おのれを否定しなさい
「おのれを否定しなさい」というのは、自分は何者でもないということを告白する行為です。自分を空にし、自分を降ろし、諦めるということです。まことの弟子たるための必須の徳目は、お金や名誉のように私たちが持っているものの一部を諦めるということではなく、持てるもの全てを諦めるという心の決断です。
それで、弟子になろうとするとき一番の障害物となるのは、まさに自分自身なのです。イエス様についていく人は、自分の考え、自分の計画、自分の全ての思いを降ろして、ただイエス様の考え、イエス様の計画、イエス様の栄光だけのために生きていかなければなりません。
米国の清教徒運動家、ウォルター・チャントリー(Walter J. Chantry)は自身の著書『自己否定』において、生まれ変わったキリスト者の一番大きな特徴を「自己否定」であると定義しながら次のように言いました。
「十字架を負えとの命令は老練な兵士たちだけでなく、新参の兵士たちにも与えられる命令である。この命令は神の軍隊に入隊するための前提条件である。自己否定の十字架なしにキリスト者になるのは絶対的に不可能である」
つまり、自己否定はイエス様を長い期間信じている人だけでなく、初めてイエス様を信じた初信者にも同じく与えられる命令だということです。
アブドル・ラフマンはアフガニスタンでイスラム教徒だったけれど、イエス様を信じてキリスト者になったという理由だけで死刑直前にまで追い込まれました。アフガニスタンは全体人口2500万人のうち99パーセントがイスラム教徒です。彼らは母親のお腹の中にいるときからイスラム教徒です。
それでアブドル・ラフマンも1日に5回、サウジアラビアのメッカに向かって礼拝をし、ラマダン(断食月)を守るために1年のうち1カ月ほどは太陽が昇っている間は断食しながら、徹底的にイスラム教徒として生きました。そんな彼がパキスタンに行って難民たちを助けているうちにキリスト教医療団体で奉仕をするようになり、その時イエス様に出会いました。
4年余りの間、キリスト教医療団体で難民たちを治療してあげながら暮らすうちにイエス様の愛を悟り、今までの自分の人生を悔い改め、イエス様を受け入れるようになりました。イスラム国家においてキリスト教へと改宗するということは、これからは命が脅されることも覚悟するという意味です。イスラム法典であるシャリアによれば、イスラム教徒が改宗するのは重罪に当たり、死刑を言い渡すことになっているからです。
仕方なく、彼は信仰の自由を求めてドイツに渡って行って暮らしました。そんな中、アフガニスタンに残してきた14歳と13歳の幼い2人の娘を連れて来るため、再びアフガニスタンに戻りました。ところが、アブドル・ラフマンの親は彼がキリスト教に改宗したということを理由に会ってもくれず、彼の幼い娘たちにも会わせませんでした。
さらには警察に通報までしたので、アブドル・ラフマンは逮捕されて、イスラムを否定しキリスト教に改宗したという罪状で法廷に立つこととなりました。今や彼はキリスト教を諦めなければ、裁判所で死刑宣告を受けて死ぬこととなってしまったのです。そんな状況の中、アブドル・ラフマンはこのように告白したそうです。
「私は異教徒でもなく、逃亡者でもありません。私はキリスト者です。私を処刑にしたいなら、それを受け入れます。私がイエス様を信じるが故に死ななければならないなら死にます」
このことはすぐにマスコミに伝わって全世界に知れ渡りました。それで、米国と英国をはじめとする世界各国は、アフガニスタン政府に対してアブドル・ラフマンを殺さないようにとの要請を出し、多くのキリスト者たちが彼のために祈り始めました。突然アブドル・ラフマン事件が世界的な話題となり、世論に押される形で不利になったアフガニスタン裁判所は、アブドル・ラフマンへの訴追を中止し、彼を国外追放にしました。
アブドル・ラフマンはイタリアに亡命することとなりましたが、結局奥さんと2人の娘には2度と会えなくなりました。イエス様を信じるために家族を諦めながら十字架を負う人生を生きるようになったのです。
私たちはイエス様のために何を諦めていますか。おのれを否定するというのは、自分に与えられた権利を放棄することを意味します。時には私たちの物質を、私たちの時間を、私たちの才能を、私たちの持てる全てを諦めるべきときが来るかもしれません。その時、私たちがまことの弟子ならば、全てを諦めたイエス様を思い起こし、イエス様を見つめることができなくてはなりません。
「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました」(ピリピ2:6~8)
イエス様の仕える姿は、自分自身の命までも投げ出すことを含んでいます。それこそ、徹底的におのれを否定する姿でした。私たちがイエス様について行くには、このようにおのれを徹底的に否定しなければなりません。おのれを否定するというのは、私たちの人生の主が私たち自身ではなくイエス様となり、イエス様の御旨が私たちの思い、イエス様の働きが私たちの仕事、イエス様の栄光が私たちの栄光となるような人生を生きていくということです。イエス様が私たちの人生の主なので、全ての決定は主に委ね、主が喜ばれることをすること、それこそがまことの弟子の姿なのです。
使徒パウロはイエス様を信じてから自分の変えられた人生の姿をガラテヤ人への手紙2章20節を通して告白しています。
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです」(ガラテヤ2:20)
私たちにとって、自分の人生を自ら生きていくことほど疲れ、たゆみ、難しいことはありません。生きている間、絶え間なく問題がやって来ます。聞こえてくるのは全部、私たちを落胆させ、罠に陥れようとすることばかりです。ただ私たちの人生を自らの力で生きていこうとするだけなのに、あまりにも疲れます。
ところが、「私は主のものです。私の名誉も、私の財産も、私の計画も、私の人生の目標も全て主のものです」と告白し、イエス様を私たちの人生の主として迎え入れて生きれば、その時からは心に平安がやってきます。これが恵みです。
しかしながら、おのれを否定することはそれほど簡単なことではありません。それで神様は私たちを助けてくださる聖霊様を送ってくださいました。私たちが御言葉をつかんで聖霊様に頼りながら祈るとき、聖霊様が私たちを助けてくださいます。これが聖霊の力であり、命の御霊の原理(ローマ8:2)が私たちを支配するようになるということです。
私たちが聖霊様によって力を受け、おのれを否定しながら生きれば、その時から素晴らしいことが起こります。第1に、私たちがいくら失敗しても落胆しないようになります。なぜなら、主が私たちを再び立ち上がらせてくださることを信じるからです。第2に、成功しても傲慢(ごうまん)になりません。主が成功させてくださったと分かっているからです。私たちは主ゆえに、さまざまな欲の奴隷身分からの自由を得ることができます。
いつ、どこで、何をするにしても、聖霊充満でおのれを否定する人生を送るなら、聖霊の実である愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制の9つの実を結ぶ人生、神様に栄光をお帰しする人生を送るようになります。ただイエス様だけが私たちの全てとなる人生を生きるようになるのです。
(イ・ヨンフン著『まことの喜び』より)
*
【書籍紹介】
李永勲(イ・ヨンフン)著『まことの喜び』 2015年5月23日発行 定価1500円+税
苦難の中でも喜べ 思い煩いはこの世に属することである
イエス様は十字架を背負っていくその瞬間も喜んでおられました。肉が裂ける苦しみと死を前にしても、淡々とそれを受け入れ、後悔されませんでした。私たちをあまりにも愛しておられたからです。喜びの霊性とは、そんなイエス様に従っていくことです。イエス様だけで喜び、イエス様だけで満足することを知る霊性です。神様はイエス様のことを指し、神の御旨に従う息子という意味を込めて「これは、わたしの愛する子」(マタイ3:17)と呼びました。すなわち、ただ主お一人だけで喜ぶ人生の姿勢こそが、神の民がこの世で勝利できる秘訣だということです。
(イ・ヨンフン著『まことの喜び』プロローグより)
お買い求めは、全国のキリスト教書店、アマゾンまたはイーグレープのホームページにて。
◇