イエスについて行くには
「それから、イエスは群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに言われた。『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい』」(マルコ8:34)
聖書は、この世の全ての人々が何かについて行くと言っています。それはこの世の富、栄華、権勢、そして自分が成し遂げようとする欲望です。それらのために身もだえしながら生きていくのが、世の中の人々の人生だといえます。
では、ここで私たちも自らに質問してみなければなりません。今、私たちは何に向かって生きているか、どんな価値を追い求めているか、私たちの人生の基準は何か、救われた民として従うべき召命があるという事実を忘れたままで、世の中の人々と同じ道を歩んでいるのではないか、というようなことをです。
人生に対するこのような真摯(しんし)な熟考を通して、私たちは真理なるイエス様へとまた一歩近づくことができます。ナチの迫害の中で信仰の操を守ったドイツの神学者ディートリヒ・ボンヘッファー(Dietrich Bonhoeffer)は自らの著書『キリストに従う』の中で次のように話しています。
「キリスト者は自分の十字架を負い、イエスと隣人の苦しみを共に担うという高価な恵みを享受しなければならない」
「高価な恵み」と表現したのは、私たちの受けた救いが何も代価が支払われていないものではないからです。神様の独り子イエス・キリストの高貴なる血によって受けた救いであり、何ものとも比べられない高価な恵みです。
ですから、この尊い恵みを受けた私たちは、世の中の環境や人だけを見て、それについて行ってはなりません。当然のごとく、ただ、信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないで進むべきなのです(ヘブル12:2)。
世の中を眺めるときは、落胆と失敗と絶望だけがやって来ます。しかし、私たちが受けた恵みは、神様の御子の死という代価を支払って得たものです。この高価な恵みを受けたことを忘れたまま、世の中の富と栄華について行ってはなりません。
私たちの永遠なる救い主であり、牧者であり、先生であるイエス様について行かなければなりません。イエス様が歩まれたその道を思い、イエス様が歩まれたその道を、喜びをもって歩いていかなければなりません。
1978年11月18日、南米ガイアナの密林にて900人余りが毒薬を飲んで自殺する事件がありました。アメリカのインディアナ州で始まった宗教集団、人民寺院の教祖ジム・ジョーンズ(James Warren Jones)が自らに従う追従者たちと一緒に集団自殺儀式を行ったのです。
彼は間もなく起こるであろう核戦争を避けるために最後の生存地域を作らなくてはならないという名目で追従者を集め、南米ガイアナの密林へと旅立ちました。そして、そこで追従者はもちろん、子どもたちにまで毒薬を飲ませて死へと追いやりました。間違った指導者による惨事でした。
私たちがついて行くべきイエス様は、まことなる指導者です。さらに、イエス様のまことの弟子たる私たちは、師匠であるイエス様だけを見つめ、信じ、頼りながらついて行かなければなりません。
イエス様の教えを常に胸に刻み込み、その御言葉を守り行うために全力を尽くすときにこそ、初めてイエス様のまことの弟子となるのです。ですから、イエス様のまことの弟子として、私たちはイエス様が私たちを愛されたように、私たちもその愛を実践しながら小さきイエスの人生を生きなければなりません。
イエス様がご自分を十字架につけた人々を赦(ゆる)されたように、私たちも私たちを迫害する人々を、私たちに隠れて誹謗(ひぼう)中傷する人々を赦さなくてはなりません。本当のところ、赦しはこの世の原理ではありません。それだから、赦すのは難しいのです。しかし、まことの弟子は赦すことで世の中に向かって神様の恵みの年を宣言します。このように赦しを通して神様の聖さを表すことが、神様の喜ばれることです。
また、イエス様が柔和と謙遜の姿で生きていかれたように、私たちもこれからは高められたいと思う心を降ろさなければなりません。もてなしを受けるのが嫌いな人はいません。でも、イエス様はそうはされませんでした。主は最後の晩餐においても弟子たちの足を洗いながら、仕えることの見本を示されました。
ですから、私たちは今や、もてなしを受けていた姿から、もてなしをする姿をもって生きていかなければなりません。失われた人々を捜し出してイエス様の愛で仕えながら、救いを宣言する人生を生きなくてはなりません。これこそが、私たちを弟子として呼んでくださったイエス様の目的です。
「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです」(ルカ19:10)
まことの弟子とは、師匠の歩む道を、喜びをもってついて行く者です。イエス様に従いながら、イエス様に似ていく人生を歩むとき、神様の恵みが臨むようになります。
まことの救い主なるイエス様の道にまことの成功があり、まことの平安があります。これこそ、神様の子どもがこの世に生きながら受ける最高のプレゼントである永遠の喜びを楽しむ天国的人生です。このように毎瞬間、イエス様だけについて行けば、私たちはいつの間にか究極的には主が備えられた天国に入るようになります。
(イ・ヨンフン著『まことの喜び』より)
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【書籍紹介】
李永勲(イ・ヨンフン)著『まことの喜び』 2015年5月23日発行 定価1500円+税
苦難の中でも喜べ 思い煩いはこの世に属することである
イエス様は十字架を背負っていくその瞬間も喜んでおられました。肉が裂ける苦しみと死を前にしても、淡々とそれを受け入れ、後悔されませんでした。私たちをあまりにも愛しておられたからです。喜びの霊性とは、そんなイエス様に従っていくことです。イエス様だけで喜び、イエス様だけで満足することを知る霊性です。神様はイエス様のことを指し、神の御旨に従う息子という意味を込めて「これは、わたしの愛する子」(マタイ3:17)と呼びました。すなわち、ただ主お一人だけで喜ぶ人生の姿勢こそが、神の民がこの世で勝利できる秘訣だということです。
(イ・ヨンフン著『まことの喜び』プロローグより)
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