私にとって、毎日が死の連続です
「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです」(マルコ8:35)
ここで「いのちを失う」という表現は、命の限りを尽くす献身を意味します。自分の命を自ら救おうとして十字架の道を捨てるなら、永遠の命を失いますが、イエス様と福音のために自己愛とこの世の欲を否定する人生を送るときには、聖霊充満な人生を生きるようになり、永遠の命までも得るということです。この命は全世界よりも尊いもので、何かをもってして買うことはできません。
ローマ時代のキリスト者たちは、正体が発覚したら逮捕されて拷問を受けました。裁判官たちは彼らに、イエス様を否定して皇帝万歳を叫べば助けてやると勧めたりもしました。多くの人々が命を守るために妥協しました。彼らは、より大きな審判が後にあることを知らなかったからです。
他方で、数多くの聖徒たちは、イエス様について行くために命を放棄しました。彼らは殉教のいけにえとなってこの世を去りましたが、イエス様が彼らに永遠の命をもって報いられました。それから後、彼らの血を通してローマを占領し、キリスト教が国教となるようにされました。キリスト教を迫害していたローマが公式的にイエス・キリストを主と崇(あが)めるようになったのです。
このような歴史的事実は、「イエス様のために命を諦めた人々は結局勝利する」ということを示しています。弟子としての人生は、イエス・キリストと福音のために献身するという程度を超え、命までをも差し出せる決断を要求します。
フランスには「荒野博物館」という場所があります。この博物館は18世紀のフランスで行われたプロテスタントに対する酷(むご)い迫害を避けて、聖徒たちが野や山に集まって礼拝をささげていた歴史的現場と遺物を保存している場所で、当時の改革派教会を「荒野教会」と呼んだことに由来しているといいます。
1685年、当時のカトリック教会の支持を受けていたフランス政権は改革派教会を承認したナントの勅令(1598年)を撤回し、フランス内にあった全ての改革派教会を迫害しました。改革派教会の礼拝を禁止し、集会に参加する聖徒たちには、死刑または終身刑などの重い処分を下しました。
そんな酷い迫害の中でも、改革派の信仰を守るために戦った人々の抵抗は涙ぐましいものであり、感動的でした。改革派教会の牧会者たちは特別に製作された刑具の上で全ての骨が砕かれる残酷な拷問を受けてから、手足が切断され、最後は斬首刑に処せられました。
女性たちは脱出不可能な高い塔に閉じ込められて数十年を寒さと飢えの中で生き、男性たちは例外なく連行されてフランス王の戦艦の底で命尽きるまで手首と足首に鎖を付けられたままオールを漕がなければなりませんでした。数え切れない多くの聖徒たちが信仰を守るため、そのように奴隷船の中で死んでいきました。
荒野博物館にある多くの展示品の中で特に目を惹(ひ)く、ある展示品があります。奴隷船から出てきたものとされる小さな木の板です。そこには、骨と皮ばかりでオールを漕いでいる1人の姿が描かれているのですが、彼の手首と足首は鎖につながれています。そして、その絵とともに刻まれている文章に、ひどく心打たれます。
「主よ、私の手首の手枷をあなたとの婚姻指輪となし、私の足首の足枷をあなたとの愛の鎖となさしめたまえ」
彼らは信仰を守るためには殉教も辞さないような人生を送りました。なぜなら、彼らにとってイエス様は、この世に奪われることのできない喜びそのものだったからです。今の時代は、私たちに殉教を強いることはありません。しかし、私たちは福音の負債を負っている者として、殉教者的精神を持って弟子としての人生を歩んでいくのが当然だと言えます。
ダニエルの3人の友人、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴもそうでした。彼らは神様を否定して金の神像の前で拝むことができず、自ら進んで燃える火の炉の中に投げ込まれて殉教することを願い出ました。しかし、死のうとしたとき、かえって彼らは髪の毛1本燃えることなく助かりました。
このように、キリストの福音のために自らの命を差し出すなら、永遠の命を受けます(マルコ8:35)。神様が私たちを呼んでくださった目的は、弟子としてその方の御旨に従うようにすることです。福音のために生きることを決意するとき、神様は私たちのことを喜ばれます。
生きようとするから問題であって、死ぬというなら何が問題となり得るでしょうか。死ぬ気になればできないことなんて1つもありません。死んでこそ生き、失ってこそ得るのが福音の真理です。かえって銃で撃たれてすぐに死んでしまうのが簡単かもしれません。それよりも、毎日毎日を殉教の心で生きるのがもっと難しいのです。
毎日、自分の十字架を背負う人生、毎日、自分を鞭(むち)打ってキリストに服従させる人生こそ簡単ではありません。それで使徒パウロは、「私にとって、毎日が死の連続です」と誇ったのです。
「兄弟たち。私にとって、毎日が死の連続です。これは、私たちの主キリスト・イエスにあってあなたがたを誇る私の誇りにかけて、誓って言えることです」(Ⅰコリント15:31)
イエス様が完全な従順のいけにえとなられて神様の喜びとなったように、イエス様について行く者たちにも、このような信仰の秘密がなくてはなりません。弟子が持つべき信仰の秘密とは、イエス様が喜びとなり、イエス様を喜ばせることを人生の目的として告白できることを指します。
これが秘密な訳は、簡単には表に表れないからです。私たちが教会の中にいれば、みんながイエス様を信じているように見えます。その信仰が本物か偽物かを分別するのは難しいものがあります。
しかし、本物か否かは、私たちが苦難を受けたときに明らかになります。まことの弟子ならば、自分を否定し、自分の十字架を背負ってついて行く覚悟ができています。しかし、偽者の弟子は、目の前にある自分の益を放棄することができません。
喜びの源であるイエス様のために生きる人生とは、自分を否定し、自分の十字架を背負いながら生きるというものです。そのように十字架を背負うとき、復活の力が私たちの上に宿るようになります。これが神様という岩の上に建てる人生の家です。これはただイエス・キリストの中でのみ可能です。
(イ・ヨンフン著『まことの喜び』より)
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【書籍紹介】
李永勲(イ・ヨンフン)著『まことの喜び』 2015年5月23日発行 定価1500円+税
苦難の中でも喜べ 思い煩いはこの世に属することである
イエス様は十字架を背負っていくその瞬間も喜んでおられました。肉が裂ける苦しみと死を前にしても、淡々とそれを受け入れ、後悔されませんでした。私たちをあまりにも愛しておられたからです。喜びの霊性とは、そんなイエス様に従っていくことです。イエス様だけで喜び、イエス様だけで満足することを知る霊性です。神様はイエス様のことを指し、神の御旨に従う息子という意味を込めて「これは、わたしの愛する子」(マタイ3:17)と呼びました。すなわち、ただ主お一人だけで喜ぶ人生の姿勢こそが、神の民がこの世で勝利できる秘訣だということです。
(イ・ヨンフン著『まことの喜び』プロローグより)
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