十字架を喜びなさい
「イエスは、みなの者に言われた。『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい』」(ルカ9:23)
「自分の十字架を負う」というのは、神様から任された使命のために、必ず私たちが背負うべき何かがあることを意味します。それは、イエス様が人類の救いのために十字架で亡くなられたように、私たちがイエス様の弟子だから受ける迫害、理由のない苦しみ、悲しみ、犠牲、損害、殉教までをも耐え忍ぶということです。これが、私たちそれぞれが背負うべき使命の十字架です。
ところが、あえて「十字架を負う」と決心しなくても、すでに私たちは誰もが十字架を負っています。家庭の十字架、職場の十字架、教会での十字架がそれです。ある人が私に手紙で相談をしてきたのですが、内容が荒唐無稽(こうとうむけい)なものでした。
「牧師先生、私は思いがけず結婚したのですが、暮らしてみると本当に自分とは合いません。ところが最近、本当に自分と合う人に会いました。私がその人と新しい家庭を築こうと思うのですが、お祈りください」
この人は、自分の十字架が何なのか分かっていませんでした。もともと結婚というのは、互いに異なる2人が出会って、相手に合わせながら暮らすことです。結婚するまで数十年を異なる環境で育ってきたのに、どうして互いに合うことが期待できるでしょうか。不可能なことです。それで私はこう答えました。
「結婚して、互いに合わないところがあるのは当然です。それでも、合わせながら生きるのが愛であり、十字架です」
私たちの問題は、十字架を背負うまいとしているところにあります。「あ!あの時は私に見る目がなかったけれど、今はちゃんと見る目があります」とよく言いますが、そういうことではありません。幸せな結婚生活の条件とは、互いに十字架を負うということです。
時には夫や妻、そして親が十字架になることもあり、子どもが十字架になることもあります。良い子だった子どもが思春期になってみたら180度変わって反抗したり、悪い道に走ったり、世の中にどっぷり浸かって親を心配させたりすることがあるかもしれません。
しかし、それは親が背負うべき十字架です。その十字架を喜んで背負って行かなくてはなりません。その十字架を途中で降ろしてはなりません。
職場でも十字架を背負わなければなりません。会社の会食の時に、イエス様を信じているからお酒の代わりにコーラばかり飲んでいると、そのことで迫害を受けるかもしれません。自分だけが昇進していると、他の人にねたまれて心を傷つけられるかもしれません。教会で主の働きをするときも、不当に憎まれ、迫害を受けるかもしれません。これが十字架です。
つらくて重いと降ろしたり、逃げたりせず、黙々と十字架を背負って行かなくてはなりません。イエス様は死の場所にまで十字架を背負って行かれました。イエス様の弟子である私たちもその道を行かねばなりません。苦しいとしても、犠牲を耐え忍んででも、喜びをもって十字架を負わなくてはなりません。
「イエスは言われた。『まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます』」(マルコ10:29、30)
マルコの福音書が記録された当時のローマ教会の聖徒たちは、イエス様を信じるがために家族や職はもちろん、命さえも諦めなくてはならないような脅威にさらされていました。実際、イエス様を信じていると言えば、処刑にされていた時期だったのです。自分の十字架を負うことなしには、決してイエス・キリストについて行くことはできませんでした。
それなら、今私たちはどうでしょうか。十字架を負うために努力していますか。まさか苦しいからといって、自分の十字架から逃げてはいませんか。自分の十字架を他の人にこっそり押し付けてはいませんか。ただ安らかな人生を探して逃げ回ってはいませんか。私たちに与えられた使命が何だったかさえ忘れてはいませんか。
キリスト者として十字架を背負わないなら、私たちの信仰は成長することができません。さらに深い恵みのうちへと進むことはできません。適当に世の中と妥協しながら生きると肉体は安らかでも、霊的には何ら恵みがないからです。
私たちに与えられた使命は何ですか。心の中にどんな使命を抱いて、信仰で生きていっていますか。使命を失ってしまった人生は不幸なものです。しかし、使命のある人生は苦しみがやってきても幸せを感じ、喜ぶことができます。どんなことが起きても、揺るがされることがありません。
イエス・キリストのまことの弟子である私たちは、日々自分の十字架を背負い、任された場所で全力を尽くさなければなりません。私たちに与えられた使命を悟り、その使命のために一生歩んで行かなければなりません。喜んで十字架を背負って行けば、ついには約束された天国の安息を味わうこととなります。
韓国教会の大きな柱だったハ・ヨンジョ先生は、2011年8月2日に神の御国へと帰って行きました。7度もがんの手術を受け、毎週3回以上人工透析を受けていた彼の人生そのものが十字架でした。常に病という十字架を背負って一生の間黙々と使命を成し遂げるために働かれました。
神様がハ・ヨンジョ先生を通して立てられたオンヌリ教会は各地域に9つの聖殿、4つの祈祷所、25のビジョン教会へと成長し、全部で7万5千名ほどの聖徒が教会に仕えています。特に、ハ・ヨンジョ先生は世界宣教のために韓流スターたちと文化宣教集会を開くなど、文化と宣教をつなぎ合わせた新しい宣教形態の扉を開いた先駆者でもあります。
このハ・ヨンジョ先生は、脳出血で倒れる直前まで力を尽くして主日礼拝メッセージを準備したそうです。2011年5月17日、ハ・ヨンジョ先生は自分のツイッターに次のような文を残したのですが、脳出血手術後に亡くなったので、事実上この文が最後の遺言となってしまいました。
「いくら忙しくても、好きなことをやっているときはワクワクする。神様の仕事は忙しいけれど、楽しいし、興味深い。神様のために忙しく生きよう」
オンヌリ教会の聖徒たちは、ハ・ヨンジョ先生が亡くなられたのを残念がり、悲しみながら、ツイッターに次のような書き込みをしました。
「温厚だったけれど情熱的で、愛と憐れみの深かったハ・ヨンジョ牧師先生。この世で光と塩として生き、主の元へと帰って行かれたハ・ヨンジョ牧師先生。愛しています。送る私たちの心には悲しみがありますが、牧師先生のために用意された天国の宴がどれほど盛大で喜びにあふれているかを考えるだけで心が躍ります。その人生を見習いたいと願います。牧師先生、安らかにお休みください。本当に会いたいし、その愛も忘れられません。私たちみんなが愛した牧師先生がおられて本当に幸せでした」
イエス様のまことの弟子である私たちは、一生の間十字架を負い、使命を果たし、イエス様によって喜ぶ人生を送ってから神様の御前に立つ日、「よくやった。良い忠実なしもべだ」(マタイ25:21)と褒められるようにならないといけません。これこそが神様を喜び、十字架を喜ぶ人生です。
(イ・ヨンフン著『まことの喜び』より)
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【書籍紹介】
李永勲(イ・ヨンフン)著『まことの喜び』 2015年5月23日発行 定価1500円+税
苦難の中でも喜べ 思い煩いはこの世に属することである
イエス様は十字架を背負っていくその瞬間も喜んでおられました。肉が裂ける苦しみと死を前にしても、淡々とそれを受け入れ、後悔されませんでした。私たちをあまりにも愛しておられたからです。喜びの霊性とは、そんなイエス様に従っていくことです。イエス様だけで喜び、イエス様だけで満足することを知る霊性です。神様はイエス様のことを指し、神の御旨に従う息子という意味を込めて「これは、わたしの愛する子」(マタイ3:17)と呼びました。すなわち、ただ主お一人だけで喜ぶ人生の姿勢こそが、神の民がこの世で勝利できる秘訣だということです。
(イ・ヨンフン著『まことの喜び』プロローグより)
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