で呼び掛けられる。
例えば、「永遠の滅びの刑罰を受けるのです」(Ⅱテサロニケ1:9)と言って、神を信じない「死人」に対しては、今の状態の恐ろしさに気づかせようとされる。神は人に「意志」を持たせたので、人は自らの「意志」で神の御手を掴む必要があることからそのようにされる。これが神の福音であって、そこには神の裁きなどない。あるのは「救い」だけである。ゆえにイエスは、はっきりこう言われた。
「だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません。わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです」(ヨハネ12:47)
そしてイエスは、裁かない理由を続けて、「わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのです」(ヨハネ12:48)と言われた。神が人の罪を裁かないのは、神を拒む者はすでに裁かれていて、そのままでは「終わりの日」に「永遠の死」が確定するからだと言われた。ゆえに、キリストを拒むことだけが「罪」に問われる。ということは、キリストを信じるようになった者たちには、もう問われる「罪」がない。イエス・キリストにある者は「罪」に定められることは決してない、ということになる。
「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」(ローマ8:1)
それはつまり、キリストを信じる者は「永遠のいのち」が与えられているので、決して滅びることはないということだ。
「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません」(ヨハネ10:28)
ならば、もう救われて恵みの下にあるのだから、私たちは罪を犯そうということになるのだろうか。決してそのようなことにはならない。
「それではどうなのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません」(ローマ6:15)
なぜなら、自分の罪が裁かれることなく赦されたことを本当に知るなら、すなわち無条件で神に愛されていることを知るなら、私たちは必ず神と人を愛するようになるからだ。「だから、わたしは『この女の多くの罪は赦されている』と言います。それは彼女がよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません」(ルカ7:47)。ゆえに、もう救われて恵みの下にあるのだから、罪を犯そうということには決してならない。もし、罪を犯そうということになるのであれば、その人はまだ罪が赦されたことを体験していない。無条件で愛される神の愛を、受け取ってはいないのである。
このように、キリストが示された「神の福音」は、人の罪を裁く福音ではなく人を救う「恵み」であって、人が連想するような裁きのシステムはどこにもない。神にあるシステムは、無条件で人を愛する「全き愛」だけである。すなわち、この「全き愛」を人に与えることこそが、人の罪に対する「神の裁き」なのである。
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