靴を脱ぎなさい
「神は仰せられた。『ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である』」(出エジプト3:5)
モーセが柴の火を見ようと進み出たとき、神様はモーセに「あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である」とおっしゃられました。旧約聖書を見ると、神様の人々は聖なる場所で靴を脱ぎました。モーセだけでなく、ヨシュアも靴を脱ぎました。
「すると、主の軍の将はヨシュアに言った。『あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。』そこで、ヨシュアはそのようにした」(ヨシュア5:15)
私たちは神様の御前で、飾らない本来の自分の姿を見せなければなりません。モーセは、モーセとなるために自分の靴を脱ぎ、ヨシュアもヨシュアとなるために自分の靴を脱ぎました。私たちも、私たち自身となるには靴を脱がなければなりません。
モーセとヨシュアが神様の御前で靴を脱ぐという決定的な決断を下す前は、彼らの信仰生活は単に立派な模倣にすぎませんでした。しかし、モーセとヨシュアが彼らの靴を神様の御前で脱いだとき、彼らは神様の人へと変えられました。
私たちも同じです。いくら長い間信仰生活を送ったとしても、まだ神様の御前で靴を脱ぐという決定的な決断がないなら、私たちの信仰生活はスイカの外側を舐めているだけのような信仰生活であり、沖に出ることなく浅い水辺で立派な信仰生活を眺めているだけの水準でしかありません。
ならば、なぜ私たちが神様の御前で靴を脱ぐと本格的に勝利できる信仰生活を送れるのでしょうか。神様がモーセに語られた御言葉を見ると、そこに答えがあります。
「あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である」(出エジプト3:5)
モーセが履いていた靴は、汚い世の中を渡り歩いた靴であり、人殺しの靴でした。荒野をさまよいながら懐疑と孤独、失敗と傷に染まった絶望の靴であり、使命に背いて荒野に隠れて過ごしていた逃亡者の靴であり、劣等感と傲慢(ごうまん)の靴でした。そんな汚い靴を履いたままでは、聖なる使命の地には入れません。
これからモーセは逃避の時代、さまよう時代に終わりを告げ、使命の新しい地を歩かなくてはなりません。それ故、古臭い靴、古臭い姿勢を大胆に捨てなければなりません。それは、まことの悔い改めのことです。
今日、私たちにも神様は同じことをおっしゃっています。「あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である」。神様は私たちに新しい使命を下さることを願っています。その使命を受ける前に、まず罪悪の靴を脱がなければなりません。
傲慢の靴、絶望の靴、恨みと不平の靴、不従順の靴、偽善の靴、自己愛の靴、貪欲の靴を脱がなければなりません。他人を言葉や行動で傷つけた罪の靴、赦(ゆる)せなかった罪の靴、ヨナのように使命に背いて逃げてしまった罪の靴、放蕩(ほうとう)と淫乱の罪の靴を脱がなければなりません。
私たちの住まう場所である主の御許は聖(きよ)いからです。聖い神様と共に生活し、共に安らぎを味わうには、私たちの汚い靴、垢まみれの靴を脱ぎ捨てなければなりません。神様の御胸に抱かれるには、私たちの先天的わがままや汚れた習慣を投げ捨てなければなりません。神様のおられる所は聖さで溢れているからです。それで神様は、その聖い主権を10の戒めとして整理してくださいました。
第1に、神様は私たちの心に関して聖なる主権を主張されました。「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」
第2に、神様は私たちの創造生活について聖なる主権を主張されました。「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない」
第3に、神様は私たちの言語生活に関して聖なる主権を主張されました。「あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない」
第4に、神様は私たちの時間について聖なる主権を主張されました。「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」
第5に、神様は私たちが住んでいる世の中の秩序に関して聖なる主権を主張されました。「あなたの父と母を敬え」
第6に、神様は私たちの生命に関して聖なる主権を主張されました。「殺してはならない」
第7に、神様は私たちの聖い肉体に関して聖なる主権を主張されました。「姦淫してはならない」
第8に、神様は私たちの経済生活と物質に関して聖なる主権を主張されました。「盗んではならない」
第9に、神様は私たちの名誉に関して聖なる主権を主張されました。「あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない」
第10に、神様は私たちの内的純潔と動機に関して聖なる主権を主張されました。「あなたの隣人のものを、欲しがってはならない」
これがモーセに下さった十戒です(出エジプト20:3~17)。
私たちが神様の御前で靴を脱ぐべき理由は、私たちを愛され、私たちを救われた神様が聖なる方であり、神様の創られた全てのものが聖いからです。
「あなたがたは聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから」(レビ11:45)
それで神様は、子どもである私たちにも聖くあることを求めます。「聖徒」とは、聖なる道に従う群れ、という意味を持っています。聖徒の喜びは、持っている物の多寡とは関係ありません。私たちが神様の子どもとして生きようとし、その方の御旨を喜ぶ子どもへと変えられるときに与えられるのです。
(イ・ヨンフン著『まことの喜び』より)
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【書籍紹介】
李永勲(イ・ヨンフン)著『まことの喜び』 2015年5月23日発行 定価1500円+税
苦難の中でも喜べ 思い煩いはこの世に属することである
イエス様は十字架を背負っていくその瞬間も喜んでおられました。肉が裂ける苦しみと死を前にしても、淡々とそれを受け入れ、後悔されませんでした。私たちをあまりにも愛しておられたからです。喜びの霊性とは、そんなイエス様に従っていくことです。イエス様だけで喜び、イエス様だけで満足することを知る霊性です。神様はイエス様のことを指し、神の御旨に従う息子という意味を込めて「これは、わたしの愛する子」(マタイ3:17)と呼びました。すなわち、ただ主お一人だけで喜ぶ人生の姿勢こそが、神の民がこの世で勝利できる秘訣だということです。
(イ・ヨンフン著『まことの喜び』プロローグより)
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