<本文と拓本>文字30(1022+30=1052)
南山峻極(南山の峻極に比し)、沛澤與東海齊深(沛澤<多大な恩恵>は東海の深さに齊し)。道無不可(道は可ならざるは無く)、所可可名(可とすべきところ名づくべし)。聖無不作(聖は作さざるは無く)、所作可述(作すところを述ぶべし)。粛宗文
<現代訳>
南山よりも高く、水の流れゆく東海の深さに等しいほどです。皇帝の道に不可能はなく、至る所に名があり、皇帝の成されないことはありません。今成されたことを述べましょう。粛宗文明皇帝(711~762、在位756~762。第10代皇帝)
<解説>
粛宗は、玄宗皇帝の三男として生まれましたが、この時代は反乱が起きた時代で、755年(~763年)に唐の節度使であった安禄山(ソグド人といわれる安禄山とその部下の史思明ら)が反乱を起こすと、粛宗は父・玄宗皇帝と長安を脱出。粛宗は、郭子儀の軍隊と反撃し、翌年の8月に霊武において皇帝に即位します。
この時、すでに霊武には景教会堂が建っており、有力な信徒が皇帝に仕えていました。その人物が、後に碑文で述べている節度副使の伊斯であり、彼の参戦により、唐軍は勝利を収めました。10月には洛陽や長安を奪還しましたが、粛宗の政治力は官僚の力で発揮できない日々が続きました。彼は、父・玄宗が死去した13日後、病の中52歳で死去します。安史の乱は、最終には至っていませんでした。
安史の乱は、世界史、東洋史では有名な事件として取り上げられています。
※ 参考文献
『景教—東回りの古代キリスト教・景教とその波及—』(改訂新装版、イーグレープ、2014年)
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