世界保健機関(WHO)が発表した2016年版の「世界保健統計」によると、2015年の日本人の平均寿命は83・7歳で、世界で首位だった。日本は統計をさかのぼることができる20年以上前から長寿世界一の座を守り続けている。平均寿命とは、ゼロ歳児の平均余命を示しているが、私の生まれた1950年代では、男性の平均寿命は60歳を超えた程度であったことからすると、当時の予想では、そろそろ私は寿命を全うする時期に来ていることになる。
しかし、この半世紀の間に、生活環境の改善によって日本人の寿命は著しく伸びた。高齢者が快適に生活できる工夫が至る所に見られるようになった。
一方、健康寿命という言葉をよく聞くようになった。いわゆる自立して生きていくことのできる寿命である。そして、この健康寿命と平均寿命の差が平均すると10年程度にまで伸びてきてしまった。つまり、誰かに助けてもらわなければ生活できない期間が否応なしに10年もやって来るのである。
教会も高齢化が進み、1人では教会に集えない人が増えた。教会内で支え合えればいいが、平均年齢の高くなった小さな教会では荷いきれない。しかも最近は、高齢になってから老人ホームに入居したり、子どもたちの身近に転居したりすることが多く、なじみの教会から遠く離れてしまう人が多い。
信者の葬儀司式を頼まれる際、「昔は教会に通っていたが、今はどこにも集っていないので司式をお願いしたい」と家族から言われることがある。信仰を守って召されたことには違いないが、寄り添う牧師のいない高齢の信者が、教会で祈られることなく天に召されているのは残念である。
私は母教会から遠く離れ、日曜日の礼拝説教を担っている特定の教会がない。そこで、高齢者に寄り添って、共に集う教会を週ごとに選ぶことが多くなった。高齢者の背景、体の調子や好みに合わせると、訪ねる教会の数が増えることになる。不自由さを抱える高齢者にとっては、全てに満足できる教会はないが、少しの助けで選択の範囲はかなり広くなる。
日曜日の午後は、高齢者施設に出掛ける出張礼拝が効果的だ。家族がそろって高齢になった親や祖父母を訪問する時と重なれば、高齢者のお部屋が家族礼拝の場になる。変化の少ないお年寄りのお部屋なので、小さな楽器を持ち込んで演奏することや、紙芝居やPC動画を準備して訪ねるのも良い刺激になって楽しい時間になる。
懐かしい歌を一緒に歌い、若いころの昔話を聞かせていただくのはうれしいことだ。弱さを支えてくださる神様に心を留め、ご家族の祝福を祈るとき、心を合わせてくださるご家族の祈りはとても温かい。
昨年のことだが、ある聖書研究の集いで知り合った若者の依頼で、老人ホームに入居されている100歳を超えるお祖母さん(Sさん)を訪ねた。日曜日の午後の訪問だった。高齢のため、ご自分で話すのは難しく、こちらからお話ししてもあまり反応がないので、その若者とベッドの傍らで賛美歌を歌い、祈りを重ねた。ベッドの脇に置かれていた若い時代の家族写真を見ながら、Sさんの生涯を思いやり、その人生を支えてこられた神様に心を向けていく時間だった。
何度か日曜日の午後に伺い、温かい礼拝の時を持たせていただいた。数カ月が過ぎたある日、Sさんは、いつもよりお元気そうに見えた。賛美歌を歌い、祈るときも目を合わせてくださり、優しい顔をしておられた。祈り終わって、あいさつをして帰ろうとすると、顔をこちらに向けてほほ笑んでくださった。私は初めて見たSさんの笑顔に、うれしくなって「また来ますから」と声を掛けたが、その週の中ごろ、Sさんは体調を崩されて突然亡くなってしまわれた。数カ月続いた小さなお部屋での日曜礼拝は、突然終わってしまった。
告別式はなく、霊安室から直接火葬場に向かうということだったので、私は出棺の時間の少し前に霊安室を訪れた。出迎えてくれた若者は、すっきりとした顔で「おばあちゃんは天国に行った」と言いながら棺のところまで私を連れていってくれた。他のご家族は、まだキリスト教に抵抗があるということだったので、棺の前で若者の肩を抱きながら、2人だけで感謝の祈りをささげた。私にとっては、最も小さなキリスト教葬儀の司式だった。
寿命が長くなり、弱さを抱えて生きていく時間は確かに長くなった。しかし、地上の生涯を終える時は突然にやって来る。その弱さの極みに寄り添ってくださるのは、命の源である神様ご自身だけだろう。しかし、私たちが土の器でありながら、人の弱さに心を留めるなら、神の器として天の栄光を共に拝する特権にあずかり、悲しみの中に大きな慰めと励ましを受け継ぐことになる。
年間140万に及ぶ人々が亡くなる日本の至る所から、寄り添ってくれる神の器を求める叫びが聞こえてくるような気がする。礼拝は日曜日の午前中に、慣れ親しんだ教会堂に集うことだけではない。むしろ教会堂に来ることのできない多くの方々の元に遣わされ、共に礼拝をささげる機会を持ちたいものだ。私たちが出向いて祈るべき場は、身近にたくさんある。
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