聖書の中には「永遠の命」「天の御国(天国)」といった表現が何度も用いられ、神様を信頼することにより、恵みによって与えられる永遠の希望が明記されている。短い人生に閉じ込められている人間にとっては、実に大きな希望を与えるメッセージである。
日本の多くの人々はキリスト教に触れていることもあり、「天国」という言葉をよく使う。死んだら誰でも「天国」に行くものと当然のように考えている人もいる。しかし実際、この世のさまざまな醜いもの(罪)を背負っている人間が、死んでそのまま「天国」に行ったとしたら、「天国」が穢(けが)れてしまうだろう。「天国」は神様の聖さが満ちているところのはずである。
聖書は、罪深い人間が信仰によって赦(ゆる)され、清められて「天国」に召されていくことを実に詳しく取り扱っている。キリストが人として生まれ、罪人の身代わりとなって死に、葬られ、3日目によみがえったという歴史の記録は、「永遠の命」「天の御国(天国)」への希望につながる重要な根拠として扱われている。
しかし、聖書の内容がいかに論理的かつ明快であっても、人が亡くなったとき本当にその「天国」に行ったかどうかは、誰にも分からないことである。もちろん生前、神様を信じ、「永遠の命」の喜びを実感しているような信仰者については疑う余地はないが、大抵の人はそれほど熱心な信仰生活を送っているわけではない。信じているかどうかさえ誰にも判断がつかないことなのだ。
私のもとに寄せられる葬儀依頼のほとんどは、教会とつながりのない家庭からである。故人がキリスト教に触れていることには違いないが、信仰を持っていたかどうか分からない場合が多い。つまり、「天国」に召されたかどうか確信が持てないのである。
一方、遺族の悲しみは、いずれの葬儀でも大きなものだが、特に突然の死や幼い命が失われた際には、計り知れない悲しみが家族を覆っている。葬儀を挙げる際の悲しみもひとしおだが、その後もつらい日々を送っておられる方が少なくない。そのような方にとって、召された大切な人と天国でもう1度再会できるかどうかは重要な関心事になる。
先日、突然の交通事故で娘を亡くされた年配の女性から、記念会の依頼を受けた。1年前に実家の宗教である真言宗で葬儀を挙げられたが、その後知り合ったクリスチャンに勧められ、キリスト教に触れ、当社に連絡を下さったのである。
お話を聞く中で、悲しみを堪えきれずつらい日々を送っておられることが分かってきたので、何度かご自宅を訪問してお話を伺い、祈る機会を持つことにした。当初、私は亡くなられた娘さんが信仰生活を送っていたわけではないので「天国の希望」を語ることを躊躇(ちゅうちょ)していた。
しかし、ご家族の悲しみの深さを知っていく中で「天国の希望」を共有する必要を強く感じ始めた。たとえ教会に行ったことがなくても、信仰を告白していなくても、神様は私たちよりはるかに大きな愛をもって寄り添ってくださっているはずだから、私たちの知らないところでご自身を現してくださったに違いないと思うようになっていった。
そんな中、記念会の準備で昔のアルバムを調べておられた依頼者の女性から、突然のメールが入った。アルバムの中から亡くなった娘さんが、幼いころ日曜学校のクリスマス会で天使の役をしておられる写真が見つかったのである。
普段なら見過ごしてしまう写真であったが、大切な娘さんが神様に覚えられていた証しとして涙ながらに私にそれを見せてくださった。何十年も前の写真である。されどこの時すでに、神様の子どもとして召していてくださったことを期待させるものだった。
記念会は数人のご親族と共にご自宅で行うことになった。私は、失われた人を捜すために来られたイエス様の熱心さを紙芝居で伝え、「アメージンググレイス」の歌を紹介して「天国の希望」を皆さんと分かち合う時を持つことができた。
確かに未信者家庭に寄り添い葬儀や記念会を行う際には、言葉を慎重に選ぶ必要がある。天国に召されたかどうかは、牧師が語ることではない。しかし、天の位を捨て置き、人の子となり、私たちの罪を背負って十字架で血を流してくださった主が、私たちが及ばなかった迷える人々に、直接救いの手を差し伸べてくださったと期待することはできるはずである。
私たちは、これからも多くの未信者家庭からの葬儀依頼に応えていくことになる。深い悲しみの場面に何度も遭遇することになるだろう。しかし、神様は残された遺族をこよなく愛し、深い慰めをもって「天国の希望」を示してくださるに違いない。それこそが残された者たちにとっては唯一の希望なのだから、自らの襟を正し、死に打ち勝ったイエス・キリストの権威をもって寄り添いたいものである。
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