社会福祉法人キングス・ガーデン東京の主催によるサポートネットワーク第2回シンポジウムが18日、「『生きる意味』を考えるー孤独を超えて、生と死に向き合うー」をテーマに、日本イエス・キリスト教団荻窪栄光教会(東京都杉並区)で開催された。約200人が参加し、人間の尊厳や命の問題について、基調講演、パネルディスカッション、分科会を通して共に考えた。
「主に仕えるように高齢者に仕える」をモットーとするキングス・ガーデン東京では、住み慣れた地域で、誰もが自分らしく生き、豊かな最期を迎えられるよう、「サポートネットワーク」づくりのためのプロジェクトを2014年から行っている。シンポジウムは、その活動の一環で、第1回の昨年は「人材確保・育成」をテーマに扱った。
孤独とは何か、孤独をどう乗り越えるか
今回のシンポジウムでは、日本伝道福音教団鶴瀬恵みキリスト教会牧師で、ルーテル学院大学人間福祉心理学科非常勤講師などを務める堀肇氏が、「孤独を超えて生きる」と題して基調講演を行った。堀氏は、孤独とは何か、どのように乗り越えていけばよいのかを、学問的な意味を取り込みながらも分かりやすく語った。
人間は本来孤独な存在で、隠すことはできても、生きている限りその感情に揺さぶり続けられると堀氏は言う。孤独の源は、それぞれの人間が、別々の自分を生きており、互いの心の中に入って生きるようなことはできないことにあり、孤独とは、つながりが希薄になること、また断たれることによって生じる「一人ぼっちで寂しい」という感情だと説明した。そして、完全に孤独を癒やすことができるとすれば、それは神にしかできないことだと話した。
「人間はその人にしか分からない苦しみ方で苦しむ」。孤独は個別性、実存性が強いものだとし、堀氏は、自身の経験だけで他人の孤独を判断することの危険性を指摘した。また、神との関係である「縦のつながり」を強く意識する欧米に比べて、家族や隣人など「横のつながり」を大切にする日本では、普段感じる孤独感の度合いが大きいのではないかと語った。堀氏は、日本の近代的自我には孤独が横たわっていると言い、夏目漱石の小説『こころ』にあるテーマは、キリスト教に突き付けられたテーマと考えるべきだと語った。
こうした孤独を乗り越えるために、堀氏は「誰かに心の内を聞いてもらうこと」を提案した。この場合、聞き手はただ受け止めるだけでよく、話し手は、自身の思いを聞いてもらうことで、自分が受け入れられ、愛されているという感覚を持つことができ、時間はかかっても孤独の闇から抜け出すことができる。堀氏は、本当に親身になってくれる人と出会うことの大切さを話すが、孤独と孤独は引き合ってしまうという。聞き手も同じような苦しみによる孤独を体験している場合は、かえって傷付いてしまう場合もあることに心を留めてほしいと付け加えた。
また、孤独には、「一人ぼっちで寂しいという孤独(loneliness=ロンリネス)」と、「たった独りのかけがえのない存在としての孤独(solitude=ソリチュード)」があると述べ、同じ孤独でもその意味・内容は違うと話した。ソリチュードは、「たった独りで本当の自分になっている状態」を言い、さらに最も大切な側面は、「神とつながる世界」であること。祈りを通して、深い安らぎと希望を得ることができる世界でもあると説明した。
さらに、「私の魂よ。沈黙して、ただ神に向かえ。神にのみ、私は希望をおいている」(詩編62:6)を引用し、これこそがソリチュードが生み出す霊的世界だと語り、喪失感と孤独(ロンリネス)に襲われたとき、祈りと瞑想(めいそう)の中で寂しい自分としっかり向き合うならば、ロンリネスからソリチュードに向かうチャンスを得ることができると語った。そして、「ソリチュードの世界は、孤独を超えた孤独の世界であり、一人である者同士が共に生きるとき、質の高い共同体(コミュニティー)が形成され、それが真の意味で孤独を乗り越えさせてくれる」と話し、講演を締めくくった。
日本人の生死観、介護の当事者、看取りケア
パネルディスカッションでは、東京基督教大学教授で神学部長の大和昌平、いのちのことば社出版部編集長の根田祥一、筑波キングス・ガーデン総合施設長の宇都宮和子の各氏が登壇し、それぞれの立場から発題した。
「日本人の死生観から考える」のテーマで、教育者の立場から発題した大和氏は、京都で牧師を25年間務める傍ら、佛教大学で仏教学を研究したという経歴の持ち主。この日も日本人の伝統的な仏教的死生観について、日本人が共同体の中で死ぬことを非常に大切にしてきたことを述べ、日本人の精神構造の中にある「家制度」「祖先崇拝」といったことが、日本人の死生観に大きな影響を与えてきたことを話した。その一方で、家制度が崩壊し、「無縁社会日本」といわれる現代では、そうした死生観が変わりつつあることを指摘。無縁社会で死に臨む人に寄り添うキリスト教会の福祉の可能性や、縁をなくして死ぬ人への福祉としてのキリスト教葬儀の可能性について語った。
根田氏は、「家族の介護の当事者の立場から」というテーマで、特別養護老人ホームで義父が看取り介護を受けた経験から、家族として感じたことを中心に語った。その中で、施設の「順番待ち」については、言葉通りのものではなく、入所希望者の状態を見て判断してもらえることを話し、施設を利用する際には、施設をよく知っている人の適切なアドバイスが不可欠だと語った。また、義父が晩年入所したホームで、職員の笑顔や「声掛け」によってどんどん明るさを取り戻していったことなどを明かし、施設の違いは職員の質に大きく関係すると力を込めた。
宇都宮氏は、筑波キングス・ガーデンの看取りケアについて発題した。キングス・ガーデンの発祥の地である筑波キングス・ガーデンで、長年介護と施設運営に携わってきた宇都宮氏は、自身の母親が認知症を発症したとき、認知症の勉強がしたくて幼児教育の世界から介護の世界に飛び込んだという。「子どもにはない病気を母によって教えられ、おばあちゃんから施設の在り方を教わった」と話す。また、「介護の基本は、手と心」だと思っていると言い、「神様から頂いたこの手を、おばあちゃんが握って『ありがとう』と言ってくれる」「この手を握ってもらうことで、最後まで愛されていることを感じてもらいながら、天国へ送ることができたらと思っている」と話した。
パネルディスカッションの後、堀氏とパネリストの3人を囲んでの分科会が行われた。パネルディスカッションでの発題について、さらにその内容を深めた上で、参加者と意見を交わした。堀氏は、基調講演の内容をさらに一歩進め、「悲しみへの援助」として、グリーフケアの具体的な対応を語った。大和氏は、現代日本ではこれまで仏教一辺倒だった葬儀の形が変わりつつあることを具体的に説明し、地域におけるキリスト教会が葬儀をどう引き受けていけるかを語った。
根田氏は、実際に認知症患者の介護を行っている参加者に体験談を語ってもらい、その中で入所した施設によって利用者が良くも悪くもなってしまうことを話した。宇都宮氏は、介護という仕事を通して日々職員が利用者から得ていることを話し、現場で言われる「ありがとう」という5文字の言葉によって、職員がいかに支えられているかを述べ、介護の仕事の意義を参加者と共有した。
分科会終了後、総評として登壇したキングス・ガーデン東京の理事で、荻窪栄光教会牧師の中島秀一氏は、フィリピの信徒への手紙1章21節とガラテヤの信徒への手紙2章19~20節を引用し、世界がグルーバル化する一方で、個人主義が進み、個人の存在と命が軽く扱われていると述べ、今回のシンポジウムはそうした現代社会の中で重要な意味を持っていると述べた。
そして、日本を、命を最も尊い宝とする社会に変えてゆくために、他の宗教観を持った人とも理解を深めながら、キリスト教の考えを訴えていき、日本だけでなく世界全体が変わればと、思いを伝えた。さらに、命は神が与えてくださったものであると言い、「イエス・キリストを信じるならば、永遠の命を大切にするようになると思う。それが私たちの信仰であると思う」と語った。
第3回シンポジウムは、1年後の開催を予定している。