神様が第一となるようにしなさい
私たちは心の中に神の御国が臨むよう祈り、さらには義の衣をまとわなければなりません。聖書の語る「義」とは、神様の御前に正しく立つことを意味します。私たちは不義の罪人ですが、イエス様を信じたことで罪の赦(ゆる)しを受けたので、今や堂々と神様の御前に立てるようになりました。イエス様を信じたことで、神様の御前で義と認められるようになったのです。
ですから、これからは神様の御旨に従いながら生きなければなりません。自分の考えだけが正しいと主張すれば、争いが生じます。自分の考える「正しい」ではなく、神様がご覧になるときに「正しい」ことを行いながら生きていかなくてはなりません。
私たちは、神様がご覧になるときによいこと、神様が認められること、神様が喜ばれること、神様が願われることに沿って生きていかなければなりません。
では、どうすれば神様がご覧になるときに正しく、聖い人生を送れるでしょうか。それは真理である神様の御言葉を私たちの人生の基準とするときに可能となります。詩篇の著者はこう告白しました。
「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」(詩篇119:105)
神様の御言葉は私たちがどっちの道に向かうべきかを教えてくださいます。聖なる人生を歩むように導いてくださいます。私たちが常に御言葉を黙想し、実践すべき理由がまさにここにあります。使徒ヨハネは神様の御言葉を守ることを強調しました。
「この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである」(黙示録1:3)
私たちが御言葉を実践するとき、その御言葉はサタンが奪うことのできない生きた御言葉となります。私たちが御言葉に従うとき、世の中とは区別された人生を歩むようになります。
世の中に存在しながらも、世の中とは異なる基準、異なる価値観に基づいた人生を送るとき、私たちは存在それ自体で世の中にチャレンジと感動を与える光と塩の人生を紡ぎ出して行くことになります。
ですから、私たちの心の中に、この世の価値観ではない、神様の御言葉が生きていなくてはなりません。そして、このように祈らなければなりません。
「神様の御言葉によって、神様の御姿に似ていきますように。キリストの弟子として生きていけますように。利己主義と傲慢(ごうまん)を捨て、神様第一主義で生きていけますように」
『ラディカル』の著者デイビッド・プラット(David Platt)が担任しているブルックヒルズ教会は、現在米国で早いスピードで成長している大型教会の一つです。デイビッドは宣教旅行中にアジアの秘密地下教会を訪問しながら強いチャレンジと衝撃を受けたそうです。
彼がアジアのある地下教会を訪問したとき、そこの聖徒たちは残忍な異端組織の脅威の中で固く信仰を守っていました。その異端の組織はクリスチャンを拉致し、拷問する中で舌を切ることくらいは何とも思わないような団体でした。そんな状況の中でも地下教会の聖徒たちは、自分の命のみならず家族の命までをも担保にしてイエス様を信じていました。
そんな聖徒たちから聖書勉強を導いてくれるよう頼まれてデイビッドが地下教会を訪問したのです。ところが、そこの聖徒たちがあまりにも御言葉を慕っていて、聖書勉強を始めてから8時間がたったのに、誰一人疲れた気配を見せませんでした。逆にその日の聖書勉強が終わってから、聖徒たちは旧約全体をおさらいしてほしいと心を込めてお願いしながらこう言いました。
「聖書を学ぶことができるなら、どんなことでもします。私たちの大半は農夫ですので、一日中、畑で働かなくてはなりません。でも聖書を勉強するためなら、2週間くらい畑に出られなくても構いません」
デイビッドはこのような願いを断りきれず、次の日から10日間、1日に12時間ずつ聖書を教えたそうです。そうして旧約を終えたのですが、ある人が「問題があります」と言いながら手を高く挙げ、「旧約はよく学べたのですが、新約はどうすればいいですか」と尋ねたそうです。その言葉に全ての人々がうなずくのを見て、デイビッドは選択の余地なしにそれから11時間かけて新約をおさらいしたそうです。
当時、聖書勉強をした地下教会は大変劣悪な環境にありました。狭い床の上に多くの聖徒が椅子もなく缶詰状態になって聖書を膝の上に置き、天井が低くて息をするのもつらく、冷暖房施設もありませんでした。
照明といえば天井の裸電球一つだけでした。音響機器も、賛美チームもありませんでした。そんな場所でも神様の御言葉を心から慕う彼らを見ながら、デイビッドは、「私たちは信仰の根本的な要素を失い、個人主義と安楽に染まってしまっているのではないだろうか」という考えを払拭できませんでした。
デイビッドは自らに次のような質問を投げ掛けてみました。「もし私たちの教会の全ての施設を撤去したとしても、聖徒たちは一途な心を持って御言葉を慕って集まって来るだろうか」。これに対する答えを得るために、デイビッドは米国に帰ってきてから、夕方6時から夜12時までの6時間の間、ただ御言葉だけを勉強する集まりである「シークレット・チャーチ(Secret Church)」を始めました。
最初の集まりがある日、デイビッドは果たして何人ほどが参加するだろうか興味深くもあり、不安でもありました。ところがその日の夜、何と1千人余りが教会に押し寄せ、スペースをさらに用意しなくてはならなかったそうです。その後、デイビッドは以下の「ラディカル実験」を通して、自分と聖徒たちの人生が完全に変わったと告白しました。
① 全世界のために祈りなさい
② 御言葉全体を隅々まで読みなさい
③ 意味あるところに用いるために財政的犠牲を甘受しなさい
④ あなたを必要とする、見知らぬ場所に行って仕えなさい
⑤ 福音的な地域教会に献身しなさい
私たちが聖なる人生を歩むとき、神様は喜ばれます。しかし、私たちの力では神様の御旨にかなった人生を歩むことはできません。私たちは弱いので、聖霊様が助けてくださるときに神様の御旨を行うことができ、神様を喜ばせる人生を生きることができます。
聖霊の満たしを受けてこそ、霊的戦いを戦って勝利することができます。私たちが神様の義をまず求めれば、神様は私たちに必要な全てのものを増し加えてくださいます。
神様の義を衣としてまとうとき、神様の御旨通りに生きていくとき、すなわちイエス・キリストを完全につかんで生きていくとき、私たちは揺らぐことのない喜びと平安を得るようになります。福音が下さる溢れる生命力により、魂が恵まれているように全てに恵まれ、健康になる祝福を享受して、幸せな人生を生きるようになるのです。
(イ・ヨンフン著『まことの喜び』より)
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【書籍紹介】
李永勲(イ・ヨンフン)著『まことの喜び』 2015年5月23日発行 定価1500円+税
苦難の中でも喜べ 思い煩いはこの世に属することである
イエス様は十字架を背負っていくその瞬間も喜んでおられました。肉が裂ける苦しみと死を前にしても、淡々とそれを受け入れ、後悔されませんでした。私たちをあまりにも愛しておられたからです。喜びの霊性とは、そんなイエス様に従っていくことです。イエス様だけで喜び、イエス様だけで満足することを知る霊性です。神様はイエス様のことを指し、神の御旨に従う息子という意味を込めて「これは、わたしの愛する子」(マタイ3:17)と呼びました。すなわち、ただ主お一人だけで喜ぶ人生の姿勢こそが、神の民がこの世で勝利できる秘訣だということです。
(イ・ヨンフン著『まことの喜び』プロローグより)
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