2011年9月、残された人生を日本宣教にささげる決心をした私は、長年勤務した自動車会社を55歳で早期退職し、全寮制の神学校(関西聖書学院)に入学した。そこで私は、大勢の若い献身者と共に、それまで経験したことのない落ち着いた生活をすることになったが、神様はそんな私に進むべき道をはっきりと語ってくださった。
日本の津々浦々にまで福音を届けるため、日本文化の中に影響を与えたいと常々願っていたが、日本の伝統的な冠婚葬祭の場を利用して宣教を拡大するビジョンが与えられた。教会牧師を目指して献身したはずだったが、未信者に幅広く用いていただくため、ブレス・ユア・ホーム株式会社設立へと導かれていった。
神道や仏教のもとで行われてきた冠婚葬祭を、牧師主導で行う仕組みを作り上げることを目標に、会社案内やホームページを作成し、広報を始めてみた。しかし、当然のことだが、習慣のない新しいキリスト教の冠婚葬祭を依頼する人はほとんど現れなかった。
数カ月がたった頃、キリスト教葬儀の司式依頼が予期せず入り始めた。葬儀司式は地域の牧師が担っていると勝手に思い込んでいたが、教会に集っていない信者や未信者からの依頼が寄せられた。彼らには司式をお願いできる牧師が身近にいなかった。
故人がキリスト教に触れていたという理由だけで、キリスト教葬儀を希望する方もいた。故人の気持ちを大切にしたいと願う、残された家族の優しさである。参列者のほとんどが聖書になじみのない未信者という中で、天国の希望をお伝えできる道が開かれていった。
さらに、葬儀の事前相談が契機となり、生前から定期的に訪問する機会も与えられるようになった。そばに寄り添って話を聞かせていただくだけの訪問だが、弱さを担って生きる高齢者に寄り添ってくださるのは、実は主ご自身であることを知り、大きな励みになっていった。
葬儀の前後は、慰めと励ましを最も必要としている時である。召される方とご家族にそっと寄り添い、天の神様に祈りを取り次ぐ牧師は貴重な存在になる。死に直面した飢え渇いた魂にとって、背後にある形だけの宗教は何の助けにもならない。共に天を見上げる信仰だけが求められている。
昨年のお正月、当社と同じ地域にお住いの91歳になる知人の男性(Iさん)が体調を崩された。お正月でも開いている病院を探されていることを耳にした私は、早速地元の病院の救急窓口をご紹介し、一緒に出掛けることになった。診察の結果、担当の医師から、「特に異常はなさそうだが、高齢なので検査入院してはどうか」と勧められ、Iさんはそのまま入院することを希望された。私はご自宅におられる奥様にそのことをお伝えし、大変感謝されて帰宅した。私にとっては、高齢者夫妻へのちょっとした手助けだけのつもりだった。
その後1週間がたち、もう退院された頃かと病院を訪ねると、Iさんの状況は一変していた。環境変化の中、廊下で転んでけがをされ、軽い脳梗塞を発症、さらにご自身にがんが発見されたことやご家族の心配事などで、座っていることもできない状況になっていた。その後も病状の悪化は続き、ついに食事もできなくなり、点滴と口から胃に管が通され、手は動かないように吊るされてしまった。
日ごとに病状が悪化する中、「家に帰りたい!」というご本人の叫びと「帰してあげたい!」というご家族の声が日増しに大きくなっていった。病院で延命するよりも、短くても自分の家で良い時間を過ごし、家族に守られて天国に召されたいと願う気持ちはよく理解できた。
家に帰るためには、在宅でも診られる医者と訪問看護師、ヘルパー、ボランティア、家政婦などを探す必要があった。神戸のような都会では探せば見つかるものだが、24時間体制となると、それらに加えて、ご家族を助ける「寄り添う人」が不可欠だった。
「寄り添わせてください」と始めたブレス・ユア・ホームにとって、大きなチャレンジの時だった。私たちの会社のことを知ったご家族が「仕事で寄り添ってください」と申し出てくださり、祈りつつ退院をお手伝いし、ご自宅に通うことになった。
慣れ親しんだお部屋に戻られたIさんには、安堵の表情があった。病気を治すためにつながれていたチューブ類は全て除かれ、点滴の回数も減らされた。お部屋でも医療行為ができるようにスペースを確保し、医者や看護師が定期的に訪れて対応した。弱っていく体を治療しようとする病院の環境から、残された時間を大切にする住み慣れた環境に移して差し上げることができた。
お部屋では、賛美歌のCDを繰り返し流した。既に信仰を持っておられたので、お好きな賛美歌が流れると手を挙げて祈りをささげられるようになった。身動きの取れなかった病院のベッドとは違う温かい空間の中、手を取って祈ると、うなずきながら時には涙を流された。苦しそうな顔つきは消えていったが、弱さの極限に向かって時間がゆっくりと流れ、神様の臨在がお部屋を覆っていった。
「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」(Ⅱコリント12:9)
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