この世の基準を捨てなさい
使徒パウロは、神様の中で喜びを味わうための具体的な方法を提示しました。第1に、この世と調子を合わせないことであり、第2に、神に受け入れられることは何かをわきまえ知ることです(ローマ12:2)。
これはすなわち、キリスト者が世の中の喜びに属さないためには、自分の人生の方向がどちらに向かっているかを知らなくてはならないということです。
つまり、イエス様の中で味わう喜びとは、この世と区別された存在として生きていくことを意味します。それ故、キリスト者のまことの喜びとは、この世の基準に従わないことであり、世の中と区別され、聖くあるときに熟していき、実を結ぶのです。
神様が喜ばれる人生
私が米国で牧会していたときのことです。伝道によって教会にやって来た60代のおばあさんがいました。髪の毛はボサボサで、目は焦点が合っていませんでした。それもそのはず、夫はアルコール中毒、長男はアルコール中毒に麻薬使用で服役中だったからです。
嫁が家を出て行ってからしばらくたっており、孫は親が見たいと泣きながら、おばあさんから一時も離れようとしませんでした。娘がいたのですが、彼女も同じくアルコール中毒でした。それこそ家の中がアルコール中毒者でいっぱいでした。
つらい人生の続く家庭であり、家は汚れていて冷蔵庫は空っぽ、食べることに困るような惨めな人生でした。死ねないから生きる、という言葉が思い浮かぶような家庭でした。このおばあさんは、6歳の孫がいるから、死にたくても死ねないといった悲惨な状況の中で教会にやって来たのです。
ところが、教会に来てから何週間もしないうちに、おばあさんに驚くべきことが起き始めました。イエス様がおばあさんに会ってくださったのです。初めて教会に来たときは、地獄から今出てきたばかりのような様子だったおばあさんでしたが、イエス様に出会ってから、おばあさんの人生は変わり始めました。
イエス様はおばあさんを慰めてくださり、おばあさんは礼拝のたびごとに熱い涙で主を礼拝しました。主日朝の1部礼拝から夕方の礼拝まで、教会でささげられる全ての礼拝を、喜びをもってささげました。
おばあさんのつらい状況を聞いて男性宣教会が生活補助費として300ドル(約3万1千円)を差し上げていたのですが、おばあさんはそのお金全部を感謝献金として主にささげました。
生活費の全部であった2レプタをささげた寡婦の姿が、まさにこういうものだったのではないかと思います。おばあさんは学がある方でもありませんでした。おばあさんが歌う賛美歌はいつも同じメロディーでした。音程も合っていませんでした。しかし、おばあさんはいつも喜びをもって賛美をささげました。
そんな中、イエス様は地獄のようだったおばあさんの家庭に触れてくださり、奇跡が起きました。息子が牢獄の中で悔い改め、イエス様を信じるようになったのです。夫がアルコール中毒から解放され、娘も酒をやめて就職しました。
それだけでなく、家族みんなが一緒に教会に出席して主に栄光を帰し、礼拝をささげました。家族みんなが主の中で回復される御業が行われたのです。
たましいに幸いを得ているように全ての点でも幸いを得、また健康になるというヨハネの手紙第3の2節の祝福が、おばあさんの家庭に臨んだのです。
「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります」(Ⅲヨハネ1:2)
私たちが神様に礼拝をよくささげるだけでも、こんな奇跡を体験するようになります。神様が喜ばれる本当の礼拝は、主日にだけささげられる礼拝ではありません。人生全体が礼拝となることです。私たちの人生全体が、神様に喜ばれるような礼拝の人生へと変えられなくてはなりません。
「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です」(ローマ12:1)
私たちは俗に、使徒パウロは異邦人の使徒であり、異邦人たちに対して救いの福音だけを伝えたものと誤解します。しかし、使徒パウロの働きの目的は単純に異邦人たちに福音だけを伝えることではありませんでした。
使徒パウロは、救いの福音を受け入れた異邦人たちを、神様の御前で聖く用いられるように養育し、異邦人たちが神様によって喜んで受け入れられる、聖い、生きた供え物となるよう努めたのです。パウロは自分の働きの目的を、救われた異邦人たちの人生が神様の御前で傷1つなくささげられるようにすることだと考えました。
「からだ」をささげるようにとのパウロの表現は、いけにえをささげるときに神様に差し上げる供え物に例えたものです。祭司の主な役割はいけにえをささげることですが、それよりも重要なのはいけにえをささげる前に供え物がふさわしいかどうかを決めることでした。
なぜなら、神様の御前にささげられるいけにえは、傷のない供え物でささげられなくてはならなかったからです。聖さを担保しないいけにえは、神様が決して受け入れなかったのです。
それ故、「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい」というパウロの勧めは、私たちの人生全体が神様に受け入れられるにふさわしい供え物としてささげられなくてはならないということです。これこそが、神様が私たちを呼んでくださった目的です。
旧約の祭司たちは、供え物がふさわしいかどうかを区別してから、その供え物全体を神様に火で焼いてささげました。このように、神様は供え物全体をささげるという、完全ないけにえを受け取られます。私たちの時間、健康、考え、仕事、命までも主のためにささげなくてはなりません。
主日1日だけキリスト者の姿で生きてはなりません。1週間の間ずっと、1年365日、一生が主に仕えるという美しい姿とならなくてはなりません。これが私たちの体でささげるべき生きた供え物(Living sacrifices)なのです。罪に従って生きていた古き人を全部脱ぎ捨てなければなりません。
古き人の姿を脱ぎ捨て、神様が喜び、認める人生とならなくてはなりません。ここで私たちは、使徒パウロの言った「生きた供え物」の意味が、神様が喜ばれる聖なるささげ物であると知ります。
「肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません」(ガラテヤ5:19~21)
もともと「聖さ」とは、分離または分別されたという意味です。すなわち、罪と妥協しながら生きてはならず、罪からは分離されなくてはならないという意味です。神様は聖さを喜ばれます。
「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない」(Ⅰペテロ1:16)という御言葉は、私たちに対する神様の命令であり、神様の御旨です。聖徒が聖さを失ってしまうと、塩味のない塩のように、道端に捨てられて踏みにじられるしかありません。
聖徒は生きた供え物、生きているいけにえとならなくてはなりません。新しく変えられて、新しい命を受けた姿で主にささげられなくてはなりません。聖霊の実が豊かな人生の姿をささげなくてはなりません。
「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません」(ガラテヤ5:22、23)
(イ・ヨンフン著『まことの喜び』より)
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【書籍紹介】
李永勲(イ・ヨンフン)著『まことの喜び』 2015年5月23日発行 定価1500円+税
苦難の中でも喜べ 思い煩いはこの世に属することである
イエス様は十字架を背負っていくその瞬間も喜んでおられました。肉が裂ける苦しみと死を前にしても、淡々とそれを受け入れ、後悔されませんでした。私たちをあまりにも愛しておられたからです。喜びの霊性とは、そんなイエス様に従っていくことです。イエス様だけで喜び、イエス様だけで満足することを知る霊性です。神様はイエス様のことを指し、神の御旨に従う息子という意味を込めて「これは、わたしの愛する子」(マタイ3:17)と呼びました。すなわち、ただ主お一人だけで喜ぶ人生の姿勢こそが、神の民がこの世で勝利できる秘訣だということです。
(イ・ヨンフン著『まことの喜び』プロローグより)
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