神様の御旨を分別しなさい
「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい」(ローマ12:2)
使徒パウロは、「何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのか」を分別するには、まず私たちが変えられなければならないと言っています。変化は心が新しくなるときに起こります。
また、心が新しくなるにはこの世を見習ってはなりません。キリスト者ならば、聖なるものとこの世的なものを区別できる聖書的視野を養うことが重要です。この世の基準に従うならば、私たちは神様の喜びとなることはできないからです。
「すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。悪はどんな悪でも避けなさい」(Ⅰテサロニケ5:21、22)
特に若いキリスト者たちは世の中の誘惑に陥らないように自分をよく守らなければなりません。見ること、聞くこと、全てが私たちを罪の誘惑へと導くからです。未信者たちとの会食や酒の席、大学に入ってからの新入生歓迎会、インターネット・ポルノのような罪に満ちた環境に染まらず、心が変えられ、聖霊充満を受け、神様に栄光を帰せるよう努めなければなりません。
この頃はあまりにも簡単に家庭が壊れてしまっています。家庭は神様が建てられたものであることを忘れてはなりません。ほんの10年前までは、離婚なんて他の国のことのように思えていましたが、いつの間にか韓国が世界第2位の離婚国家に転落してしまいました。
ある新婚夫婦は3年間の恋愛の末に結婚しましたが、新婚旅行に行ってけんかをして3日で離婚したそうです。統計によれば、かなり多くの家庭が結婚3年以内に壊れるということです。これに加え、最近では熟年離婚も増えています。過ちを互いに理解し、包んであげるべき夫婦が、相手が変わることだけを求め、自分は変わろうと努力しないからです。
このような現実の中、私たちはこの世と調子を合わせてはなりません。私たちがまず変えられ、その後でこの世を変える主役とならなくてはなりません。社会に新鮮な衝撃を与える霊的リーダーとして生きていかなくてはなりません。
「最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい」(ピリピ4:8)
18世紀ごろ、イギリスが堕落し、酒に溺れた人々があちらこちらに倒れていて、犯罪が日々増加していたとき、オックスフォード大学に通っていたジョン・ウェスレー(John Wesley)は友人たちとともに「Holy Club」(聖なる集まり)祈祷会を始めました。
この祈祷会が当時の堕落していたイギリスを回復させる下地となり、大きなリバイバルのわざを起こしました。私たちもウェスレーのように社会変化の主役とならなくてはなりません。神様が認める人とは、世の中を変え、世の中において称賛される人です。
「何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために」(ローマ12:2)
私たちの人生が変わり、さらにはこの世を変えるためには、常に神様の御旨を悟り知ることが重要です。神様の御旨はいつでも良いことであり、完全であることを忘れてはなりません。神様の御旨を知るには、神様が願っておられることは何かを直接伺わなくてはなりません。
私たちが全てのことにおいて神様の御旨を尋ね、神様の御声を聞き、神様の御旨通りに動きながら生きていくことは、成熟した信仰の人が備えるべき条件です。私たちがこの基準を心に刻み込めば、どんな状況においても神様の御旨を分別できるようになります。
生きた供え物、すなわち人生を通して神様にいけにえをささげるというのは、キリスト者たちの人生の中において「良く、完全である神様の御旨をわきまえ知ること」を意味します。キリスト者たちのいけにえは、神様の御旨を追求し、確認する努力を要します。
ここで「わきまえ知る」とは、単純な知的認識を越えて、神様の御旨を具体的に実践する過程までを含みます。すなわち、キリスト者たちは神様が喜ばれる御旨をわきまえ知り、実践するときにこそ、神様が喜ばれる聖なる生きた供え物をささげることができるようになります。
「良く、聖く、完全な」律法の規定に忠実であるときに、旧約時代にささげられたいけにえの聖さが保障されたように、今日における生きた供え物の聖さもまた「良く、完全な」神様の御旨に従うことから得られるのです。
聖書に出てくる信仰の人たちは、人生における礼拝を通して神様に喜びをささげる人生を送った人々でした。ダニエルは背教の脅しを前にしても、エルサレムの方角の窓を開いて神様に祈ることをためらいませんでした。
巨大帝国の総理という最上級の公務員になっても、自分の知恵と人生の力がどこから来るのかをはっきりと知っていました。それだけでなく、神の民として生きるという人生の礼拝をおろそかにせず、世の中と妥協しないという従順をもって神様に栄光を帰しました。
神様は毎週の主日に私たちが神様にささげる主日礼拝も喜ばれますが、主日礼拝と同じくらい、人生の礼拝にも注目しておられます。人生の礼拝が、神様がご覧になるときに「良く、完全に」ささげられたなら、私たちの主日礼拝はさらに感動に溢れ、恵みの流れを体験する礼拝となるでしょう。
この世の基準に従わず、変えられて聖くあることに努め、その聖さを世の中に感染させていくことこそ、神様が喜ばれる生きた礼拝、すなわち霊的礼拝です。
(イ・ヨンフン著『まことの喜び』より)
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【書籍紹介】
李永勲(イ・ヨンフン)著『まことの喜び』 2015年5月23日発行 定価1500円+税
苦難の中でも喜べ 思い煩いはこの世に属することである
イエス様は十字架を背負っていくその瞬間も喜んでおられました。肉が裂ける苦しみと死を前にしても、淡々とそれを受け入れ、後悔されませんでした。私たちをあまりにも愛しておられたからです。喜びの霊性とは、そんなイエス様に従っていくことです。イエス様だけで喜び、イエス様だけで満足することを知る霊性です。神様はイエス様のことを指し、神の御旨に従う息子という意味を込めて「これは、わたしの愛する子」(マタイ3:17)と呼びました。すなわち、ただ主お一人だけで喜ぶ人生の姿勢こそが、神の民がこの世で勝利できる秘訣だということです。
(イ・ヨンフン著『まことの喜び』プロローグより)
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