私たちに依頼されるキリスト教葬儀のほとんどは、教会とのつながりのない家庭からである。遺族にキリスト教葬儀を希望された理由を尋ねると、かつて親族の中に熱心な信者がいたことを教えてくださることがある。1人の信者の祈りを起点として、神様が長い年月をかけて家族親族を祝福してくださっていることを知るのはうれしいことだ。
召される直前にご自分の葬儀をキリスト教式にすることを希望された男性は、第2次大戦において南方で戦死されたお父様の遺書をずっと大切に持っておられた。その遺書には、聖書に示された神の愛は永遠に変わらないのだから、この愛を大切にしっかりと生きるようにとつづられてあった。遠い異国の戦場から家族の幸せを祈る父親の、心のこもった言葉だった。
また、ある女性は、戦前にお父様のあつい信仰を受け継いだが、戦後嫁いだ家庭の事情から1度も教会に集っていなかった。しかし、彼女は、コリント13章から愛の大切さを家族に伝え続け、愛に溢れた家庭を築いてこられ、最後にご自分の葬儀をキリスト教式にすることを願って召された。時代を超えて神様の愛は、ご家族にしっかりと届いていた。
いずれも教会に伝手(つて)がなく、葬儀直前にご家族がインターネットで私たちを見つけて司式を頼んでこられたが、それは偶然のことではなく、戦前の昔から積まれた祈りに、神様が応えてくださった故のように思う。
日々の働きを通して私たちが確認できる事実は、戦前といえども、この100年以内の出来事だが、考えてみれば、イスラエルからは東の地の果てになる日本は、はるか昔から祈りが積まれた国なのだろう。私たちが遣わされて体験している祝福は、それらの積まれた祈りの結果に違いない。
今から500年ほど前、フランシスコ・ザビエルによるキリスト教伝来から戦国時代にあった霊的覚醒においては、短期間に人口の5パーセント以上が信仰を持つに至ったが、この時代にも大勢の信者たちの祈りが積まれたに違いない。
1549年にザビエルが来日して以来、彼の滞在はわずか2年ほどだったが、信者の数は急激に増え、1570年ごろには、すでに信者は全国で3万人程度になっていた。さらに、1570年代後半に入ると、毎年1万人以上が洗礼を受けていったといわれている。情報伝達の難しい時代であることを考えると驚異的な速さである。
16世紀後半のキリスト教信者人口の増加率を実際の値より低い年間10パーセントとしても、その後迫害が起こらず、順調に宣教が拡大したとすれば、25年ほどで信者の人口は200万人を超えていたことになり、当時の日本の人口が2千万人程度であったことからして、全人口の10パーセントを超える人々が信仰を持つに至ったことになる。おそらく大勢の人々が全国の至るところで、まことの神様に向かって祈りをささげるようになっていったに違いない。
しかし、残念なことに、その後の200年間はキリスト教迫害の時代が続く。欧米の植民地政策を恐れる江戸幕府は、1612(慶長17)年にキリスト教禁止令を出し、仏教を国教とするための政策がとられたのである。キリスト教信者は、信仰を持っているだけで迫害の対象とされ、社会権利の一切を否定され、殉教者は20万人に及ぶといわれている。
キリスト教の歴史は殉教の歴史といわれるが、日本の中で行われたキリスト教信者への迫害は世界でもまれなほど悲惨なものだった。しかし、この迫害の中で信者たちは、まさに命を懸けた真剣な祈りをささげていたに違いない。彼らもまたこの日本を愛して祈りを積んでいった貴重な存在なのである。
明治以降、立て続けに戦争を体験していった日本の中でも、多くの信者たちが声にならない祈りを積んでいたに違いない。先ほど紹介した南方で遺書を書かれたお父様のような方が何人もおられたことだろう。彼らの祈りも天に届けられている。
私たちが祝福を届けようと出掛けるところは、実は、すでに多くの祈りが積まれた家庭なのである。祈りの結果として私たちは導かれているに違いない。そして、家族親族に受け継がれた祝福をさらに後の世代に伝え、新たな霊的な覚醒を日本にもたらすために、神様は熱心に用いてくださるのである。
日本宣教は、決して不毛の地への宣教ではない。確かに、いまだ十分な収穫は得ていないが、積まれた祈りの実がたわわに実る収穫期を迎えた地なのである。私たちは、地の果ての日本において神様が特別に備えてくださった収穫のための器(キリストの証人)であることを覚えたいものである。
「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります」(使徒の働き1章8節)
◇