前回のコラムでは、「愛」について詳しく説明した。「愛」とは、神と結びつこうとする内なる運動である。人の本質は、そうした運動をするように造られていた。ゆえに人における第一の戒めは、「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです」(マタイ22:37、38)となる。
しかし悪魔の仕業で、神との結びつきを失う「死」が人に入り込んだ。それにより、人は神と結びつこうとしてもできなくなった。そのため、神と結びつこうとする運動は神の代替えを探し、別なものと結びつくしかなかった。これが「罪」と呼ばれる状態であり、人が罪を犯してしまうのは私たちの中に神と結びつこうとする「愛」があるからであり、神を愛そうとする「良き者」ゆえにそうなる。
つまり、神の目からすると、「罪」は人に入り込んだ「死」によって発症した病気であり、「死のとげは罪であり」(Ⅰコリント15:56)、「罪人」は病人ということになる。そこで神は、医者が病人を招き入れるように「罪人」を招き入れ、結びつく先を軌道修正し(悔い改めさせ)、癒やそうとされる。
「そこで、イエスは答えて言われた。『医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために(軌道修正させるために)来たのです』」(ルカ5:31、32 ※( )は筆者が意味を補足)
前回は、こうしたことを説明した。今回はこれに関連し、人の覚える「弱さ」について学んでみたい。人は不安を覚える「心」や、人と比較して劣っている「体」を見て「弱さ」を覚える。具体的に言うなら、困難に立ち向かうことのできない自分、すぐに諦めてしまう自分、誘惑に負けてしまう自分、そういう「心の状態」に対して「弱さ」を覚える。病気を覚えやすい体、機能が劣っている体、見た目が劣った体、能力の劣った体、そういう「体の状態」に対して「弱さ」を覚える。そして、人は「弱さ」を恥ずかしいと思い、それを隠そうとする。
そこで、どうして人にはそのような「弱さ」があるのか、そもそも「弱さ」の意味は何なのか、そうした人の「弱さ」を考えてみたい。では、人の「弱さ」を知るために、人の造りはどうなっているのか、そこから見てみることにしよう。なお、御言葉の引用は記載のない限り新改訳聖書第3版を使用する。
人の造り
聖書は、人の造りを次のように教えている。
「大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです」(ローマ12:5)
「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです」(Ⅰコリント12:27)
「私たちはキリストのからだの部分だからです」(エペソ5:30)
「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです」(コロサイ3:15)
どの御言葉も、人は神と1つとなるように、神と一体性を持つように造られたことを教えている。その神は「三位一体の神」であり、神にも一体性がある。「わたしと父とは一つです」(ヨハネ10:30)。つまり、神が1つであるように、人も神と1つとなるよう造られた。「わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです」(ヨハネ17:22)。さらに言うと、神は人がご自分と1つとなれるよう、何と、ご自分の「いのち」で人の「いのち」となる「魂」を造られた。
「神である【主】は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった」(創世記2:7)
「いのちの息」の「いのち」と訳されたヘブライ語は「ハイイーム」[חַיּׅים]で、「複数形」の単語になっていて、ここでは三位一体の神の「いのち」を表している。次に、「息」と訳されたヘブライ語は「ネシャーマー」[נְשָׁמָה]で、「魂」という意味がある。この御言葉は、神は人の「魂」を神の「いのち」で造られたことを教えている。ゆえに、人は神と1つとなって生きられる。いや、神との一体性の中でしか生きられない造りになっている。
このように、人は神の部分として造られた。神抜きでは存在できないように、神との一体性の中で生きるように造られた。「私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです」(使徒17:28)。このことから、何が人の「弱さ」なのかが見えてくる。
人の「弱さ」
人は神の部分であり、単独では生きられない。となれば、人にとっての「死」は、神との結びつきを失うことを意味する。イエスも、神との結びつきを失った者に対し、「死人が神の子の声を聞く時が来ます」(ヨハネ5:25)と言い、神の声を聞き、神との結びつきを取り戻すなら、「聞く者は生きるのです」(ヨハネ5:25)と言われた。また、人が生きるには神との結びつきが不可欠なので、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」(マタイ4:4)とも言われた。このことから、何が人の「弱さ」なのかが見えてくる。それは、神なしでは生きられないという性質にほかならない。
しかし、神なしでは生きられないという性質は人の「弱さ」であっても、そのおかげで「魂」は神を慕い求めることができる。「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます」(詩篇42:1)。この「弱さ」のおかげで、人は神に生かされる「恵み」を知ることができ、神の「恵み」も人の中に働くことができる。従って、人の「弱さ」は「宝」である。パウロはそのことを神から教えられたので、次のように証しした。
「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」(Ⅱコリント12:9)
こうした神と人との関係を何かに譬(たと)えるなら、神はパズルの板であり、人はそこに寸分違わず収まる「パズルのワンピース」ということになる。そうであるから、人(ワンピース)は神というパズルの板に収まっているときは神と一心同体となって「強い姿」となるが、神というパズルの板から外れてしまうと、生きることのできない無力な「弱い姿」になってしまう。神と人とは、まさしくそういう関係であることを聖書は教えている。
このように、人には神なしでは生きられないという「弱さ」があるおかげで、神と1つとなって生きられる。パウロはその恵みを知り、「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)と証しした。人が持つ「弱さ」は、まことに「宝」である。この「弱さ」が、前回のコラムで見た、神と結びつこうとする「愛」の運動を支える仕組みにほかならない(参照:福音の回復(41))。
さて、この「弱さ」は、人が神というパズルから外れることなくしては現れない。人は神と1つとなっているときは神によって強くされているので、神との結びつきを失わない限り、自分の「弱さ」を知りようがない。しかし、ここに事件が起きた。すべての人が神との結びつきを失うという、とんでもない事件が起きてしまった。それはアダムの時代に起き、それにより、人は神なしでは生きられないという自らの「弱さ」と対面することになった。では、その事件を見てみよう。
アダムの時代に起きた事件
アダムは神の部分として造られた。「私たちはキリストのからだの部分だからです」(エペソ5:30)。神が1つであるように、アダムも神と1つとなって生きるように造られた。「わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです」(ヨハネ17:22)。だから、アダムは神と「1つ思い」を共有して生きていた。そのアダムからエバは造られたので、エバも神と「1つ思い」を共有して生きていた。
ところが、そこに悪魔が登場する。悪魔は蛇を使ってエバを欺き、「神と異なる思い」を信じ込ませた。それにより、食べてはいけない物を食べさせた。「しかし、蛇が悪巧みによってエバを欺いたように」(Ⅱコリント11:3)。アダムもエバにつられて「神と異なる思い」を信じてしまい、同様に食べてはいけない物を食べてしまった。2人は罪を犯したのである。「神と異なる思い」を信じたことが、まさに罪となった。
当然、「神と異なる思い」を信じるという罪を犯せば、神と「1つ思い」を共有する関係は立ち行かなくなり、神との結びつきを失ってしまう。実際、そうなってしまった。この事件を「死」といい、その「死」がすべての人に及んだのである。「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです」(ローマ5:12、新共同訳)。こうして人はみな、神との結びつきを持たない状態で生まれてくることになった。そうなると、人はどうなるだろう。
人は神なしでは生きられないという「弱さ」を所持していたために、当然のことながら神との結びつきを失う「死」が入り込めば生きられなくなる。具体的に言うと、人の「魂」は神との交わりができなくなるので「不安」を覚えるようになる。その「不安」が、困難に対する恐怖を覚えさせる。人が覚えるあらゆる心の「弱さ」はこうして始まった。
それだけではない。人の「体」は生きられなくなり、本来持っていた永遠に生きるための能力は失われてしまう。そうなれば、病気をしたり、体の不自由を覚えたりしながら「肉体の死」を待つしかない。人が覚えるあらゆる体の「弱さ」はこうして始まり、最後は土に帰る姿となった。だから神は、「死」が入り込んだアダムに対し、「あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る」(創世記3:19)と言われた。
このように、神との一体性の中で暮らしていたときは知る由もなかった自分の「弱さ」を、アダムの時代に起きた「死」という事件を境に人は知るようになった。神なしでは生きられないという人の「弱さ」が、具体的な姿となって現れたのである。人は神のパズルの板の「ワンピース」であったのに、「ワンピース」だけとなった自分と対面することになってしまった。それは「不安」に怯(おび)える姿であり、朽ち果てる姿であった。私たちは今日、この姿を自分の「弱さ」として認識する。
さて、そうなると疑問が湧いてくる。本来人の「弱さ」は、神と一緒に生きていくために必要な「宝」であり、誇りであった。しかし、私たちは具現化された「弱さ」を誇りではなく「恥」とし、何かで隠そうとしてしまう。これは一体どうしたことなのか、という疑問が湧いてくる。この疑問を解くために、アダムの時代に起きた事件の続きを見てみよう。
「弱さ」に対する反発
アダムとエバは、悪魔の仕業で「神と異なる思い」を信じてしまった。そのことで神との結びつきを失う「死」が入った。これを境に、神との結びつきがない自分たちの姿を知ることになった。それは、朽ちる体となった姿であり、「不安」に怯える姿であった。彼らは、まさに裸となった自分を初めて知ったのである。それを知った瞬間、彼らは言いようもない「恐れ」に襲われ、その姿をとっさにいちじくの葉で隠そうとした。その様子を、聖書は次のようにつづっている。
「このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った」(創世記3:7)
人が知った裸の自分こそ、神なしでは生きられないという「弱さ」が具現化した姿であった。それは、神と人とを結びつける「宝」を意味する姿であるにもかかわらず、人は初めて知る自分の姿を恥ずかしいと思い、それを別のもので覆い隠そうとしたのである。まさしく、今日の私たちとまったく同じ反応を示した。ここにこそ、「弱さ」を「恥」とし、さまざまなもので隠そうとする生き方の起源がある。人のこの反応は、次の理由からであった。
人の「魂」は神の「いのち」で造られていた。そのため、「魂」は何ものにも制約されない「無制約」の神を知っている。そこに属する「無制約」の自分を知っている。そうした事情から、生きられないという制約を受けるようになった自分の姿に対し、それは本来の姿ではないと拒否してしまう。制約に対し、すなわち「弱さ」に対し猛烈に反発する。それが「弱さ」を「恥」とし、さまざまな「鎧(よろい)」で隠そうとする行動となった。「鎧」を身にまとうことで「弱さ」を拒否し、制約の少ない「特別な自分」を目指すようになった。
こうした反発は、絶えず自分の思いの中で繰り広げられている。例えば、いくら生きられなくなるという制約を受けても、永遠に生きられる自分を人は自由に想像する。いくら神が見えないという制約を受け「不安」を覚えるようになっても、何ものをも恐れないで勇敢に戦う自分を自由に思い描く。それだけではない。宇宙を独り占めにする自分も、過去や未来を自由に行き来できる自分も思い描き、何ものにも制約されない自分を思いの中で絶えず主張する。そうやって、制約を受けた姿に反発し、自分の「弱さ」を実際に拒否する。
このように、人の「魂」は神に属し、神と共に「無制約」の中で自由に生きる自分を知っているために、制約を受けた自分の姿に反発する。そして、この反発を引き起こしたのは、ほかでもない、神との結びつきを失う「死」である。「死」は神から人を引き離しただけではなく反発も引き起こさせ、「弱さ」の意味を変えさせてしまったのである。「弱さ」は神のパズルに寸分違わず収まる「宝」であるにもかかわらず、それを「恥」と思わせてしまった。このことがその後、人に悲劇をもたらすことになる。それはこうであった。
もたらされた悲劇
「死」の圧倒的な力によって、人は具現化された自分の「弱さ」に反発を覚えさせられ、「弱さ」を恥と思うようになった。そこで、人は「弱さ」を隠そうと必死になった。少しでも人から良く思われる「鎧」を手に入れ、その下に「弱さ」を隠そうとした。具体的には、人から称賛される「容貌」や「肩書」、人が「わーすごい」と言ってくれる「富」や「知識」、人の関心を引ける「行い」や「能力」、そうしたものを「弱さ」を隠す「鎧」とした。
ところが、少しでも人から良く思われる「鎧」を手にするには、競争に勝つ必要があった。競争に勝ち、周りの「鎧」よりも勝っている必要があった。そのため、人は互いの「鎧」を比べるようになり、怒りや嫉妬を覚えるようになった。この怒りや嫉妬が、さまざまな罪の行為へと人を誘導した。
それだけではない。人は「弱さ」を拒否したために、それを見ないようにと「快楽」もむさぼった。「快楽」という「鎧」で自分の「弱さ」を見ないようにした。こうして人は、罪の行為へと走った。すなわち、人はさまざまな「鎧」で「弱さ」を隠そうとしたことで、罪を犯すようになったのである。そのことが人を苦しめた。「弱さ」に対する誤った対応が、人に罪を犯させるという甚大な悲劇をもたらしたのであった。
このように、人の中に神との結びつきを失う「死」が入り込み、神なしでは生きられないという「弱さ」が具現化したものの、人はそれを「恥ずかしい」と思わされたことで悲劇が起きた。本来であれば、具現化した「弱さ」は神なしでは生きられないことを示した印であり、神と人とを結びつける「宝」であるにもかかわらず、人はその意味を、悪魔の仕業による「死」の圧倒的な力の下で勘違いさせられてしまった。そのことで、人は罪を犯すようになった。まさに「死」の圧倒的な力が、人の中に「罪」を生ませた。「死のとげは罪であり」(Ⅰコリント15:56)。これが、もたらされた悲劇である。
無論、神は人の悲劇を放置されない。だから神は、こうした悪魔の仕業を打ちこわすために来られた。「神の子が現れたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです」(Ⅰヨハネ3:8)
「勘違い」を是正する
神との結びつきを失う「死」が入り込んだことで、神なしでは生きられないという人の「弱さ」は表舞台に立った。それは精神的な制約であり、体の制約であった。人はそれをすぐさま自分の「弱さ」として認識するも、「死」の圧倒的な力の下では、単に自分の劣った姿という認識になり、「恥」と思うようになった。そこから発展し、劣っている姿を罪に対する神の罰だと思うようになった。しかし、人が認識した「弱さ」こそ、神と人とを結びつける「接着剤」であり、人が誇れる唯一の「宝」であった。
そこでキリストは、ご自分も人と同じ「弱さ」(制約)を持つ「イエス」として来られた。「彼は、自分自身も弱さを身にまとっているので」(ヘブル5:2)。それにより、「弱さ」に対する勘違いを是正しようとされた。手始めにイエスは、「弱さ」を恥と思わせ、「鎧」で覆い隠させようとする悪魔の試みに遭われた。だがイエスは、「鎧」には手を出されなかった。そのことで、「弱さ」と「罪」とは別であることを教えられた。
「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです」(ヘブル4:15)
それからイエスは、人々の「弱さ」に対する勘違いを、その都度是正していかれた。例えば、あるとき弟子たちが目の見えない「体」を持つ者を見たとき、その者の「弱さ」(制約)を神からの罰だと思ってしまった時があった。それで彼らは、イエスに次のような質問をした。
「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか」(ヨハネ9:2)
これに対し、イエスはこう答えられた。
「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです」(ヨハネ9:3)
イエスはここで、体の「弱さ」は、「神のわざがこの人に現れるため」のものであり、神の恵みを受け取るための「宝」であると、弟子たちに教えたのである。イエスはそう教えることで「弱さ」に対する勘違いを是正し、「弱さ」を本来の正しい位置に戻そうとされた。
また、ある時イエスは、弟子たちにご自分の祈る姿も見せられた。それは、神なしでは生きられないご自分の「弱さ」をまったく隠さず、「弱さ」を前面に出された姿であった。
「イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた」(ルカ22:44)
イエスはここで、「弱さ」を立派な「鎧」で隠そうとしていた弟子たちに対し、「弱さ」は神のもとに持っていくことを教えられた。「弱さ」は神と寸分違わず1つとなれる恵みであるからこそ、神に対して切に祈れることを教えられた。それにより、弟子たちの「弱さ」を本来の正しい位置に戻させようとされた。
こうして、イエスは「弱さ」に対する勘違いを是正していかれた。その最後の仕上げが、「弱さ」の揺るぎない象徴となる「肉体の死」を、自らが十字架で背負うことであった。イエスは「弱さ」の象徴を背負い、十字架で死なれたのである。そして3日目に、神の力によってよみがえられた。自らが人の持つ最大の「弱さ」を背負い、そのことゆえに神と1つとされ、生きるようになれることを証しされたのであった。
「確かに、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力のゆえに生きておられます」(Ⅱコリント13:4)
このように、人は「弱さ」を勘違いさせられていたので、キリストはその勘違いを是正するために自らも「弱さ」を持って来られ、「弱さ」があるからこそ神と結びつくことができることを十字架で示された。「弱さ」にこそ、人の救いがあることを示された。この御業により、人が覚える「弱さ」は、神と人とを結びつける「宝」であることを人は知ったのである。
「弱さ」は「宝」
キリストは、人が覚える「弱さ」の意味を教えてくださった。それは「宝」であると。しかし、いまだに多くの人が「弱さ」を「宝」だとは知らない。制約を受けた姿の意味を知らない。知らないから、制約を受けた姿を恥とする。恥とするから、自分より多くの制約に苦しんでいる人たちを「障害者」と呼び、制約の少ない自分を「健常者」と呼んで、安心しようとする。それは実に残念なことである。
確かに人が覚えるさまざまな制約は、生きる上でさまざまな「障害」となる。しかし、それはこの世界での話であり、人と神との関係においていうなら、そうした制約は何の「障害」にもならない。むしろ、それがあるおかげで人は神と1つになれる。ゆえに、神の目から見ると「障害者」など1人も存在しないのである。
そもそも私たちは、誰もが「肉体の死」に至るという比類なき制約(弱さ)を持っており、それはすべてのものを無にしてしまう。人と比べた「うわべ」の違い、能力の違い、機能の違い、そうした体の違いをもすべてのみ込んでしまう。人は互いを比べ、「障害者」「健常者」という区別をするが、人の持つ比類なき制約(弱さ)は、そうした区別を空しいものにしてしまうのである。そういう意味では、誰もが等しい。誰もが、神の助けなくしては生きられない「弱さ」を持つ者で間違いない。そうした自分の「弱さ」を知る者が真に「心の貧しい者」であり、イエスはその者を幸いだと言われた。その人たちには神の恵みが豊かに働くからだ。
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」(マタイ5:3)
これに付け加えるなら、どんなに制約を受けた弱い「体」であろうとも、どんなに「不安」を覚える弱い「心」であろうとも、そこには、神の「いのち」で造られた「魂」がある。その「魂」は、そうした「うわべ」に関係なく、みな等しい。というのも、人は神との結びつきを失ったことで「体」は有限性を帯び、「魂」は神と「疎外」された関係になったというだけで、「魂」自体がどうにかなったわけではないからだ。誰の「魂」であっても神の「いのち」がそこにあり、その「魂」はみな等しく、素晴らしい姿をしている。すなわち、人はみな、「うわべ」に関係なく同じ価値を有しているということだ。ゆえにイエスは、次のように言われた。
「うわべによって人をさばかないで、正しいさばきをしなさい」(ヨハネ7:24)
これは何を意味するかというと、この世界で「障害者」と呼ばれている人たちであっても、見た目の制約がどんな人であっても、「うわべ」にまったく関係なく、誰であれ救われるチャンスがあるということだ。なぜなら、神は人の「魂」に呼び掛け、「魂」を救われるからだ。誰の「魂」であっても神の呼び掛けを聞くことができ、その呼び掛けに応じるなら救われる。救われたなら、終わりの日に「無制約の体」(御霊のからだ)に着替えさせられ、よみがえる。こうして、人は寸分違わず神のパズルの板に収まり、誰もが神と同じ姿になる。
「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます」(Ⅱコリント3:18)
このように、人の覚える「弱さ」は恥などではない。それは、神なしでは生きられないことを示す証しであり、その「弱さ」の下には神の「いのち」で造られた素晴らしい「魂」がある。だからこそ、人の覚える「弱さ」は「宝」なのである。具現化された「弱さ」は、まさしく「魂」が神との一体性の中で生きるために必要な姿であり、その姿ゆえに人は神を必要とすることができ、神の恵みの中で生きられる。従って、私たちは自分の弱き姿を尊び、むしろ大いに喜んで「弱さ」を誇るべきである。
「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」(Ⅱコリント12:9)
「弱さ」を誇りに思えるようになれば、「弱さ」は正しい位置に戻り、その人に起きてきた悲劇も終わりを迎える。そのことをキリストは知るからこそ、自らも「弱さ」を持って来られ、その姿を恥とはされなかった。それどころか、「弱さ」の象徴となる「肉体の死」をもって十字架で死なれ、神の力によって生きられた。「弱さ」は誇りであることを、自らが証しされた。
私たちは「弱さ」を持つ弱き者であって、イエスがされたように自分の「弱さ」を恥とすることなく誇りに思えるようになるなら、その「弱さ」ゆえに神の力で生かされ、本当の意味でキリストとともに生きる者となれる。
「確かに、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力のゆえに生きておられます。私たちもキリストにあって弱い者ですが、あなたがたに対する神の力のゆえに、キリストとともに生きているのです」(Ⅱコリント13:4)
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