「あなたがたはどう思いますか。もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。そして、もし、いたとなれば、まことに、あなたがたに告げます。その人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません」(マタイの福音書18章12~14節)
99匹を選ぶか、迷える1匹を選ぶか、という観点でこの聖書箇所を考え出すとよく分からなくなるところだが、実際に迷える1匹のために時間と心を集中させることができるか、と自問してみると、その難しさがよく分かる。残される99匹のことは放っておけないのが常だからだ。
昨年10月に私の母教会の宣教師が天に召された。25年以上もお世話になり、信仰を導いてくださった方だ。昨年6月に久しぶりに訪問した際、国内宣教師として私に按手をしてくださっただけに、もう少し宣教師の模範を見させていただきたかった。語り尽くせない懐かしい思い出があるが、彼の後ろ姿を思い出すと、先ほどの聖書にある1匹の羊を捜しに行く羊飼い(イエス様)の姿が重なってくる。
彼の葬儀は、市民クリスマスでなじみのある広い会場で執り行われたが、クリスマスより大勢の人が集まったように思う。多くの人が別れを惜しみ、涙を流していた。私とは面識のない人もたくさんいたが、私と同じように彼を慕い、彼のことが大好きだったに違いない。
彼が多くの人々に慕われていた理由ははっきりしている。それは、私も同じことだが、かつて迷える1匹の羊だったとき、彼が捜しに来てくれたことをしっかりと覚えているからだ。そして、もし再び迷ったときには、彼は99匹を置いてでも捜しに来てくれると信じていたのである。
当然のことだが、彼は神様ではないので、大勢の人を迷える羊のように扱えるわけがない。実は、私も含めて迷っていない大半の時には、放っておかれる99匹の体験をすることがある。彼が迷った1匹を追いかけて出掛けてしまうときには、予定していたことはうまく進まず、後始末に追われることになるのだ。私が懐かしく思い出す彼の後ろ姿は、私たちを置いて出て行こうとする姿なのかもしれない。
しかし、たとえ置いていかれても、後始末に追われたとしても、私は彼の後ろ姿が懐かしくてたまらない。彼の向かおうとするところには、弱さや貧しさが満ちていて、神様の哀れみがいっぱいに注がれていたからだ。だから、いつの間にか私も一緒に出掛けてしまうことがあった。彼の後を追って出掛けたホームレス伝道や老人ホーム伝道も懐かしい思い出である。
私は、長年大企業で世界標準の技術を生み出す仕事をしていた。どのような働きや技術でも、標準的に使える仕組みがなければ普及することはない。そう考えると、迷える1匹より100匹全体を考えてしまいがちなのだ。福音を日本の津々浦々に伝えるためにも、宣教の仕組みが必要である。私はその仕組みづくりに今は没頭している。
しかし、仕組みはあくまで道具であって、福音を伝えるのは心を動かされた人である。イエス様が弱さを抱える人々に寄り添ってくださらなければ、あるいは、福音を携えて出て行く宣教師の後ろ姿を知らなければ、どんな道具も使いものにならない。
私の母教会は、大切なリーダーを失って寂しさを覚えているに違いない。親しい教会の皆さんと慰め合いたい気持ちが溢れてくる。しかし、彼の後ろ姿に感動した人々が集まる教会は、1匹の羊を捜し求めるイエス様を見失うことはないだろう。そして、それぞれの立場で彼の足跡に従う人々がいることだろう。
現在私は、母教会からは遠く離れ、宣教の仕組みづくりに日々忙しい毎日を送っている。しかし、今日も全国各地から、まだ会ったこともない弱さを抱えた人々が、ネット検索から私たちを見いだし、電話やメールで助けを求めてくる。
1匹の羊を捜し求める真剣な戦いがその時から始まる。状況を引き出し、寄り添い、最善の策を練って行動に移す。極めて忙しい毎日の中に入る依頼者の声が、その時に抱えている全ての予定を狂わせる。しかし、寄り添って出掛けていく先には、間違いなく神様の祝福が満ちているのである。
もちろん対応し難いことはたくさんある。しかし「ためらわずに寄り添いなさい」と神様はいつも語ってくださっているように思う。私たちがその言葉に従って出て行くなら、残された99匹の羊たちは、きっとその後ろ姿を見て、イエス様の足跡に従うようになってくれるだろう。置いていかれる99匹は、実はイエス様の姿を見いだす幸せな羊たちなのである。
日本宣教は放っておかれた羊たちが担うのかもしれない。
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