部屋の周りをウロウロしていると、先ほどの背の高い修道士が近づいてきた。「怒られるっ、怒られるっ!」と思いながら・・・。
「私はA修道士です。あなたのお名前を教えてください」
写真を撮っていたことを怒られるかと思ったが、優しい眼差しでそう言った。私は「ニコラウスです。日本から来ました」と伝えると、「素晴らしいですね。よくいらっしゃいました」と、「ここまでどれくらいかかるのですか。地震は大丈夫でしたか」など、矢継ぎ早に質問をしてきた。
そして、彼は、私のカメラを指差し、「カメラを持っていますね。写真を撮りに山に登りませんか。絶景をご案内します」と言ってきた。
一瞬、修道士からまさかそのような提案を受けるなんて、ましてや今初めて会ったばかりであったため驚きが勝り、一瞬返す言葉が見つからなかった。さらに、A修道士は崖を指差し、「1、2時間で周れますよ、ぜひ行きましょう!」と、こんなチャンスはなかなか無い、当然行きたい気持ちもあり、勢いよく、「ぜひ、連れて行ってください!」と返答した。
「支度をしますので、30分後、ここに来てください」と約束をし、こちらもカメラやレンズを準備し、軽装にして向かった。
30分後、A修道士と約束の場所で再会した。近くの倉庫へ連れて行かれ、木の杖を渡された。A修道士は中国の知り合いからもらったという、傘の帽子を被り、「それでは、参りましょう!」と、驚きの、基本変わらない修道服のみのスタイルである。そして、彼はうれしそうに山道の入り口まで案内してくれた。
するとすぐに崖となり、そこをちゅうちょなく登り始めた。初めは緩やかでなんとかなったが、次第に急峻(きゅうしゅん)になり、岩と岩に足を掛け、到底山登りなんて言えない道なき道を進むことになったのだ。
しかし、その道なき道というのは、必ず人1人歩けるようにならされており、場所によっては、軽く整備されていたり、不自然に岩が積まれて避けられていたりしていた。
先ほど、車で舗装された道を通り、この修道院へ来たが、その昔、整備されていない時代に、修道士たちが各修道院を行き来するのにきっとこの道を通っていたのであろうと思った。
そう思うと、修道士たちは本当に健脚で体力があったのだと感じる。すでに、その時には額や顔中は汗にまみれていた。この道を通ることで、昔の修道士の気持ちに近づける。あの村上春樹氏の『雨天炎天』にも書かれていた厳しい日々を連想させる道。そんなことを感じながら、何か同じ気持ちになり不思議と高揚感を感じ、崖を登っていたのである。
A修道士は、「次はここに足を掛けます。こちらの方が緩やかですよ」など、通り慣れた道を丁寧に教え、先導してくれた。
次第に空が近くなる。そして、ふと修道院の方に目をやると、これまで見たことのない、シモノスペトラ修道院を見下ろす位置までやってきた。大きな海原もはるか下に見え、悠然としたアトス山を同じ目線に感じるのは初めてであった。
せり出した岩に飛び移り、「ここは絶景ポイントですよ」と手を取って案内してくれた。その位置は、思わず息をのむほどの絶景だった。修道院と海、アトス山と豊かな緑、目で見えるすべてが美しく、こんなに気持ちの良い瞬間を感じたことがないくらい感動した時間であった。
とにかく夢中でシャッターを切っていたが、父が私を後ろから撮った写真を見ると、何とも恐ろしいところに自分はいたのだと驚きであった。
約2時間に及ぶA修道士の絶景ツアーは危険いっぱいの山道ではあったが、今回の旅の目標でもあったシモノスペトラ修道院の景色を収めるという達成に導いてくれたのであった。
まさか、修道士自身から撮影ポイントを教えてもらうなんてみじんも思っていなかったので、彼には感謝をしてもしきれないほどである。
別れ際、本当にありがとうございます、と言って別れたが、彼には、この時だけではなく、2度も助けられることになるのである。
それが、翌年、降誕祭の時に予約をせずにシモノスペトラ修道院に向かった際、バスの運転手で私たちの願いを受け入れてバスに乗せてくれたのが、このA修道士であった。
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彼のおかげで、絶景の写真も撮れたし、降誕祭の撮影も実現できたのである。不思議なことに、その後何度となくアトスへ向かうが、毎回いろいろな場面で彼と会うのである。
汗だくで山を降りた。水道橋から直接流れるアトス山の水を勧められて飲んだ。乾いた喉をキンキンに冷えた水が通る。透明度も高く、修道院に流れるその水を、彼らはフレッシュウォーターと呼んでいる。清く美しきその水は、達成感も混じり、本当に格別な味であったことは今でも忘れられない。
次回配信予定(5月13日)
次回は番外編で、4月24日に大妻女子大学で開催されたアトスの講演会と写真展の様子をお知らせします。
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