全国の未信者や教会に集っていない信者から寄せられるキリスト教葬儀の依頼に対し、多くの牧師先生方に協力をいただきながら葬儀司式に対応する働きを進めてきた。日本の葬儀文化に対するキリスト教の関わり方が問われる働きであり、日々身の引き締まる思いで対応している。
約1年半の試行期間の中で、さまざまなご遺族から依頼をいただき、葬儀を通して学んだことを簡単に整理してみたい。
キリスト教に好感を持っている人は非常に多い
教育や福祉の現場でキリスト教に触れた人、キリスト教式結婚式を挙げた人、メディアを通してキリスト教の良さに触れた人、さまざまであるが、総じてキリスト教に好感を持っている人の割合は、現代日本において相当に高い。
そのような家庭における葬儀では、故人あるいは喪主が希望すれば、先祖代々から受け継がれた仏教や神道に関係なく、キリスト教葬儀を選択するケースが散見される。
仏教葬儀文化は急速に衰退している
核家族化が進み、大家族で構成される日本の「家」が消えようとしている。そのような中、先祖供養を中心とした仏教葬儀文化も存続の危機に陥っている。
死者とのつながりを大切にする基となる家族親族共同体が崩れ、葬儀を行わないいわゆる「無葬社会」が忍び寄っている。葬式仏教としてさまざまな葬儀関連の儀式を提供してきた仏教界にとって、働きのフィールド自体が失われていく状況がある。
「無葬社会」は潜在的にキリスト教信仰を求めている
都会において30パーセントを超えたといわれる葬儀をしないいわゆる「直葬」においても、火葬場にて、親しい関係にあった人々と最後の別れをする「火葬前式」と呼ばれる簡素な祈りの場が与えられる。一切を簡素化した後に残る最後の「祈りの時」である。
このような場で、悲しみに沈む近親者を慰め、彼らの祈りを取り次ぐことができるのは、「死」への解決を持つキリスト教信仰者だけである。「無葬社会」に寄り添うことは、宣教の1つの入り口になる。
仏教葬儀文化の習慣から抜け出ることは容易ではない
葬式仏教として日本の家族親族における先祖との絆を大切にしてきた日本の仏教は、さまざまな儀式的な供養の方法を提案してきた。それらの中には現代社会には合わないものも数多いが、寺院や葬儀社の収入源にもなっているため、「無葬社会」が忍び寄っても、容易になくなることはない。
一方キリスト教には、供養の概念がそもそも存在しないため、儀式的な法要の心配や経済的な負担の心配が少なく、その理由だけでクリスチャンになりたい人や教会墓地を使わせてもらいたいと申し出る人がいる。しかし、大半の人は延々と続く仏教葬儀文化の習慣から抜け出ることができない。その理由は、先祖との絆を大切にする代替案がどこからも提示されないからである。
先祖との絆を大切にする代替案が必要
仏教葬儀文化の中で受け継がれてきた法要の習慣、仏壇や位牌などの仏具などの中には、供養の概念や偶像礼拝の要素など、キリスト教信仰とは相いれないものが含まれている。しかし、キリスト教信仰にとって大切な要素も実は含まれているのである。
例えば、法要の習慣は、普段顔を合わすことの少ない親族が集まり、先祖にあらためて感謝を表し、互いの近況を知る良い機会となる。仏壇や位牌は、家庭における祈りの場を提供している。長年にわたって家族親族の絆を強める役割を担ってきたこれらのものを、代替案を提示することなく排除するなら、キリスト教葬儀文化が日本に定着することは難しいだろう。
仏教葬儀文化の良さを継承したい
仏教葬儀文化を通して日本人が受け継いできたものの中に、次第にキリスト教信仰に都合の良いものが増えてきた。先日、仏壇屋に出向いてみたところ、かつての大型の仏壇は姿を消し、キリスト教の家庭祭壇にそのまま使えそうなものが数多く販売されていた。おそらくキリスト教会が手を加えれば、さらに良いものになるだろう。
毎年繰り返される法事も、僧侶が来て読経を唱える部分は存在するが、家族親族の交わりの場としての意味合いが強くなっている。先日、キリスト教で法事をしてみたいという家庭に招かれ、集まった子どもたちに向けて聖書の紙芝居をして、家庭の祝福のために祈ったところ、大変喜ばれ、同じような機会が継続している。工夫は必要だが、仏教の習慣に合わせれば、毎年福音を携えて訪問することができる。
葬儀は宣教の入り口になる
仏教葬儀文化で培われた習慣にキリスト教信仰を根付かせていくための起点は、葬儀に関わることである。葬儀をキリスト教式で行い、納骨式を行い、毎年の記念会に関わるなら、いつの間にか家族親族の中に福音が届くことになる。
詳しくは次回にて。(つづく)
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