<本文と拓本>文字30(1052+30=1082)
粛宗文明皇帝於靈武等五郡(粛宗文明皇帝は霊武等五郡において)、 重立景寺(重ねて景寺を立つ)。元善資而福祚開(元善に資ければ福祚を開き)、大慶臨而皇業建(大慶臨みて皇業建つ)。代宗文
<現代訳>
粛宗文明皇帝(711~762、在位756~762。第10代皇帝)は、霊武と同様に五郡にも重ねて景教会堂を建てられ、信徒の善行の扶助により祝福がもたらされ、大きな慶びの中、皇帝の事業が行われました。
<解説>
霊武は霊州ともいわれ、742年に霊州を改め霊武としました。現在の寧夏回族自治区の霊武市。五郡とは5つの郡の意味と、五郡という地名の説があります。すなわち、西安より西の方面に終南山があり、その地域をいいます。五郡の五は不明。粛宗は霊武で即位しました。
粛宗の生きた時代は内外の反乱が多くあり、755年11月に玄宗の高官で寵愛を受けたソグド人の安禄山(705~757。禄山はソクド語でロクシャン<光明の意味>の音訳)が謀反を行い、反乱が発生。安禄山が756年1月に洛陽で雄武皇帝として即位すると、唐は混乱の中に置かれました。粛宗は玄宗と長安を脱出し、蜀に逃れましたが、息子に殺害された安禄山の死後に回復。このような時代に景教徒たちは生きており、碑に記す景士である伊斯の活躍へとつながります。
※ 参考文献
『景教—東回りの古代キリスト教・景教とその波及—』(改訂新装版、イーグレープ、2014年)
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