真理の神様と共に歩みなさい
キリスト者にとって、神様の喜びとなるかどうかは選択の問題ではありません。もしキリスト者として神様を喜ばせるよりも自分を喜ばせる人生を送っているなら、それは間違っているという程度ではなく、神様がご覧になるときに意味のない人生、無益な人生を生きているのと何ら変わりがないからです。
しかし反対に、自分自身にとっては有益な時間を過ごせなかったとしても、神様を喜ばせるために生きているなら、その人生は神様の御前で永遠に記憶されることでしょう。神様を喜ばせることこそ、キリスト者の最優先順位とならなくてはなりません。
聖書は、私たちが神様にとって喜びとなる人生を生きる方法は真理のうちに歩むことだと言っています。救われたことだけで満足し、真理を無視するのは、恵みを受けたキリスト者の妥当な反応だとは言えません。
私たちの中に、「私の人生は神様がご覧になるときに妥当なものだろうか。どうしたら神様の喜びを得られるだろうか」という悩みがあるなら、まず「真理のうちに行ったか」を考えてみればいいのです。
しかし、多くのキリスト者たちが誤解していることのうちの1つが、祈りをたくさんささげれば、神様が喜ばれると考えているということです。ここに韓国教会の悲劇が存在しています。
現在の韓国教会においては、祈りが足りなくて問題が起きているわけではありません。人生において失敗しているのが問題です。こういうふうに人生に失敗すると、いくら祈りと聖書勉強に励み、訓練を受けても、神様の栄光となることはできません。
預言者ミカが活動していた時期は、イスラエルが南と北に分かれていた時代で、神様の裁きの剣だったバビロンによる審判まであまり時間が残されていない時期でした。神様の審判はイスラエルの罪によるものでした。
当時は、ひと言で言って、真理を行う人生が失われていた時代でした。イスラエルの民の偶像崇拝は、神様が遣わした預言者たちの警告を受けてもやむことなく、結局神様に責められ、裁きを受けることとなったのでした。
それでは、真理、正しいこと、間違っていないことの基準とは何でしょうか。誰がこれに関する基準を定められるのでしょうか。聖書は、ただ義の源なる神様だけが正義の基準であると言っています。神様は他の何よりも公義と正義を行うのを最も喜ばれ、私たちが公義と正義を行いながら生きるのを願っておられる方です。
「わたしは、あなたのただ中から、刻んだ像と石の柱を断ち滅ぼす。あなたはもう、自分の手の造った物を拝まない」(ミカ5:13)
今日、私たちが生きている時代もまた、預言者ミカの時代とあまり変わりありません。真理を知っていると言いながら、実際には真理に沿って生きられない時代という点で、多くのところが似ています。
周りを見渡すと、私たちの心を奪うもので溢れているのを見ることができます。まことのキリスト者ならば、私たちの人生の中にある全ての偶像を手放さなければなりません。傲慢(ごうまん)、物質、世の名誉と権勢の偶像を手放し、真理のうちを歩まなければなりません。
もちろん、預言者ミカの時代のイスラエルの民も神様にいけにえをささげました。彼らは1歳の子牛(律法で最も尊いささげ物と規定)と幾千の雄羊、幾万の油など高価なささげ物を神様にささげました。
「私は何をもって主の前に進み行き、いと高き神の前にひれ伏そうか。全焼のいけにえ、一歲の子牛をもって御前に進み行くべきだろうか。主は幾千の雄羊、幾万の油を喜ばれるだろうか。私の犯したそむきの罪のために、私の長子をささげるべきだろうか。私のたましいの罪のために、私に生まれた子をささげるべきだろうか」(ミカ6:6、7)
このように多くのいけにえをささげれば、神様が自分たちの多くの罪を赦(ゆる)されるものと考えていたのです。彼らはまた、自分たちの尊い子どもも神様にささげました。しかし、このようにささげ物をささげても、神様は喜ばれませんでした。
神様が喜ばれるいけにえは、ただ正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神様と共に歩むことだったのです。
「人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに步むことではないか」(ミカ6:8)
神様は私たちのささげる礼拝を受け取られますが、毎日毎日神様と共に歩むという誠実な人生の方をもっと願っておられます。
(イ・ヨンフン著『まことの喜び』より)
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【書籍紹介】
李永勲(イ・ヨンフン)著『まことの喜び』 2015年5月23日発行 定価1500円+税
苦難の中でも喜べ 思い煩いはこの世に属することである
イエス様は十字架を背負っていくその瞬間も喜んでおられました。肉が裂ける苦しみと死を前にしても、淡々とそれを受け入れ、後悔されませんでした。私たちをあまりにも愛しておられたからです。喜びの霊性とは、そんなイエス様に従っていくことです。イエス様だけで喜び、イエス様だけで満足することを知る霊性です。神様はイエス様のことを指し、神の御旨に従う息子という意味を込めて「これは、わたしの愛する子」(マタイ3:17)と呼びました。すなわち、ただ主お一人だけで喜ぶ人生の姿勢こそが、神の民がこの世で勝利できる秘訣だということです。
(イ・ヨンフン著『まことの喜び』プロローグより)
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