冠婚葬祭事業を始めてすぐに気付いた課題は、礼拝のある日曜日の司式対応だった。日本の冠婚葬祭は休日を利用して行われることが多いため、日曜日に牧師派遣を依頼されるケースが多い。せっかく未信者がキリスト教との接点を求めてきても、対応する牧師が圧倒的に少ないことは、すぐに予想のつくことだった。
最近キリスト教結婚式の司式に、牧師資格のない外国人が雇われていることがあるらしいが、日曜日に教会牧師が司式対応できないために、そのような傾向が生まれたのかもしれない。葬儀においても日曜日の司式はできないと明言される牧師が多い。牧師は日曜礼拝の説教奉仕があるのだからやむを得ないというのが一般的な考え方だろう。
葬儀社においても、キリスト教葬儀が日曜日になる場合、依頼者に無宗教式の葬儀に変更するよう勧めるケースもあるようだ。無宗教式になった場合、葬儀における宣教のチャンスが失われるだけでなく、その後の納骨式、記念会にも牧師が呼ばれない可能性が高く、家族親族への扉の1つが閉じられるようにも感じる。
クリスチャンが企画する冠婚葬祭であっても、未信者の家族親族を気遣えば日曜日開催の可能性が高くなる。仕事を抱える人にとっては、日曜日が最も都合の良い時になるからだ。私たちに依頼される納骨式、記念会は、ほとんどが休日に集中し、日曜日の依頼が多い傾向にあるのは当然だろう。葬儀の場合は、依頼者側が配慮して日曜日を避ける傾向にあるが、それでも火葬場の都合で日曜日になることは少なくない。葬儀は緊急を要するため、牧師を探す際には信仰が試される。
少し前の金曜日の夕方のことだった。関東のある男性から葬儀司式依頼の電話がかかってきた。亡くなったのは、フィリピン人である奥様の妹に当たる女性で、突然の死だったという。2日後の日曜日午前中に行われる告別式における司式依頼だった。短い会話の中で得た主な情報は、既に葬儀の日程は全て決まっていること、大勢のフィリピン人が突然の死に嘆き悲しんでいること、背景がキリスト教だが適当な司式者が見いだせていないこと、そして英語での司式を希望されていることなどだった。
金曜日の夜に依頼され、日曜日午前中が葬儀予定の場合、牧師を探すのは困難を極める。しかも今回は、まだ若い女性の突然死で多くの近親者が嘆き悲しんでいる中、英語でメッセージできる牧師の派遣を依頼されたのである。幾人かと相談してみたが、牧師を探すのが難しいと判断した私は、自分自身で司式対応すると決心し、祈りつつ慣れない英語の司式原稿を作り始めた。
しかし、準備を初めて間もなく、英語を使った司式の問題より、悲しみの中にある異文化のフィリピン人に寄り添えるのか?という大きな課題が私に重くのしかかってきた。私は司式準備の手を止め、英語で司式を行える牧師ではなく、「寄り添えるフィリピン人牧師を与えてください」と祈りつつ、幾つかの教会に電話を入れた。
金曜日の遅い時間から日曜日午前中に対応できるフィリピン人牧師を探すなど、かなり絶望的な状況に思えたが、短い時間の中で、主が最善のフィリピン人牧師に巡り会わせてくださった。状況を話すと、依頼者に連絡してくださり、翌日に現地で打ち合わせ、さらにフィリピンの親族にまで連絡をしてくださるなど、最善の対応をしてくださったのである。実に感謝な出来事だった。おそらく、葬儀の後も良い関係が続いていることだろう。
キリスト教会における日曜日午前中の礼拝は、教会の長い歴史の中で守られてきた貴重な習慣である。しかし、聖書の中で日曜日の礼拝を特別に勧めている箇所はどこにもない。最初のクリスチャンたちは安息日(土曜日)に集まったのち、日没から始まる「週の初めの日」、つまり日本では土曜日の夜に聖餐式を行っていたことが示されているだけである。日曜日は仕事に出掛けていたに違いない。教会に異邦人が増え、ユダヤ人の安息日に集う信者が少なくなったことで、日曜日午前中の礼拝習慣が生まれたのだろう。
忙しい現代社会では、日曜日の午前中は貴重な時間帯である。日本文化の中では家族の心をつなぐ貴重な時間といってもいい。冠婚葬祭の中で祈りを合わせてきた日本人にとって、日曜日の朝に家族で集まりたいと願うのは当然であろう。このような時間に、ほとんど全ての教会が礼拝を行っているということは、教会のソトに存在する日本人の交わりの場に、牧師も信徒もほとんどいないことになる。冠婚葬祭の司式者がいないのは当然である。
日曜日の礼拝は大切である。愛する人々の集まる教会で落ち着いて日曜礼拝をささげることができるのは幸せである。しかし、私は、求める声があるなら、教会のソトにいる人々に寄り添うことを優先したいと思っている。彼らと共に祈る集いも立派な日曜礼拝である。あのフィリピン人牧師のように、日曜日であっても、緊急の対応に心からの対応をしてくださる牧師が日本にも増えてくることを心より願っている。
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