昨年の秋、米国に住む娘夫婦に男の子が生まれた。私たちにとって待望の初孫の誕生である。遠方のため会いに行くことは難しいが、頻繁に送られてくる写真や映像に触れるだけで、新しい時代への幕が開けたような気持ちになる。実にうれしい限りである。
幼子の存在は、特に身近な人に大きな影響を与える。かつて私が初めて父親になり、わが子の輝きを目の当たりにしたとき、その命の魅力に吸い込まれるように求道を始めたことを思い出す。わが子の存在が無ければ、私は信仰を持つことはなかっただろう。
幼子には、神様から与えられた命が満ちているようだ。自分では何もできない弱い存在であるにもかかわらず、人々の心を謙遜にさせ、感謝の心や優しさを与える。愛らしい幼子とその家族の祝福のために祈らずにはおられない。
しかし、残念なことだが、このような幼子にも突然の死が訪れるときがある。乳児の死亡例は医療の進歩によって劇的に少なくなったが、年間で2千人ほどいるそうだ。
さらに生まれてくることのできなかった子どもの数に至っては、現在でも年間で40万人を超えると予想されている。死因はさまざまだが、ご両親にとっては大変つらい試練の時となる。
先日、生後5カ月の乳児の葬儀依頼が入った。電話口から涙声であったので、祈りつつご家庭を訪問すると、まだベビーベッドに寝かされているご遺体の上でメリーが回り、脇にはおもちゃやぬいぐるみが置かれていた。生まれてからずっと病院にいたので、お家でできることをしてあげたいと明るく装うご両親の様子に胸が痛んだ。
葬儀の打ち合わせのために訪問したはずが、本論に入るにはかなりの時間を要した。重い病気を持って生まれたお子さんだったので、出産時から、ご家族、病院のスタッフの皆さんの温かい介助によって支えられてきた5カ月の短い命の物語を伝えてくださった。
見せていただいた写真は、病院の中で写した愛情溢れる家族写真だった。短い命ではあるが、愛情をいっぱい注がれたご家族に対し、心から敬意を表したい気持ちにさせられた。なぜ、神様はこのような試練をこの家族に与えたのか?神様のご計画は何ですか?と神様に訴えるような祈りが、私の心に湧き起こってきた。
慰めを与えなければならない牧師が、ご家族の様子に引き込まれ、心を乱してはいけない。しかし、泣き崩れるお母様の様子を前にして涙を留めることはできなかった。
聖書に触れたことのないお母様は、わが子がまだ遺体の中に居るから火葬にしたくないと言われた。確かに気持ちはよく分かる。
私は、その気持ちを十分に汲み取ったのち、亡くなったお子さんが今は弱い肉体から解放され、天国に迎えられていることをお伝えした。信仰を持っておられるご主人がともにうなずいてくださったことは、ありがたかった。
乳児、幼児の救いについては、聖書を学ぶ中で何度も議論し、論文も幾つか読んできた。聖書が明確に語っていないことだ。しかし私は、下記の聖書箇所をもって彼らが無条件に天の御国に迎えられていることを確信している。
「しかしイエスは、幼子たちを呼び寄せて、こう言われた。『子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません』」(ルカの福音書18章16、17節)
火葬場であいさつをして別れるとき、私はご両親の肩に手を置いて祈らせていただいた。そして「必ず天国で会うのですよ!」と声を掛け、その場を去った。
後日、ご両親が近くの教会に集われたことを聞いた。全てのことは神様の御手の中にある。そして、この悲しい現実も必ず益となるに違いない。そして、天国で家族が再会できる時は必ずやって来る。
イエス・キリストは、「神の国は、このような者たちのものです」と幼子を指して言われたが、私たちはやがて天国で多くの子どもたちに出会うことになるだろう。幼い子どもを失ったご家族には、感動の出会いがあるに違いない。その時まで、悲しみを背負って生きておられる多くのご家族に、神様の慰めと励ましが備えられるよう切に祈りたい。
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