誠実を愛するという言葉には、2つの意味が込められています。すなわち「他人を赦(ゆる)すこと」と「他人を憐れむこと」です。私たちは、憎しみに覆われた世の中を生きています。他人を罠(わな)にかけ、ひがむのに余念のない人々で満ち溢れています。他人を褒める言葉はほとんど聞くことができず、非難する声ばかりが聞こえてきます。
映画「34丁目の奇跡」の中では、あるサンタクロースがデパートを広報する仕事をしながら、そのデパートにない品物が競合関係にあるデパートにあると話す場面が出てきます。互いにライバル関係にあった2つのデパートはサンタクロースによって心を開き合い、結局争うことなく互いに和解し、助け合う仲となりました。
これこそが、キリストがこの世に来られた目的です。互いに助け、愛によって1つとなることこそ、主に従う弟子の生活です。キリスト者なら、自分の人生において愛を実践することでイエス・キリストを現さなくてはなりません。まことの義人とは、キリストの愛をもって常に与える人です。
「この者は一日中、自分の欲望に明け暮れている。しかし、正しい人は人に与えて惜しまない」(箴言21:26)
「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから」(マタイ5:7)
イエス様は敵までをも愛し、赦すようおっしゃいました。
「ただ、自分の敵を愛しなさい。彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いはすばらしく、あなたがたは、いと高き方の子どもになれます。なぜなら、いと高き方は、恩知らずの悪人にも、あわれみ深いからです。あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい」(ルカ6:35、36)
私たちは、自らの力では自分を傷つけた者たちを赦すことができません。「赦す」と話す瞬間にも、胸の中には怒りと憎しみが満ちています。また、自分が弱くなってしまったときは、まるで雨が降った後で芽が顔をのぞかせるかのように、心の中を再び古傷が占領してしまいます。それで私たちはイエス様の助けを切に願わなければなりません。まことのキリスト者は赦すことができなくてはなりません。赦しは愛の最高峰であり、完成であるからです。
病院に見舞いに行くと、多くの患者さんたちに出会います。私たちの周りに何と患者さんが多いことか、絶え間なく入院してくる患者さんで病室が足りないほどです。その中には、誰かを心の中で赦せなくて病気になった人もいます。赦せないと、自分自身をも害してしまうのです。互いに赦し、愛し合いながら生きていくのが主の御旨です。
「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです」(Ⅰヨハネ4:18、19)
ある田舎の教会で起きた驚くべき証しがあります。その教会は、聖徒の間で争いの絶えない教会でした。教会を担任していた先生は、主日にも胸を痛めつつ、礼拝をささげるために自宅から教会へと向かっていました。ちょうど、末の息子が教会学校を終えて教会から出てくるところでした。黒色のみすぼらしい服を着て、穴の開いた靴下を履いた息子の頭を撫でながら彼は言いました。
「鐘を打つ時間なんだけど、父さんが鐘を打ったら礼拝時間に遅れそうだから、おまえが打ってくれないか」
「分かったよ、父さん」
教会には多くの聖徒がいましたが、時間に合わせて鐘を打ってくれる人はいませんでした。父親に頼まれた息子は、喜んで鐘を打ってから家の方へと走っていきました。ところが、スピード違反の米軍部隊の車に轢かれ、その場で亡くなってしまいました。先生はそんなことも知らず、礼拝をささげ続けました。
説教の真っ最中に、何人かの聖徒が早く説教を終えるようにとの合図を送りました。なぜだか知らないけれど、その瞬間不安に襲われました。礼拝を終えて行ってみると、息子が車に轢かれて亡くなったという話が伝えられました。間もなく、米軍部隊の将軍が副官たちを引き連れてやって来て赦しを乞いました。
「先生、うちの運転兵の過失でこんなことになってしまいました。赦してください。私たちが全力を尽くして補償したいと思います。どうすればいいか、お話しください」
聖徒たちは絶対赦してはならないと、補償金をたくさんもらわないといけないと言いました。しかし、先生は涙を呑んでこう言いました。
「将軍、私の息子が死んだのは将軍の部隊の運転兵の過失のせいではありません。人の命は神様に委ねられていますから、神様が許されたことなのです。神様が私の息子を連れていったのですから、あまり心配しないでください。そして私の息子を轢いた運転兵を叱責しないでください。過失なんですから、懲罰を与えないでください」
米軍部隊の将軍は感激しました。
「なんと!こんな尊い方がいるとは。こんなにも、かぐわしい香りを放つ神の人がいるとは・・・」
そこにいた全ての人々も感動を受けました。将軍は部隊に戻って参謀たちを集めて先生の言葉を伝え、部隊でどうすべきかを相談しました。参謀たちは古い教会を新しく建て直してあげるのはどうかと言いました。それで、その米軍部隊は教会を取り壊し、そこに美しい教会を建築しました。
聖殿の奉献式には、この噂(うわさ)を聞いた総会と地方会の役員をはじめとする多くの人々が参加して黒山の人だかりとなり、皆で奉献礼拝を熱くささげました。礼拝の最後に、担任先生に教会の鍵を渡す時間がありました。ところが、鍵を持って講壇に上がろうとした長老が途中で立ち止まって、ぶるぶる震えながら泣きました。先生は言いました。
「長老さん、早く上がってきてください」
それでも彼は動かずに、依然として泣いてばかりいました。
「長老さん、どうぞこちらに早く上がってきてください」
「先生、私はここに立つ資格もなく、先生に鍵をお渡しする資格もない者です。私は長老ですが、教会のリバイバルや聖殿建築のために働くどころか、けんかばかりしていました。私たちの代わりに先生の息子が犠牲のいけにえとなって教会が建てられたのに、こんな私がどうやって先生に鍵をお渡しできるでしょうか」
担任先生も泣き、全ての聖徒が泣き、お客さんたちもみんな泣きました。担任先生は講壇から下りて、泣いている長老の肩をしっかりと抱きしめました。その後、教会は尊く美しい実を結ぶ教会へとリバイバルしました。
私たちが人々に感動を与えられない理由は、主の愛を実践する人生を生きられないからです。私たちが主人となって権利ばかり主張しながら生きるから、愛と感動を与えることができないのです。
(イ・ヨンフン著『まことの喜び』より)
*
【書籍紹介】
李永勲(イ・ヨンフン)著『まことの喜び』 2015年5月23日発行 定価1500円+税
苦難の中でも喜べ 思い煩いはこの世に属することである
イエス様は十字架を背負っていくその瞬間も喜んでおられました。肉が裂ける苦しみと死を前にしても、淡々とそれを受け入れ、後悔されませんでした。私たちをあまりにも愛しておられたからです。喜びの霊性とは、そんなイエス様に従っていくことです。イエス様だけで喜び、イエス様だけで満足することを知る霊性です。神様はイエス様のことを指し、神の御旨に従う息子という意味を込めて「これは、わたしの愛する子」(マタイ3:17)と呼びました。すなわち、ただ主お一人だけで喜ぶ人生の姿勢こそが、神の民がこの世で勝利できる秘訣だということです。
(イ・ヨンフン著『まことの喜び』プロローグより)
お買い求めは、全国のキリスト教書店、アマゾンまたはイーグレープのホームページにて。
◇