自分の基準を捨てなさい
人というのは、自分が最も欲しがっているもの、大切に思うものを自慢するようにできています。その自慢の中には個人の人生観と世界観が要約されています。それで、学者は「知識」を自慢し、財閥は「お金」を自慢し、ミス・コリアは「外見の美しさ」を自慢します。自慢というのはまさにその人が追求する人生の目的であり、方向です。
フランスの哲学者ジャン・ジャック・ルソー(Jean Jacques Rousseau)は、「10代はケーキで喜びを味わい、20代は恋人に対する愛で喜びを味わい、30代は快楽を喜び、40代は野望の成就を喜び、50代はお金に喜びを感じる」と言いました。
それなら、キリスト者は何ゆえに喜べるでしょうか。私たちの味わうまことの喜びの源は、神様との正しい交わりのみです。神様こそ、喜びの源となられるからです。イエス様を信じる人々にとって、世の中の条件と価値は真の自慢となることはできません。信じる者にとっての最高の自慢は、「私がイエス様を信じる者になった」ということです。
ところが今日、多くのキリスト者、すなわちイエス様について行く人々は、何を真の自慢とすべきかがよく分かっていないことが多々あります。
教会員になることは難しくありません。イエス様を信じて教会に通いさえすれば、誰でも教会員になることができます。しかし、弟子というのはそういうふうに自動的になるのではなく、訓練を通してのみ可能です。
「弟子」という言葉の意味は、「師匠に教えを受ける者、訓練を受ける者、師匠に従う者」です。ですから、救われた者ならば教会に通うだけの教会員でとどまることなく、イエス様に従う弟子となるよう努めなければなりません。キリストの弟子として神様に認められる人生を生きるために努力しなくてはなりません。
もちろん弟子の道を歩むというのは、時には苦難に襲われ、犠牲を払わなければならないという意味でもあります。しかし同時に、私たちの主が喜ばれる道であり、栄光の道なのです。
それ故、苦しみの中でも弟子が目指すべき人生の方向は、神様の喜びになること、神様だけで喜ぶことなのです。この奥義を知らない者は決して弟子となることはできません。
残念なことに、今日の教会の中には、教会員は多くとも、弟子は多くありません。イエス様を信じる人は多くても、イエス様に似ていこうとする人は多くありません。
イエス様は神様の御旨を成すために、死まで従われて神様の喜びとなりました。ですから、救われた私たちはイエス・キリストの人格に似ていき、生涯を通して小さなイエスの人生を生きるために全力を尽くさなければなりません。神様の御旨に従うことで得る喜びの霊性を回復しなければなりません。
私たちがエホバ(ヤーウェ)を喜ぶときにこそ、神様の御旨を成すことができる力を受けるようになります。
(イ・ヨンフン著『まことの喜び』より)
*
【書籍紹介】
李永勲(イ・ヨンフン)著『まことの喜び』 2015年5月23日発行 定価1500円+税
苦難の中でも喜べ 思い煩いはこの世に属することである
イエス様は十字架を背負っていくその瞬間も喜んでおられました。肉が裂ける苦しみと死を前にしても、淡々とそれを受け入れ、後悔されませんでした。私たちをあまりにも愛しておられたからです。喜びの霊性とは、そんなイエス様に従っていくことです。イエス様だけで喜び、イエス様だけで満足することを知る霊性です。神様はイエス様のことを指し、神の御旨に従う息子という意味を込めて「これは、わたしの愛する子」(マタイ3:17)と呼びました。すなわち、ただ主お一人だけで喜ぶ人生の姿勢こそが、神の民がこの世で勝利できる秘訣だということです。
(イ・ヨンフン著『まことの喜び』プロローグより)
お買い求めは、全国のキリスト教書店、アマゾンまたはイーグレープのホームページにて。
◇