神様の臨在を慕い求めなさい
キリスト者の喜びは、世の中と神様との間で葛藤しないという聖(きよ)さに表れます。これは、私たちがキリストの中で新しい被造物へと造り変えられたという意味でもあります。新しい創造への招待は、以前とは全く異なった新しい人生への招待です。
本物の変化とは、外見だけを変えるようなお化粧や一時的なダイエットでもたらされるわけではありません。本物の変化とは、内面から始まるからです。健康のために冷蔵庫を整理するには、まずはジャンク・フードから捨ててしまうべきであるように、この世代に属する慣習、伝統、価値観を捨てていない状態のままで、本物の心の変化を期待するのは到底無理な話です。
しかし、これまで私たちを縛っていた価値観や人生の基準を丸ごと投げ捨ててしまうというのは、決して簡単なことではありません。このような変化はただ神様との出会いを通してのみ得ることができます。信仰生活とは、形式や習慣ではありません。生きておられる神様と毎日出会うという「体験」です。この「体験」がなければ、いくら教会に長く通っても、無気力な信仰生活を送るようになり、問題にぶつかったときに簡単に落胆し、結局は教会を離れることにまでなってしまうのです。
モーセがイスラエルの救いの歴史の主人公として用いられることができたのも、荒野で神様に出会う体験があったからです。モーセはエジプトの宮殿で王子として育てられましたが、エジプト人を殺した罪で逃亡者となり、ミデヤンの荒野にて40年間羊を飼う仕事をしました。最も高い場所から、最も低い場所へと落ちてしまったのです。
モーセが80歳になって、完全に砕かれ、人間的な夢も野望も全て消え去ったとき、神様が彼を訪ねて来られました。そして、イスラエル人たちをエジプトの奴隷生活から救い出すようにとの使命をモーセに下さいました。モーセがその使命を果たすために、まず要求されるものがありました。それは、聖さでした。これはモーセのみでなく、聖書に登場する全ての神様の人に要求されることです。
臨在の場所へと進み出なさい
「すると主の使いが彼に、現れた。柴の中の火の炎の中であった。よく見ると、火で燃えていたのに柴は焼け尽きなかった」(出エジプト3:2)
モーセが荒野で羊を飼っていたところ、神様の山であるホレブ山に至り、そこで柴(しば)が燃えているのを見ました。ヘブル語で「スネ」と呼ぶ柴は、シナイの荒野の乾燥した地域でよく見られる灌木(かんぼく)科の背の小さな柴で、土地が加熱されると簡単に燃える特性を持っているといわれています。モーセが見たところ、柴に火がつけば普通は何分かで燃え尽きてしまうのに、今回はおかしなことに、火はついているのに、柴が燃え尽きませんでした。
「モーセは言った。『なぜ柴が燃えていかないのか、あちらへ行ってこの大いなる光景を見ることにしよう』」(出エジプト3:3)
柴は薪(まき)として使うのにも向いていないほど、木の中では最もみすぼらしくて使いどころのない木です。聖書のいう、このみすぼらしい柴は、苦難の中に立たされているイスラエルの民を象徴します。同時にこの柴は、神様から離れてしまった私たちの人生を表します。ところが、柴に火がついたとあります。この火は神様の臨在を象徴します。私たちの人生が棘(とげ)だらけの柴や雑草のようであるとしても、神様の火がつけば、驚くべきことが起こり出すのです。
柴に火がついたというのは、イスラエルの民に神様が臨まれ、共におられるという意味です。神様はエジプトから出てきたイスラエルを、昼は雲の柱で、夜は火の柱で導かれました。
「主は、昼は、途上の彼らを導くため、雲の柱の中に、夜は、彼らを照らすため、火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。昼はこの雲の柱、夜はこの火の柱が民の前から離れなかった」(出エジプト13:21、22)
真っ暗な闇の中でも、イスラエルの民は、火の柱が導くままについて行けば問題ありませんでした。私たちも同じく、絶望の夜を通過するとき、聖霊の火の柱が私たちを導いて、全ての苦しみに打ち勝たせます。神様の臨在を象徴する火は、私たちの心を熱くさせます。五旬節の日、マルコの屋根裏部屋に集まった120人の弟子たちにも神様の火である聖霊の火が臨みました。
「また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした」(使徒の働き2:3、4)
聖霊の火が臨んだとき、彼らの心は熱くなりました。心が熱くなった彼らは、キリストの福音を持ってエルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、世の中を熱くさせる人々となりました。私たちの心に神様の火、聖霊の火が燃え上がるとき、私たちは異言を語り、聖霊の賜物を受けて、イエス様を証しする人になるのです。
私たちはこう祈らなければなりません。「聖霊の火で私たちの心を熱くさせたまえ。この地にリバイバルの炎が下されますように」
また、神様の臨在を象徴する火は、罪と病とサタンを焼き尽くす火です。「私たちの神は焼き尽くす火です」(ヘブル12:29)
公州(ゴンジュ)大学に在職中のペク・ギヒョン教授は、声楽家であり、オペラの団長でもあって、「オペラ李舜臣」を制作したりもしました。ペク・ギヒョン教授は2歳の時、高い所から落ちてしまって脊椎結核により骨が腐り、くる病が進んで脊椎障がい者となりました。彼は高校の時から教会に通い始めましたが、いつも誰かが後ろから自分の曲がった背中を見て悪口を言っているようで、説教に集中できませんでした。
声楽でソウル大学音楽科および大学院を卒業した彼は、27歳の若さで大学教授となりました。誰が見ても大変な成功を収めていましたが、曲がった背中に対する劣等感は彼の心を離れず、いつも苦しみました。止まることなく成功街道を走っていた中、2005年に彼の人生最大の危機が訪れました。財政難と家庭問題など、さまざまな問題が1度にやってきて、彼を苦しめ始めました。
その時、彼のためにとりなしの祈りをしていた方が、彼にリバイバル聖会への参加を勧め、あまり気は進みませんでしたが聖会に参加することとなりました。ところが、そうして参加した聖会が、彼の人生の転換点となりました。聖会において聖霊の炎を受けた後、聖霊の力で背骨が真っ直ぐになるという驚くべき奇跡を体験したのです。ペク・ギヒョン教授はその時の状況をこのように話しています。
「私の意志とは関係なく腕、足、腰などが曲がり始め、50年余りの間不快だった背中の辺りが気分良くなり、背中の何かつっかえていたのが取れたのを感じました。私は、『恐れるな。わたしがあなたの曲がった背中を真っ直ぐにしよう』という神様の御声を聞きました。私の体は聖霊に導かれて捻(ねじ)られる現象が続き、聖霊はさらに熱く私の背中に触れてくださいました。早朝6時、涙、鼻水、汗でベトベトになった服を脱いで鏡の前に立ってみたら、曲がっていた私の背中が全て真っ直ぐになっていました。私は隣の部屋で寝ていた妻を起こし、妻は私の変わった姿を見ると、『神様が共におられるわ!』と叫びました」
聖霊の火はペク・ギヒョン教授の曲がった背中だけでなく、彼がかかっていた肝炎と斜視までも焼き尽くされました。
聖霊の火は病を焼き尽くすだけでなく、光を照らす力があります。火のあるところ、闇は消えていきます。不信の闇、絶望の闇、放蕩の闇、偶像崇拝の闇が退いていくのです。
神様は、モーセが火のついた柴の前に出て来たときに、モーセを呼ばれました。私たちも同じく臨在の場所へと進み出るとき、神様に会うことができます。
「主は彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の中から彼を呼び、『モーセ、モーセ』と仰せられた。彼は『はい。ここにおります』と答えた」(出エジプト3:4)
(イ・ヨンフン著『まことの喜び』より)
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【書籍紹介】
李永勲(イ・ヨンフン)著『まことの喜び』 2015年5月23日発行 定価1500円+税
苦難の中でも喜べ 思い煩いはこの世に属することである
イエス様は十字架を背負っていくその瞬間も喜んでおられました。肉が裂ける苦しみと死を前にしても、淡々とそれを受け入れ、後悔されませんでした。私たちをあまりにも愛しておられたからです。喜びの霊性とは、そんなイエス様に従っていくことです。イエス様だけで喜び、イエス様だけで満足することを知る霊性です。神様はイエス様のことを指し、神の御旨に従う息子という意味を込めて「これは、わたしの愛する子」(マタイ3:17)と呼びました。すなわち、ただ主お一人だけで喜ぶ人生の姿勢こそが、神の民がこの世で勝利できる秘訣だということです。
(イ・ヨンフン著『まことの喜び』プロローグより)
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