宣教は、その地に寄り添うことから始まるが、寄り添うとは何か?どうやって寄り添うのか?など考え始めると、さまざまな課題に直面する。イエス様が寄り添ってくださったように寄り添うのが基本だが、実際には難しい局面が生じてくる。
世の中には、さまざまな慈善活動がある。多くのボランティアを斡旋(あっせん)する組織があって、常に人材を求めている。そのような中に入って、自分の歩幅で働いて感謝されるのは、確かに無難な寄り添い方かもしれない。もともと想定された結果があって、それ以上は求められないので、無理をすることもなく役に立つことができる。
しかし、広く一般の参加を募るボランティアをはじめ、組織的に行う慈善活動は、個人の深い心のうめきに届かないことが多い。かえって組織の常識や決まり事が解決の道を阻むことが多い。
私は、31年間の会社生活の中で、幾人かの心を病む人と巡り合った。何かと世話を焼いて何とか会社生活が続けられるよう助けてきたが、ある人から「最後まで助けられないのなら無責任なことはしない方がいい」という趣旨の助言をもらった。
私は、できることがあるなら助けたいと常々思っていたので、すかさず反論してはみたが、結局振り返ってみれば、最後まで寄り添って助けたと思えることはあまりなかった。
私の勤務先は自動車会社であったので、交通安全については随分厳しい側面があった。事故を起こすと警察よりも会社の取り調べのほうが厳しく思えた。まして、信号無視や飲酒運転などの法律違反があった場合などは、犯した社員に対する罰則も厳しいものだった。
ある時、私の部下が飲酒運転による加害事故を起こした。彼は、心を病んで休職を繰り返していた人物だった。彼が心を病んだ理由は定かではないが、会社の人間関係が大きく影響したことは間違いなかった。彼は普段あまり友人と交わることなく家に引きこもっていた。
その彼が、近くの店で食事をするようになり、店の人と会話をするようになったとき、私は大変喜んだ。私とだけ交わす会話から、社会との接点を持つようになったことがうれしかったのだ。ところがそれが災いして、飲酒運転による加害事故を起こしてしまったのである。
その事故が起こってから、社内の彼に対する扱いは一変した。社内のどこを見ても、彼を助けようにもどうにもならない大きな壁が立ちはだかっていた。結局、彼は諭旨(ゆし)解雇となり、会社を去ることになってしまった。
私は、彼が会社を去った後も寄り添いたかったが、次第にそれもかなわなくなった。私は、彼の上司になって寄り添うことを希望したが、上司でなくなったときには次第に遠い存在になってしまったのだ。私はその頃から、最後まで寄り添うための手段を考えるようになっていった。
私の長年の仕事は、企業における研究開発だったが、この仕事は、「現状の技術では、どうしようもないことを何とかすること」と言えるかもしれない。そんなことを30年以上も続けてきたこともあり、いまだ日本に存在しない「全ての日本人に最後まで寄り添う」仕組みをどうしても研究開発したくなった。
55歳で早期定年退職をした私は、この新しい分野における研究開発のため、全身をリフレッシュしようと聖書学校に入学した。新しい研究開発には、いつものことだが常識を塗り替える必要があった。そして、言うまでもなく神様の導きが欲しかった。
さまざまなアイデアが浮かんでは消えていった。そして、1つの方針がはっきりと見えてきた。その方針は、次の3つの内容で示される。① 人々がどんなことで寄り添ってほしいかを調べること、② 人々が受け入れやすい寄り添い方を作り上げること、③ 最適な人材を整えて派遣すること。よくよく考えると、クリスチャンの人材を用いた人材派遣業の形が見えてきた。
助けを必要としている人に最適な人材を送るという単純なことだが、人は自分で何を必要としているかを理解していない。潜在的な必要を探していくことから始める必要があった。そして、その必要に答える人材を教会の中から発掘して派遣するのである。
有り難いことに全国の教会には、神様の御霊を宿した素晴らしい人材がたくさんいる。情報を伝えただけで同じ思いになって寄り添ってくださる方がたくさんいるのである。私の会社には背後にたくさんの優秀な社員がいるのと同じだと思った。
ブレス・ユア・ホームと名付けたこの働きは、さまざまな寄り添い方を提案してきた。中でもキリスト教葬儀を通して寄り添ってほしいと願う多くの皆さんに、全国の牧師先生を派遣させていただいている。
他にも寄り添い方は多種多様に存在する。まだ会ったことのない有能な人材が全国の教会の中にはたくさんいる。私は、そのような方たちが最後まで寄り添える宣教の仕組みを日々研究開発している。
いまだ見えていないことが多いが、イエス様が最後まで寄り添ってくださるのだから、道は開かれるに違いない。
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