靴を脱ぎなさい・その2
「昔、イスラエルでは、買い戻しや権利の譲渡をする場合、すべての取り引きを有効にするために、一方が自分のはきものを脱いで、それを相手に渡す習慣があった。これがイスラエルにおける証明の方法であった。それで、この買い戻しの権利のある親類の人はボアズに、『あなたがお買いなさい』と言って、自分のはきものを脱いだ」(ルツ4:7、8)
旧約聖書を見ると、靴は地位と権利を象徴します。従って、靴を脱ぐというのは権利と地位を放棄することを意味します。神様はモーセに対して、もう自分を完全に放棄し、全てにおいて神様により頼みなさいとおっしゃっています。
これまでモーセは、自己行為の靴ばかりを見つめていました。モーセの過ぎし日々は血気で満ちていました。ヘブル人を虐待するエジプト人を殺したモーセは、パロを避けて逃げ出しました。自分の行為によっては決して聖なる神様の御前に立つことができないということを悟りました。
それでモーセは、自分の力、自己行為の正しさを信頼するのを諦め、神様だけを信頼し、神様だけに頼ることを決めたのです。それでやっと、自己行為の靴を脱ぎ捨てたモーセは、自分の力ではない聖霊の力、聖霊の炎によってエジプトの神々をひざまずかせ、荒野の敵たちを打ち破り、ヨルダン川にまでイスラエルの民を導くことができました。
ヨシュアもまた、自己行為の靴を見つめました。その靴を履いて行ったことを振り返ってみました。ヨシュアはその靴を履いて勇敢にカナンを偵察し、レフィディムでアマレクと戦って勝利しました。
しかし、その勝利と正しさをもってしても、聖なる神様の御前に立ったとき、自分の正しさは汚れた服と同じであることを悟りました(ゼカリヤ3:3)。ヨシュアは急いで自己行為を象徴する汚れた靴を投げ捨てました。自己行為の靴を脱いだヨシュアは、自分の剣ではなく聖霊の剣によって約束の地カナンにおいて悪の勢力を打ち破り、その地を征服し、勝利の王国を立てることができました。
ユース・ウィズ・ア・ミッションを創設したローレン・カニングハム(Loren Duane Cunningham)の『神様、私に語ってください―神の御声に聞き従ったある若者の物語』の中に、こんな証しが載っています。
ある日、ローレンは奥さんが運転していた車に乗って家に帰る途中、車が高速道路の下に転がり落ちるという事故に遭いました。しばらく意識を失ってから目を覚ますと、彼の頭からは血が滴り落ちていました。しかも、事故に遭った場所は砂漠だったので何もありません。
彼は夢中になって奥さんを捜しました。何メートルか先に奥さんを見つけました。奥さんの呼吸はすでに止まっており、目は瞳孔が開いたままでした。その瞬間、「ああ・・・死んだか」と思いました。ローレンは誰もいない寂しい砂漠で奥さんを抱いて泣きました。ところがその時、誰もいない砂漠の真ん中で、彼の名を大きく呼ぶ1つの声を聞きました。
「ローレン!」
彼はこれまで1度も彼の耳で直接神様の御声を聞いたことはありませんでしたが、それが神様の御声であるとすぐに悟りました。ローレンは答えました。
「はい、主よ!」
神様はローレンに尋ねました。
「ローレン、これでも変わらずわたしに仕えるか」
彼は涙が溢れそうな目を上げ、砂漠の空を見つめながら答えました。
「はい、主よ。それでも主だけに仕えます。もう私の人生に残されたのはこの命しかありません。これも主が望まれるなら、どうぞお取りください」
しばらくしてから、主はおっしゃいました。
「妻、ダーリンのために祈りなさい」
ローレンは神様の御声を聞き、力の限り祈り始めました。すると、息をする音がしました。驚くべきことに、意識のなかった彼の奥さんが息をしようと踏ん張っていたのです。そして、また別のことが起きました。通りかかりの貨物車が彼らを発見し、すぐさま近くの病院に助けを求めてくれたのです。病院に向かう救急車の中で、神様は彼の心の中で再び語られました。
「ダーリンは大丈夫だ」
ローレンはその日すぐに病院から退院し、奥さんは何日か後に退院しました。この事件を通して悟ったことを、ローレンは次のように告白しました。
「この事件を通して切実に悟ったのは、私たちが私たちの権利を降ろすとき、神様がやっとご自分の力を現されるという事実でした。私は常に自分の車、自分の妻、自分のミニストリーを主張していました。事故があってから、私はこれらのものが一瞬にして無くなることもできるということを悟りました」
「私たちが持っている全てのものは、神様が私たちにしばらくの間預けられたものです。私たちの権利を主ご自身と主の福音のために委ねるとき、私たちは全世界を持ち分として受け取る奥義を発見することでしょう」
それ以後、ローレンは自分の全てを降ろしました。彼はユース・ウィズ・ア・ミッションとユニバーシティー・オブ・ザ・ネイションズの設立者兼総長として、毎年30から40余りの国を巡りながら人々を弟子とする使命を果たしています。世界60カ国の言語に翻訳された多くの本を発刊したりもしました。ローレンが自分の権利と地位を放棄すると、神様が彼を用いられたのです。
モーセの生きていた時代においては、奴隷たちに靴は与えられませんでした。神様がモーセに靴を脱ぐよう命令された理由は、彼が神様に絶対服従すべき神様のしもべであることを教えるためでした。
しもべは、主人の意志に反して自分の思い通りにすることはできません。それ故、常に神様の御前で、「私は何者でもありません。私はしもべです。ご主人様が命令される通りに従います」と告白できなくてはなりません。
信仰生活とは、私たちの力で行うのではなく、徹底的に神様と共に行うものです。主に仕える器として生きていくことです。主が自由に働かれる器とならなければなりません。器は自分を表に出しません。その中に何があるかを表します。
器は自分の人生を生きるのではなく、その中の宝のための人生を生きます。私たちの肉体の中に私たち自身が生きるのでなく、主イエス様が生きるようにしなくてはなりません。私たちの人生ではなく、主の人生を生きなければなりません。
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです」(ガラテヤ2:20)
モーセという器の中に生きている方は主でした。ヨシュアという器の中に生きている方も主でした。パウロという器の中に生きている方も主でした。
(イ・ヨンフン著『まことの喜び』より)
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【書籍紹介】
李永勲(イ・ヨンフン)著『まことの喜び』 2015年5月23日発行 定価1500円+税
苦難の中でも喜べ 思い煩いはこの世に属することである
イエス様は十字架を背負っていくその瞬間も喜んでおられました。肉が裂ける苦しみと死を前にしても、淡々とそれを受け入れ、後悔されませんでした。私たちをあまりにも愛しておられたからです。喜びの霊性とは、そんなイエス様に従っていくことです。イエス様だけで喜び、イエス様だけで満足することを知る霊性です。神様はイエス様のことを指し、神の御旨に従う息子という意味を込めて「これは、わたしの愛する子」(マタイ3:17)と呼びました。すなわち、ただ主お一人だけで喜ぶ人生の姿勢こそが、神の民がこの世で勝利できる秘訣だということです。
(イ・ヨンフン著『まことの喜び』プロローグより)
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