お正月にからだの不調を訴えられ、近隣の病院を訪れたIさん(91)は、1週間の検査入院だけで帰れるはずだった。ところが、入院中にけがをされ、体調を崩された後は、日ごとに病状の悪化が進んでいった。やがてIさんは、身動きの取れない病院のベッドで治療を続けるよりも、ご自宅に帰ることを強く望まれ、ご家族も同じように訴えられた。
病院は病気を治療するところだが、残された時間を有効に使うためには不都合なこともある。多くの条件が整わなければ退院はかなわないことだが、神様の備えによって祈りながら退院をお手伝いすることになった。ブレス・ユア・ホームにとって初めての在宅ターミナルケアのサポートだった。
住み慣れたお部屋に戻られてから、天国に召されるまでわずか12日間しかなかった。しかし、その間に神様の与えてくださった祝福はかけがえのないものだった。中でも、共に寄り添った奥様と姪御様が、これら試練の中で信仰を持つ決心をされたのだ。
お2人とも聖書の内容はほとんど理解されていなかったので、子ども用の紙芝居を用いて福音を短くお伝えしたが、既に天に召されようとするIさんと同じ信仰を持ち、同じ立場になることを強く望んでおられたので、喜んで福音を受け入れていかれた。
お2人の洗礼式は、Iさんのベッドのあるお部屋で持たれた。もう起き上がることのできないIさんだったが、できる限りの準備をお手伝いした。長年親しく交わった教会の愛する兄弟姉妹が大勢お祝いに来てくださり、お部屋がいっぱいになった。入りきれない人々は玄関にまで溢れ、皆その場で心から主を賛美し、祈りをささげてくださった。いつもは静かな高齢者用マンションの廊下に美しい歌声が響き渡った。
篤(あつ)い信仰をお持ちのIさんなので、何十年もご家族の救いを待ちわびてこられたに違いない。弱さの極限にありながら、力の限りしっかりと目を開け、手を合わせて感謝を表された。大きな試練の中にあるご家族が、神様の恵みによって導かれ、心を合わせて祈っておられる様子に、集まった皆さんが感動の涙を流した。
ご家族、ご友人、教会の皆さんだけでなく、医師、看護師、ヘルパー、ボランティア、ご近所の皆さんや、マンション管理の皆さん、関わってくださった多くの皆さんが、天を目指して残された時間を精いっぱい生きようとされるIさんを支えてくださった。彼らは未信者でありながら、私たちの祈り心に心を合わせてくださった。
死という最後の大仕事をされるIさんに寄り添うことは、Iさんに心を寄せる全ての人と心を通わせることになる。弱さを抱えるIさんの手を取って祈るとき、初めてお部屋を訪れてくださったボランティアの方であっても、神様の臨在の中で祈り心へと導かれていく。
一切の治療のできないときでも、人は祈りによって互いに癒やされていくのだ。Iさんを支えるつもりであった私たちだったが、自らが日ごとに励まされていることに気付かされる日々だった。
体格の良いお年寄りだったが、本当に弱く小さくなっていかれた。しかし、ほほ笑みながら、神様に抱かれて「それじゃ、天国で待っているから・・・」と手を振ってくださっているかのように、12日目の朝、Iさんは静かに召されていった。悲しみの中にも、天に宝を積んだ方の最期は清々しい旅立ちの朝だった。
賀川豊彦先生をこよなく慕ってこられ、その遺志を引き継いで来られた方なので、きっと天国でイエス様と賀川先生に出会って喜んでおられるに違いないと、悲しみの中にも強い確信と感謝な思いをご家族と分かち合うことができた。
「死」という避けられない通過点をどのように迎えるかは、私たち人間にとっては大きな課題である。弱さの中に神様は現れてくださるのだから、その弱さに寄り添うことは、神様の素晴らしさを知ることになる。大切な方を天国に送ることはつらいことだが、そのつらさを慰めて余りある希望と祝福が、寄り添った人々には注がれていく。そしてその祝福は、残された者たちに受け継がれていく。
Iさんが召されてもう1年半が過ぎた。ご家族とは、その後もずっと良いお付き合いをさせていただいている。納骨式、記念会の節目で共に祈らせていただいているだけでなく、お元気なころのIさんの懐かしい思い出を語り、天国に思いをはせる日々が続いている。
Iさんを支えるために集まってくださった神戸のボランティアグループとは、地域の高齢者の皆さんを対象に、看取りを含む終末期ケアサポートの働きを目指し、「エンディング座談会」を始めた。
祝福は、確かに受け継がれている。
「あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです」(Ⅰペテロ3:9)
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