年を重ねると、認知症でなくても物忘れが激しくなる。仕事柄、多くの人に関わるようになったが、出会った人の名前をすぐに忘れてしまうのは困ったものだ。
私は、かつて気に入った聖書箇所を、時々声に出して暗唱していた。生涯忘れるはずのない聖句だった。ところが先日、久しぶりに声に出そうとしたが、途中の1節がどうしても思い出せなかった。
聖句を忘れたなら、聖書をもう1度読み返せばいい。しかし、それだけで済まないこともある。30歳直前に信仰を持った私は、その後の30年以上の信仰生活を通し、創造主の存在を普段から意識できるようになってきた。しかし、今でも「神などいるはずがない」と思っていた若い時代の感覚を覚えている。そして、その感覚がまれに襲ってくることがある。
加齢による物忘れは、近い記憶から影響を受けるようだが、かなり高齢まで私が生きるとすると、信仰生活によって得てきた感覚が消え、若い時代に持っていた無神論的な感覚だけが残ってしまうのかもしれない。そうなったとき、私の信仰はどうなってしまうのだろうか?
昨年、私の祈りの友が天国に凱旋(がいせん)した。友といっても私より40歳も年上で、100歳での大往生だった。人生の大先輩であるが、信仰を持たれたのは、退職された後の60歳ころだったとお聞きしていた。
30年ほど前のことだが、毎日、早天祈祷会でともに祈っていたことがあった。その頃の彼は、熱心に聖書や信仰書を読み、祈りは時に激しく、時に厳しく、まるで説教を聞いているように思うこともあった。ご家族にも信仰を熱心に勧めておられた。
あまりの熱心さから、信仰生活に対して厳しい側面があり、ご家族は彼の信仰にあまり触れようとせず、教会に来られることも少なかった。私が訪ねて行っても、ご家族は退席されることが多かった。
その彼が90歳を過ぎた頃より、持ち前の厳しさが消え、聖書や信仰書を読むことも、熱心に祈ることも少なくなっていった。ご家族への信仰の勧めもなくなっていったようだ。
そうなると、今度はご家族の方が心配になられたのだろう。ご子息より連絡が入り、「父の信仰を支えてやってほしい」と言われたのである。
私がご自宅を訪問すると、私のことは覚えていてくださったが、かつての熱心な様子はなく、信仰に関わることには興味がないだけでなく、ご自分がクリスチャンであることも忘れておられるようだった。
しばらくお交わりをし、聖書の紙芝居をさせていただいた。するとキリストの降誕や十字架、復活などの子ども向けの紙芝居を、まるで初めて聞いたかのように興味深く聞いてくださった。心開かれた求道者に個人伝道をさせていただいているようだった。
紙芝居が終わり、私から祈らせていただいた直後のことだった。驚いたことに、間髪を入れず彼が祈り始めたのである。誰の勧めもない中、日毎の祈りの延長のように実に自然な心のこもった祈りだった。
神の御霊が彼の内に宿り、忘れてしまった祈りの言葉を授けてくださっていた。確かに高齢になり、信仰生活によって得た記憶は失われたが、内住の御霊が神の子どもとしての保証を継続してくださり、祝福が注がれていた。
その後、何度か訪問させていただいたが、ご家族を通し、主が、増し加わる弱さの中で彼を支えておられる様子を見ることができた。そして昨年、100歳を過ぎてお会いしたときには、優しくほほ笑んでくださるだけで、もう彼の言葉を聞くことはできなかった。
彼の表情は優しさで満ち、既に神様の御手の中におられるようだった。そして、手を取ってささげた祈りが、ともに祈る最後の時となった。私にとっては実に有り難い祈りの友、そして人生の大先輩だった。また天国でよいお交わりをさせていただこうと思う。
「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう」(イザヤ46章4節)
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